こころの辞典2201-2297

2201
人間の精神の進化史を考えることができる。

(1)脳は自然をよりよく写し取る方向に進化した。しかしその過程には行き過ぎがある。ほんの少しだけ現実を「写しすぎる」、つまり逸脱がある。しかしその多様な逸脱の中に自然を正確に写し取り、人間の生存可能性を高める方向が含まれていることがある。そうした試行錯誤の結果として現在の人間の精神がある。
人間の精神が多少ではあっても妄想の領域に「にじみ出している」のは理由のあることだ。そこで試行錯誤が行われている。
そうしたファンタジーが集団として共有されるとき、文化になったり、宗教になったり、ときに国家になったりする。

(2)自然を写し取っていると表現するのは不十分で、性格には人間の生きる環境である。その中には自然そのものもあれば、人間が作ったものもある。人間が作ったものは、制度、慣習、文化、そうしたソフトなものから、都市、建物、そうしたハードなものもある。人間がつくり出したものであっても、次世代の人間にとってみれば、「あらかじめ与えられたもの」であり、それにうまく適応することが人の課題となる。単純に「変化しない自然」に適応するのではなく、自分達が作りだし時間につれて「変化する文化」に適応するのであるから、複雑である。

2202
Costa and MaCraeのパーソナリティの五因子モデル(NEO性格質問紙)(大野の紹介)
神経質 Neuroticism
外向性 Extraversion
開拓性 Openness
愛想の良さ Agreeableness
誠実さ Conscientiousness

「神経質」は、過敏で気持ちが動揺しやすく、ストレスを感じやすく、すぐに緊張し、罪悪感、怒り、悲しみなどの気持ちを感じやすく、自分の存在感に疑問を感じる傾向。
「外向性」は、外向的で社交的、活動的で、仕事にも勉強にも熱中し、一人でいるのが嫌いでできるだけ人の中にいようとする傾向。(循環気質のなかの一面であろう)
「開拓性」は、いろいろな面に興味を持って積極的に行動し、何をするにも自分なりの新しい方法を試してみようとする傾向。
「愛想の良さ」は、人と摩擦を起こすのが苦手で、他の人と調子をあわせて仲良く付き合っていきたいとする傾向。(ACと同じ。)
「誠実さ」は、几帳面で誠実で、高い目標を持って、一つ一つその目標を達成していこうとする傾向。

臨床場面で
「神経質」は一般的な適応力の予測に。
「外向性」「開拓性」は職場での適応力の予測。
「神経質」傾向が弱く、「外向性」傾向が強い場合は、心理的健康感に強い影響を与える自己価値が高まる。
「神経質」傾向が強いと、不安や抑うつを感じやすい。「神経質」傾向があまり認められない患者に強い不安や抑うつが現れた場合には、急性の精神障害を疑う。
「愛想の良さ」が低いと治療協力が得られにくい。
「誠実さ」が低いと動機づけはあるものの、自分から積極的に治療に取り組むエネルギーが欠けている。

精神療法の適応
「開拓性」が高い場合、夢分析ゲシュタルト療法がいい。
「開拓性」と「外向性」が低いときは内省的治療法、「外向性」が高いときは集団療法が有効。

心身医学領域で
「愛想の良さ」が低いと、敵対的な怒り、皮肉な態度や冷淡な態度が強くなり、冠状動脈疾患の発症が予測される。
この場合、「愛想の良さ」の性格因子が修正可能な程度ならば、性格変化を促進するアプローチを、修正不可能な程度ならば、血圧管理などの身体的治療が望ましい。

2203
Cloninger,C.R.の七因子モデル
まず新奇性追求、損害回避、報酬依存の三軸からなるモデルを提唱した。

・新奇性追求……脳の賦活系、つまり中脳から前脳へと放射されるドーパミン経路に基礎を持つ行動系。一方の極に興奮しやすく衝動的な行動。他方の極には禁欲的で融通性のない行動が位置する。細分化すると、
1)興奮を求める傾向(その逆はストイックで禁欲的な傾向)
2)衝動的傾向(逆は熟考する傾向)
3)浪費傾向(逆は節約傾向)
4)秩序を重んじる傾向

・損害回避……脳の抑制系、つまり脳幹からのセロトニン放射系等を基礎にした行動系で、一方の極には抑制的で警戒的な行動が、他方の極には自信過剰で向こう見ずな行動が位置する。細分化すると、
1)将来について心配し悲観的になる傾向(逆は楽観主義)
2)不確実性に対する恐怖
3)見知らぬ人に対して臆病になること
4)疲れやすさ

・報酬依存……懲罰を避け、報酬を求める行動系、つまり橋から上昇し視床下部辺縁系へと放射するノルエピネフリン系に基礎を持つ行動系。学習とも密接な関係を持っている。一方の極に感情的で野心的な行動が、他方の極に現実的で冷淡で頑固な行動が位置する。細分化すると、
1)情緒性
2)愛着
3)依存

そして新奇性追求、損害回避、報酬依存の三つのディメンジョンは、お互いに影響しあい、次のような行動特徴へとつながっていく。
1)衝動的・攻撃的ー柔軟性を欠いて気長
2)陽気ー陰気
3)用心深く権威的ー楽観的で自由
4)自己愛的ー自己犠牲的
5)受身的・回避的ー反抗的
6)大胆で騙されやすいー臆病で距離をとる

現在は彼は次の七因子で性格傾向を表現することを提唱している。
四因子は気質temperamentで、三因子は性格characterである。
気質は生物学的、遺伝的な要因が強く関与しているもので、視覚的空間的な情報と感情とによって構成されている無意識的な体験によって構成される。新奇性追求、損害回避、報酬依存、固執の四因子である。
固執は無理をしないで自然に生活を送るか、必死にがんばるかのの二極で捉えられる傾向である。
性格は環境の影響が強いと考えられる特徴で、言葉やイメージとして記憶される概念的な情報の影響を受けて形成される。自己志向、協調、自己超越の三因子である。

自己志向は、自分が選んだ目標を達成するために、適切な行動を適切な形でコントロールしながら行動していく能力。人格障害と密接な関係。特徴は、
1)自己責任と他人を非難する傾向
2)目的指向性の有無
3)臨機応変、問題解決におけるスキルや自信の発達
4)自己受容
5)第二の天性の啓発

協調性は、他の人との協調性で、人格障害では低くなる。特徴は、
1)他の人をどの程度受け入れることができるか
2)共感性
3)協力
4)同情心
5)自分を捨てて人のためを思う傾向

自己超越性は祈りや瞑想に関係した精神状態で、
1)物質的理解を越えた精神世界に関心を持つ傾向
2)自分を忘れて何かに没頭する傾向
3)トランスパーソナルな体験を受け入れる態度

ドーパミンD4リセプターの遺伝子の多型性と新奇性追求傾向の関係、セロトニン・トランスポーターの遺伝子の多型性と神経質傾向の関係。

2204
神経症
人間の行動は、限られた行動パターンのセットから、状況に応じて選択して行動している。
つまり、?プールされた行動パターンのセットと?行動選択部分に分けられる。
神経症は主に?の部分の欠陥である。

ある意味ではフロイトの指摘するように、幼児体験を反復している。
しかしまた、どの場面でどのパターンを選択するかについては、成熟が見られる。

2205
Cloninger,C.R.の七因子モデル

?新奇性追求……脳の賦活系、つまり中脳から前脳へと放射されるドーパミン経路に基礎を持つ行動系。一方の極に興奮しやすく衝動的な行動。他方の極には禁欲的で融通性のない行動が位置する。細分化すると、
1)興奮を求める傾向(その逆はストイックで禁欲的な傾向)
2)衝動的傾向(逆は熟考する傾向)
3)浪費傾向(逆は節約傾向)
4)秩序を重んじる傾向

?損害回避……脳の抑制系、つまり脳幹からのセロトニン放射系等を基礎にした行動系で、一方の極には抑制的で警戒的な行動が、他方の極には自信過剰で向こう見ずな行動が位置する。細分化すると、
1)将来について心配し悲観的になる傾向(逆は楽観主義)
2)不確実性に対する恐怖
3)見知らぬ人に対して臆病になること
4)疲れやすさ

?報酬依存……懲罰を避け、報酬を求める行動系、つまり橋から上昇し視床下部辺縁系へと放射するノルエピネフリン系に基礎を持つ行動系。学習とも密接な関係を持っている。一方の極に感情的で野心的な行動が、他方の極に現実的で冷淡で頑固な行動が位置する。細分化すると、
1)情緒性
2)愛着
3)依存

?固執は無理をしないで自然に生活を送るか、必死にがんばるかのの二極で捉えられる傾向である。
性格は環境の影響が強いと考えられる特徴で、言葉やイメージとして記憶される概念的な情報の影響を受けて形成される。自己志向、協調、自己超越の三因子である。

?自己志向は、自分が選んだ目標を達成するために、適切な行動を適切な形でコントロールしながら行動していく能力。人格障害と密接な関係。特徴は、
1)自己責任と他人を非難する傾向
2)目的指向性の有無
3)臨機応変、問題解決におけるスキルや自信の発達
4)自己受容
5)第二の天性の啓発

?協調性は、他の人との協調性で、人格障害では低くなる。特徴は、
1)他の人をどの程度受け入れることができるか
2)共感性
3)協力
4)同情心
5)自分を捨てて人のためを思う傾向

?自己超越性は祈りや瞑想に関係した精神状態で、
1)物質的理解を越えた精神世界に関心を持つ傾向
2)自分を忘れて何かに没頭する傾向
3)トランスパーソナルな体験を受け入れる態度

2206
SSTの診断の実際例
・職場であいさつができない
○あいさつの言葉が頭の中にあるのに、うまく話せない→発信機能障害→リバーマン流発信練習
○あいさつの言葉自体が頭に浮かばない、どんなあいさつが適当なのか状況判断ができない→処理機能障害、状況意味失認→SST独自の状況によらず使えるあいさつを工夫する

・昼休みに世間話ができない
○相手の言葉が頭に入ってこない→受診機能障害→落ちついいて注意を集中する訓練
○何を話しているかだいたいは理解できるが、自分が何を言うか、何も思い浮かばない→処理機能異常→相手が何を言っているかちきんと理解できなくても会話が流れるような工夫
○自分が何を言いたいか、言葉が頭の中にあるのに、うまく話せない→発信機能障害→リバーマン流発信練習

・金を貸せと言われて断れなかった
○言葉が頭に浮かばない→処理機能障害→状況にかかわらず断れるような工夫
○言葉があるのに言えない→発信機能障害→リバーマン流発信練習

など

2207
神経症について
神経症は不適切な行動パターンで現実に対処しようとするときにおこる不都合である。強迫、離人、パニックなど。こうした?特異的な行動パターンと、いわゆる?神経衰弱とを区別したい。あるいは(心的エネルギーの枯渇状態……神経衰弱の本質を軽うつ状態と考えてよいのかもしれない。)

精神病状態の時に特異的な行動パターンを出してしまうことがある。たとえば分裂病強迫症状。一般に不適応状態の時にいろいろな行動パターンを試す。精神病状態は非常にはなはだしい不適応状態である。
パターンの出し方には個人の癖がある。

このように仮定すれば、「不適応→症状」であるから、症状をターゲットとして治療するのは間違いであることが分かる。「不適応」を治療すれば、症状は消える。
症状は結果であり、不適応が存在することのサインである。

アナフラニールはなぜ有効か?→うつがあるから。
強迫症状を呈する人は、根本的にうつ状態に傾きやすい人が多いのではないか?病前性格としてうつに親和性の高い人が強迫行動パターンを選択しやすいのではないか?
不適応→うつ→強迫パターン

(→MAD理論とはまったく食い違うようだ。しかし、だからこそ、いろいろな成り立ちの強迫行動があると考えられて好都合である。)

2208
老人介護の市場規模は四兆円と見積もられる。
精神医療とは桁が違う。分裂病社会的入院を中間施設で支えるとして、デイナイトケアで計算すると、10万人×30万円×12ヶ月=0.36兆円。
老人の約十分の一。

2209
依存症
酒が切れなくて困っている人。覚醒剤が切れなくて困る人。ギャンブルが切れなくて困る人。恋愛または性関係が切れなくて困る人。同質性がある。

2210
自己負担分が増えるということは、金の切れ目が命の切れ目であることを意味する。

2211
心豊かな老後とは何か。

2212
現代では
・障害を持つ人々に対する支援が、父権主義(パターナリズム)から消費者主義(コンシューマリズム)に移行しようとしている。
・修正の医学から発達支援のリハビリテーションに医療の重点が移行している。

2213
疾病性とそれに罹患した人格構造を分けて考える。発症に対する反応、治療関係の結び方、障害の受け入れ方など、疾病性と人格傾向を分けて対応した方がよい。
この指摘は、当然であるが現在あまり重視されていない。医療技術として大切な視点である。
また精神科にとどまらず、人間を扱う場面では必ず役に立つ。患者の性格分析と、職員の側の性格分析をセットにして考えれば、実りは大きいのではないだろうか。

2214
魔術的思考から科学へ
科学が未発達な状況では、思考過程は魔術的であったり呪術的であったり、総括していえば前科学的なものであっても、最後の行動は科学として正しいという場合がある。
思考過程を仮説と表現すると、
仮説→行動
行動の検証は実際の効果によって測ることができる。たとえば狩りの場面でどれだけ獲物が捕れたか。またたとえば、どの症状の場合にどんな薬草が効くか。
行動を検証すれば、それは仮説の検証にもなる。
このようにして鍛えられた仮説の集積が科学である。ということは確実性が極めて高いとしても、やはり仮説である。
たとえば漢方の薬剤の選択の仕方(証)などは、なぜそのような証が選択され役立つのか合理的な理由がはっきりしないが、結局ある程度は有効であるということになっている。結果が仮説の有効性を実証していることになる。
では、他の証の体系を用いてはどうか?別の仮説の体系は可能であるか?そのようなことも興味がある。

「縁起を担ぐ」ということもこうしたことの延長にある。理由は分からないながら、何か縛られる感覚だろう。

魔術的思考自体は病気ではない。「空想産生機能」である。問題はそれを現実と照合して棄却する機能である。

2215
象徴的解釈の臨床的意味
たとえば両親の理不尽な言いつけをどうしても受け入れることができないとき、水を飲むことができなくなったとして、「(親の要求を)飲み込めない」と解釈する。言葉で拒絶するのではなく、身体を通じた言語として、「飲み込めない」と発信している。
荻野などが紹介していたと記憶する。こうしたことに何の意味があるか。
症状が象徴的な意味を発しているとは、昔の考えであるように思う。
しかしながら、患者に対して、治療者がそのような理解に達していることを伝えることには大いに意味があるだろう。こうした類の解釈は患者の心を傷つけることがないだろう。むしろ、治療者によく理解してもらっていると感じることができるだろう。
患者がこのような肯定の感情を持つためには、解釈はなるべく患者の常識に寄り添ったもので、しかし患者の常識よりはすこしだけ高級であるのがよい。このような解釈が提示されたとき、患者はもっともよく治療者と連帯を感じるだろう。
患者に理解できない解釈はこのような意味では役に立たないだろう。

現代の神経症病像は疾病利得のあることが容易に理解されるようなものが多いと思う。象徴的解釈などは必要ない場合が多いのではないか。これは時代のせいか、わたしの診察してきた患者の特性であるか。

2216
周囲の人間に理解されない苦しみが症状を生み出すとする指摘。
これはてんかん性格について指摘されたことであるが、それだけではない。分裂病の場合にも、発病した後に「病気を抱えて生きるための適応」を患者は探る。周囲の無理解にもかかわらず生き抜くためにはどうすればよいのかを探る。
そんな中で、「特有の性格」が形成される可能性は大いにあるだろう。

2217
「ひとつの場所で十年修行しなさい」という言い方について
人間はいろいろな経験をした方がいいに決まっている。アメリカではいろいろな場所でいろいろな仕事をいろいろな人としたことが積極的に評価されるともいわれる。なのに日本で「十年じっとしていなさい」などといわれるのは、これまでの社会のあり方と関連している。
人間の中身で評価するのではなく、組織にとって都合のよい人間かどうかということが評価される。そのような社会では十年もじっとしている人は、組織にとって安全であることが証明済みの人ということになるだろう。
つまりしきたりを墨守する性格が評価されている。それだけのことだ。

2218
ひとり暮らしの老人の暮らしをどうするか。身体と精神と。

2219
若くして前頭葉機能が衰えている人
「仕事一筋、趣味や生き甲斐がない、交友は苦手、運動もしない」タイプの人がボケることが多い。
ひょっとしたらこうしたタイプの人はすでに前頭葉機能が衰えてしまっているのではないか。長年親しんだ仕事だからできているだけ。主婦ならば長年親しんだ家事だからできているだけ。
変化を嫌い、変化を恐れる。創造的なことができない。新しい試みにわくわくすることがない。これは年をとらなくてもいくらでも見受けられることだ。

2220
前頭葉機能の衰えと改革派対保守派
コンピューターモニターに数字をランダムに表示する。9の後に0が出たら、ボタンを押すように指示する。こうしたContinuous Performance Testを実施すると、健常者と陰性症状を呈する慢性分裂病者とでは違いがある。反応時間の変動のようすを比較する。健常者は、たくさん正解を出すことと、間違えて押すことの間で、試行錯誤しながら作戦を少しずつ変える傾向がある。つまり判断基準を変化させながらテストに臨んでいる。一方、慢性分裂病者はそのような変動がなく、試験の最初から最後まで一貫していることが多い。
さて以上の結果は慢性分裂病者にだけあてはまるものでもないだろう。試行錯誤しながら最高の結果を求める。これが人間の前頭葉の働きである。少しずつ作戦を変えて最適解を求めることを嫌う人たちがいる。硬直化している。
世の中は前頭葉を働かせている人たちと、旧習を墨守する人たちとの綱引きである。
試しにやってみればいいではないか、たったそれだけのことが、とてつもない爆弾発言のように聞こえることがあるらしい。人間はさまざまである。

2221
強迫における魔術的思考
「偶然パッと思いつき、過剰にとらわれる思考、あとから考えるとまるで魔法にかかったかのように思われる。」と雑誌の解説にある。(こころの科学1997-9月号「強迫性障害の現在」)
魔術的思考とは、「外界を物理的にコントロールする魔術的な力がある思考」のことである。通常は考えただけでは外界は変化しないが、強迫症者の場合には自分の考えが外界に物理的な影響を及ぼすと考えることがある。この延長にサイコキネシスなどがあるのだろう。縁起を担ぐ、ジンクスを気にするなどはこうした例である。また、祈ることや儀式などもこの系列である。
行為と目的の間に合理的な因果関係がなく、前科学的な関連があるのみである。たとえば呪術的な関連があるのみである。
たとえば大漁の歌を歌えば大漁になると信じる場合。

2222
貴の花が優勝決定戦で二度、同部屋の力士に負けていること。負けたと考えてもいいが、優勝をプレゼントしたとも思える。
強い者はそんなこともできる。それが余裕である。
また、能力のあるものはそうすることによって、周囲のものを感服させることができる。いじめて屈服させるのではなく、そのようにして尊敬させることができる。それが高級な攻撃性の例である。攻撃性といっては誤解があるのであれば、そのような行為を通じて順位が決まる。それが人間としての格になる。

貴の花については「エディプスの光景」という話も展開できる。

2223
コンピューターソフトの使い方の本がベストセラー。精神病も痴呆も需要はあるはずだと思う。
絵を多用して、きれいにつくる。
分かりやすく役立つように。コンピューターの本の見事なグラフィック!時代はどんどん進んでいるのだ。精神関係の本がいまだに活字中心で、ときどき挿し絵というのは間違っているのではないか。分かりやすい図や表、模式図をどんどん開発する必要がある。それは自分の理解を深めることにもつながる。

2224
精神病について伝えたいこと
●実践的に
・どんな病気か(典型的な例、経過)
・どんなときに疑うか(受診すべき例、家族や部下の様子を見て、疑うべき時は?)
・どのようにして初診するか、どこを訪ねるか(説得が難しいとき、受診に抵抗感があるとき)
・治療はどうなるか(薬の話、精神療法の話、最近のストレスケアの動向)
●理論的に
・病気のからくりの議論(いくつかの理論)
・精神病を通してみた人間と社会(芸術、プレとトランスの錯誤)

2225
人の心に影がある。または陰。
そうした部分に目配りができるからこそ専門家である

2226
わたしの言葉を説明の言葉として充分に生かしたいなら、もっと丁寧なパラフレーズが必要である。自分では常識と思っていることも、読者には常識ではない。自分には自然な論理の流れも、読者にとっては飛躍である。
文章として力が出るのは、飛躍や省略が自在に現れているときだと思うが、それでは詩とはいえても、説明のためのよい文章とはいえない。

もっとやさしく書くことが大切。平易に。概念の説明を適切に入れる。論旨の展開を平明に。具体例を適切に入れる。

内容の水準を落とさずに分かりやすく説明することは、プロの仕事である。

2227
謙虚に反省してみる。わたしは黒宮先生を内心軽蔑している。自分とは違うのだと思って差別している。ひいてはわたしは黒宮さんとは別の処遇を受けるのがふさわしいと内心確信している。
彼は外見からして奇異である。話をすれば吃音がひどい。話の内容は深みがなく、大人が話すのではないような浅薄な言葉だけである。鈴木さんの顔色をうかがって子分を演じている。自我の内容が薄まって、何が彼なのか、ほとんど消えかかっているようである。黒宮の気分でなく、鈴木の気分が分かるのだ。
机の上には未整理のままいろいろなものが積まれている。
妻の実家の経営する精神病院に院長としてしばらく勤務したが追い出された。子供が三人いる。離婚はしていない。中村先生によれば、東京都内の病院に勤めていたときに鈴木さんと知り合った。その病院の勤務も、最初は何とかやっていたがそのうちに「机の上みたいに収拾がつかなくなり」辞めた、または辞めさせられた。「そのうち混乱がひどくなって辞めることになるでしょうとその病院の院長が話していましたよ」と中村さん。
確かに強迫系統の男性の持つ不潔な外貌、変な笑い声。マニックディフェンスと分析されるであろう笑い声。一見して分裂病の既往を予想させられる。あまりに幼い。そして鈴木さんに依存的である。これではいくら娘婿でも追い出されるだろう。しかし結婚した時点ではあまり問題は表面化していなかったので、結婚は成立して病院も任せたいという話になったのだろう。しかしその後おそらく再燃状態があり、問題が表面化して、病院からは去ってほしいということになったのだろう。複数の課題を抱えるとパンクするタイプなのだろうと想像する。
理屈抜きで気味が悪いのだ。近眼のせいか目つきが悪く、ときどき空笑のような表情がある。無論のことだが頭も悪い。浜松医大卒。現在は週末だけ静岡に帰る。それ以外は単身赴任で病院内の寮みたいな宿舎に住んでいる。話によればその部屋も大変な散らかりようだということだ。
将棋が好きで強いとか言っていた。机の上に将棋関係のダイレクトメールがのっていることがある。
いじめっ子がいじめたくなる気持ちはこんなものだろうか。差別と排除。生理的なレベルの嫌悪。いじめる側の気持ちとしてこのようなことを新聞で読んだような気がする。

このような人と同じ医師という目で見られるのはとても嫌なことだとずっと思っていた。生理的嫌悪といってもよい。悪しきエリート気分といってもよい。こんな汚い馬鹿と、しかも病気の医者とどうして同じなものか、ばかばかしい!と思っていた。いまもそう思っている。同僚と呼ばれるのも嫌だ。当直して彼が寝たベッドで寝るのも嫌だ。シーツは交換してあるとしても、である。
分裂病欠陥状態の人が黒宮さんと面接をする。一体何の意味があるのだろう。「こんな医者に診察されるようになったらもうおしまいだ。もっとまともな医者に診察してもらいたい」と思うのが普通であろう。
外来診察をしても、普通の患者ならばもう通院したくないと思うだろう。たとえばクリニックを開いたとしても客はつかないだろう。
こんなひどい病院だからこそ、黒宮さんも勤務していられるのである。患者は医者が嫌でも拒否できない。あるいは、嫌だという気持ちを持つことさえ剥奪されているような人たちが患者である。

わたしがこのような気持ちでいることを感じているならば黒宮さんも気分が悪いだろう。上に上げたようなことはどれも黒宮さんの属性ではあるが、彼の責任とはいいがたい。むしろ彼にしても、できるなら捨てたいと思っていることであろう。「治療してくれ」と思っているかもしれない。しかし現状ではどうしようもないことだ。
こうしたことは「分裂病者は周囲の人に嫌われる」ということの典型例である。病気だと分かっていても、なお、人は彼を嫌う。なぜかと考えて理由は分からない。嫌われなければ特に病気だとも言われないのであろう。ダウン症児は病気とは言われないですむ。愛情にみちた交流が可能であるから。分裂病者のようには嫌われない。何が嫌われる要素なのか。やはり他人の気持ちが分からないことであろう。人の気持ちが分からない人には嫌な思いもさせられる、それは当然のことだろう。
わたしは黒宮さんに対して治療的にも愛情的にもかかわっていなかった。排除の心だけであったと思う。それは生理的な嫌悪に起因していた。
この業界の専門家として勉強もし仕事もし、教育までしていながら、それでもなお彼をこのように処遇したのである。
謙虚に反省する。それは大事だ。しかしまた一方で、こうした反応は人間として根本的なもので、たとえば腱反射と同じくらい根源的な自動的な反応ではないかと思うところもある。人は蛇を恐れるように分裂病者を嫌うのである。そのような心の回路が人間にはある。生得的なものか、文化の中に埋め込まれたものか、おそらく両方の要素があると思うけれど。

こうしたことも非寛容の一種であろうか。一応の自覚はできたとしても、反応はとめられない。
むしろこのような反応が出ない場所に自分をおくことが大切なのだと思う。これ以上倫理的な過失を犯さずにすむようにしたと願うなら。
このような人に対してこのような反応を呈してしまうのはわたしとしては仕方のないことかもしれないのだ。美しい女性に対しては好感を持つ。それと同じくらい原始的な反応であると感じる。

黒宮さんを差別し嫌悪することは一般化して言えば、分裂病者が差別され嫌悪されるという問題である。これは難問なのだと実感できる。

たとえば心理の横井さんについて、「自分の病気を治してから来なさいよ」との意見がある。そのように嫌われるのである。

2228
分裂病の異種性
・メジャーが効くという点では単一性がある。しかしこのことは原因の単一性を意味しているとは限らない。症状の共通性を意味しているだけかもしれない。

2229
分裂病で何が起こっているか?
・何が起こっているか分からないのは本当に不思議だ。
ドーパミン系の変動は原因かもしれないが結果かもしれない。メジャーはドーパミン系に作用しているとして、結果の部分を調整しているのかもしれないし、ドーパミン系を修復系と考えて、メジャーは生体の修復系を賦活していると考える人もいる。
・脳に何かが起こっているとして、起こりうることはそれほど沢山はないように思うのだが。

2230
分裂病発症のリスクファクターが議論されている。しかし、発症しても、その後ディフェクト状態になるかどうかはまた別のリスクファクターがあるのではないかと疑われる。
再燃を反復しても、欠陥状態にいたらずにすむ条件があればよいと考えられる。
欠陥状態阻止因子の研究があってもよいのではないか?

2231
一卵性双生児でも、ゲノムが全く同一ではない場合がある。受精以後に双生児の一方に生じたゲノムの変化と考えられる。

2232
(岡崎祐士)分裂病を多因子遺伝が想定され、環境側のリスクファクターが神経発達と心理発達とに影響して、多段階的に発症にいたる疾患と考えている。

2233
(岡崎祐士)Crow(1996)はWHO多センター研究が世界的に分裂病の発生率は均一であることを示したと解釈し、分裂病の起源は優位大脳半球の言語システムの発生分化と同時期であるとした。
一方Murray(1996)は同研究のセンター間差異に注目し、分裂病が200年前の都市密集が進んだ頃から増加した疾患であり、そういう条件が消えつつある所では、減少している疾患でもあるとの見解を示した。

2234
インシュリン依存性糖尿病(IDDM)と慢性関節リュウマチ(RA)は分裂病罹患と負の相関を示す。

2235
(岡崎祐士)
人生早期の脳損傷部位が、成熟によって神経回路網に組み込まれる時期(青年後期から成人初期)になると、損傷による障害が露呈するという、分裂病の神経発達論的成因仮説(Weinberger,1987)が提唱された。
一方、汎成長不全、運動機能制御障害、覚醒異常(低または過覚醒)、注意・情報処理障害、分裂病質的行動(過緊張、自信欠乏、他者の批判に過敏、引きこもりなど)など、潜在する神経病理の弱められた表現が人生早期からすでに認められるとする仮説も提唱されている。

2236
移植医療のケアでの精神面のサポート。
ターミナルケア
心のケアを考える限り、精神科医の働き場所はいろいろある。

2237
分裂病者の人生の意味。常識さえなく、妄想に支配され、精神病院で時間を送る人生は、何の意味があるのか?
?その奥には無傷の魂がある。
?どうせすべての人生は無意味で無価値である。分裂病者だからといって何の違いがあるわけでもない。

2238
他罰的で病識のない患者さんの処遇のむつかしさ
女子病棟の大神さん、37歳。主人と娘がいる。主人は仕事が忙しい、娘は母親と会うとそのあと気分がすぐれなくなるというわけで、あまり面会に来ない。できればいつまでも入院させておいてくれ、それがだめなら、死ぬまでおいてくれる病院を紹介してくれ、それもだめなら自分で探すから、紹介状だけは書いてくれ。そんな具合で、前主治医と看護とは主人を厳しく責めた。主人も態度を硬化させた。大神さんは自分が嫌われていることへの反省はなく、ただ主人と娘はひどいと言い続けている。主人は、一度離婚歴がある。二度目になると昇進は止まってしまうという。だから離婚はしないのだとのことだ。こうした状態でわたしの担当になった。
・結局北風では前進しない。太陽になるしかない。
・すぐなにがなんでも退院という方針は撤回する。そのかわり、月に一度は面会して、週に一度は電話、娘はなるべく連れてくることを約束してもらう。(この約束については結局、大神さんのほうが拡大解釈して、もっと来い、と命ずるような態度になった。はっきり言って自分勝手で、これでは嫌われてしまっても無理もないと思う。長くなれば主人も優しくばかりはしていられない。そんなことも考慮しないで自分のことを大切にしろとばかり言い立てるのだから、嫌われる。これは症状か性格か難しいが、こうしたら嫌われるということを理解できないから症状であろうと思う。嫌われることを承知の上で、自分としてはその方が好みだからというのなら、それは性格である。)
・時間をかけて、妥協点を探るしかない。
・娘に遺伝している可能性は考慮する必要がある。娘が自分の発病について考えた場合、母親の処遇がそれほど悪くなければ、病気になっても私も母のようにみんなに優しくしてもらえるのだと安心できるだろう。逆に、母親の扱いがとても悪ければ、私もあのようになってしまうのかと絶望的になる。だから娘が可愛いなら、母親の扱い方も考えた方がよい。捨てておいたままでは娘の心の傷になるだろう。
・職員は人間として患者にどのように接するのがよいか、主人に見本を提示することだ。モデルを提示して、このようなことが現実に可能であることを証明する。愛の力で貧しい心に勝つのである。こうしたことはすぐには果実として実らなくても、人の心のどこかで次第に大きく育つものではないか。
・職員が怒って強硬に対するから、主人も自然と強硬になる。そういう相互性がある。職員の側でイニシアチブをとって、立派な態度を崩さないことが大切である。職員の側でミーティングを繰り返し、集団で支え合っていけば、無理なことではない。これを個人で支えようとするとかなり無理が生じるだろう。

2239
人が二本足で歩く限り、腰の障害発生は必然である。同様に、人が人である限り、妄想発生は必然である。知恵を発達させ、知識を増大させるには、空想を生成し、それを現実と照合しつつ取捨選択する必要がある。脳のレベルで適者生存と試行錯誤を実行している。
抗精神病薬で妄想を抑えることは、歩行でたとえれば二足歩行の人を四つ足に戻すことに等しい。
細かく言えば「空想産生の障害」ではなく、「現実照合の障害」である。したがって、空想産生を抑えるタイプの薬は病理そのものに効いてはいないのだ。

2240
能動性と現実感
作家として有名なオリバー・サックスがテレビで。嗜眠性脳炎で長い間寝ていた女性が、Lドーパ投与により急に元気になった。寝ていた間世間で何があったか、覚えてはいる。しかしそれが本当に起こったことという実感には乏しい。今がいつかも覚えているが実感を伴っていない。
こうしたことは寝たきりでいて能動性が剥奪されていることと関係があるのではないか。

2241
本の広告から
「心をいやし、命を支える」心の傷はどうすれば癒すことができるのか。
問いは存在するが、答えは難しい。それぞれの傷のレベルに応じて、それぞれの心の環境に応じて、ということだろう。

2242
食事を一緒にとるということは、家族だということだ。

2243
老人の場合も、役割が大事。社会に参加する手がかりである。

2244
テレビで。子供の強迫性障害が増加しつつあるという。なぜか。対策はどうするか。

2245
分裂病とは何か。
説明しようとして大変困る。みんな定義しようとして研究しているのである。病気の定義すらあいまいな病気など、本当に困ったものだ。リュウマチなどは長い間こうしたものであったが、現在では臨床的な症状の他に、免疫学的マーカーが手がかりになる。
実体がまずあって、原因を探すという段階にすら至らないのだ。何が実体であるか、それは定義の問題である。しかしそのためには原因が分からないと話が進まない。しかし原因を特定するためにも定義がはっきりしていないといけない。
定義がはっきりしていないと、疾患として雑多なものを含んでしまう。統計処理しても意味のある結果が出ない。
例えば、ダウン症を精神発達遅滞と大きく括ってしまっては、ダウン症特有の病理は検出できない。精神発達遅滞者の染色体にすべて異常があるわけではない。
ダウン症と限定できたことと、染色体異常の検出とは、表裏一体であったともいえる。

実体がどうなのか、確かにあるようで、しかしあやふやなようで。社会的にレッテルを貼ったものに過ぎないとの議論はやはり一考に値するのではないか。

たとえば、赤い色とは何か。
人間の習慣として定めたに過ぎない。

科学的測定により操作的に定義できるか。

2246
精神病と神経症
例えば対人恐怖があり、「あの人は本当はぼくに悪意は持っていないけれど、ぼくが敏感すぎて、恐くなってしまう。そんなはずはないと分かってはいるんです」というタイプは神経症レベル。
「あの人は本当にわたしに悪意を持っている」と確信しているのが精神病。
しかしこうした区別はあまり国際的ではない。
神経症は偉大だったフロイトの遺物である。

神経症は、病態レベルとして定義する方向と、病因として心因性であることを定義とする方向とがある。
架け橋として、防衛機制の議論がある。神経症防衛機制は自身の心内現実をねじ曲げる。精神病的防衛機制は、外的現実をねじ曲げる。この区別はそのまま病態レベルに重なる。
しかし、心因性だから神経症防衛機制を使うとはいえない。ここに確かな因果関係はないようだ。
どのような防衛機制を用いるかということは、結局、「袋に穴があいているかどうか」ということだろう。

科学的測定により操作的に定義できるか。

2247
例えば、心理学の本や心のメカニズムの本、癒しの本を本屋さんで十冊くらい買って読んでみるとする。
みんな同じようなことが書いてあることが分かるだろう。キリスト教徒仏教とイスラム教くらい違えば、みんないろいろだなと思うけれど、精神科や心理学はそんなに極端には違わない。特に一般の人向けに書かれたものはみな似ている。

つまり情報の重複があるだけである。正味の情報はそんなに多くはないのだ。

それなのに沢山の本。それは結局「語り口」の問題である。同じ歌が何度もいろいろなな歌手によって歌われているようなものだろう。

2248
急性病から慢性病へ。それにともなって治す人から支援する人へ。アドバイザー。そして患者中心の医療。

2249
書店で。こんなにも沢山の本。
「解剖学の時間」養老著→「精神医学の時間」としてあれこれ書ける。
精神科医とはどういう人間たちか。
精神科研修医はどんなものか?
精神科医療の実際はどうか?
みんなが不思議に思っていること。
異常とは?わたしは異常?何が病気なの?
専門用語をナマに使うのではない解説。
なぜ精神科医になったのか?(自由意志の問題を深めたい)

妄想について。妄想は日常の我々とは無縁か?(そうではなくて、微妙に日常に「染み出して」いる。被愛妄想と恋愛妄想。現実と照合してチェック・却下する機能が問題。妄想産生は悪くない。チェック機能の障害が問題。)

鑑定。なぜ精神鑑定が分かれるのか。それは主観的な意見でしかないのか。

文学に描かれている精神病者は本物に近いのか?別物なのか?

人々の興味に寄り添うセンス。こんな風に話せば興味を持ってくれると分かっていることが大切である。

中心になる「オリジナルで説得力のある切り口」が大切。養老さんなどは「唯脳論」一本で押している。
そんな切り口が世間の人には新鮮で説得力があったのだ。

医学という切り口と、心理学という切り口がある。

精神病理を論じて現代を切る。社会批評におよぶ。これがひとつの典型的論点。

2250
なぜ精神科クリニックにも精神病院にも絶望したのか。
なぜ精神病者に絶望したのか。それは家族の絶望と共通するものがあるのではないか。

2251
人の欠点ばかりが目につき、人をほめられない人。これは自己嫌悪の人に多い。反対に他人に対して基本的に好意的態度を持っている人は、自己嫌悪が少ない。自己受容ができている。従って、まずあるがままの自分自身を受け入れることを学ぶ。自分で自分が気に入ること。
私の場合には、自己肯定も強いが同時に自己否定が強い。両方ともとても強い。自己肯定と自己否定は同居しうるのだ。

2252
宮大工の棟梁の話から精神療法やACの話。
木は、風に抗して立っているから、まっすぐ立っているように見えても、内側に「ねじれ」を宿している。そうした素性を見抜いて材木を使う。例えば、植えられた場所によってねじれが違うことを利用して、逆のねじれの木を組み合わせて使う。すると内在するねじれが打ち消しあって強い構造をつくる。

これは人間の心の場合にもいえる。
家庭状況や身体条件によるストレスがあって、それでも心理的にまっすぐに育つ人は、それだけ大きい歪みを内在させているといえるかもしれない。ストレスの大きさに応じて曲がってしまった方が、むしろ素直である。余計なものを内在させていないと考えられる。
だから、治療者の立場でいえば、生育の状況に応じて曲がった人は心理療法の必要もない。内部はまっすぐだからだ。風が吹いていたから、それに応じて曲がっただけである。一方、成育状況がつらいものであったにもかかわらず、立派に育った人は、それだけ「ねじれ」を内在させていると考えられる。こうした人の方が病気は深い。強い風にも曲がらないだけの生き方をしてきた。強い北からの風に抗してまっすぐ伸びるためには、内部で北に向かう力をかけなければならない。風の力と内部の力が拮抗してはじめて、まっすぐに育つ。結果としてはまっすぐであるが、内部の力学としては非常に片寄った力がかかっているのだ。それが内部の歪みとして蓄えられることになる。
そうした人を北風のない場所におくと、どうなるか。内部の歪みと拮抗するだけの外力がないから、次第に曲がってゆくのだ。このあたりを自動調整できる人はよい。しかし歪みが大きい場合には調整できないことがある。その人は北風があってはじめて安定するのだ。
こう考えると、まっすぐな木やまっすぐな人はつらい。
人間の場合には、自分の内部にそのような「ひずみ」があるのだと自覚できるだけでずいぶん違う生き方ができるようになる。何か訳の分からない力に翻弄されている無力な感じから抜け出ることができる。

人と人とを組み合わせることにも、こうした「内在するねじれ」を考慮したい。

ACの議論はこうしたことと似ている。親が親としての機能をうまく果たしていない家庭であるにもかかわらず、「いい子」として育つ。そのうちに「ひずみ」を内在化する。これは風に抗して立つ木と同じである。思春期に至り、「機能不全の親」がいなくなると急に不安になる。それは内部の力と拮抗するだけの北風が必要だからだ。そして自分が安定できる場所を求める。それはアルコール中毒の夫であったりする。そしてこのような内在する「ひずみ」は世代から世代へと引き継がれて行く。

精神科医はこうした内在する「ひずみ」を見立てる。今現在症状としてまた生き方として「曲がって」いても、大して問題ではないこともある。そのことがむしろまっすぐ生きているのだと判断される場合もある。逆に、いま症状としても問題はない、生き方としてもまっすぐであるという場合でも、内在する「ひずみ」は小さくない場合がある。それは客観的に確実に分かるものでもない。治療者によって見解が分かれるだろう。そのように微妙な判断である。
しかし宮大工の棟梁には木のひずみが見えるように、感度のよい精神科治療者には人の心の「ひずみ」が見えるのである。
治療者の感度のよさを検証する客観的な物差しはない。判定された患者たちはそうした判定を拒むことも多い。
まっすぐ生きている人たちはまっすぐ生きていることを肯定的に評価されたい人たちである。それなのに、「実は心に大きなひずみが内在している」といわれるのは気に入らない。気に入らないから事実を否認する。どこにも何の証拠もないから仕方がない。ただ、その人はそのまま生きようとすればますますひずみを大きくしてゆく。治療者から見れば自分達の無力を嘆くばかりである。
逆に、曲がってしまった人たちは、「可哀想だね、環境のせいだ」と言って慰めて欲しい人たちである。そんな人たちに、あなたはまっすぐだから心配いらないと言っても、受け入れない。大げさに心配してくれる人を求めているのである。

2253
IQの低い人は高い人に比べて、ストレスの高い世界を生きている。不安が大きい。

2254
どんな人を精神分裂病というか。
「プロイラーの4Aのような陰性症状が基本にあり、人生の中で最低一回、幻覚妄想状態を経験していること」こうした意見がある。実際的であり、なかなか味わいがある。

2255
現代科学への正しい批判がなされているか?
誤った批判は多い。たとえば要素還元主義であるという。代わりにホーリスティックに考えよという。しかしそれでどんな結果が産み出されるのか、結果で判定すれば全くの役立たずである。
しかし医学の領域では事情が違う。「信じていれば救われる」ことがある。主観的な確信が、内的な治癒力を引き出して、結果として病気が治ったり気持ちが軽くなったりする。これは現代科学が行き詰まっているからではない。患者が変なものを信じたがるからである。
科学は、そもそもスコラ哲学の伝統からの反省として考えられるべきだ。個人として本当に信じられるものは何かと問いつめる。経験である。反復して確認できる経験。その純粋なものを実験と呼ぶ。実験はどんな権威とも関係がない。カトリック教会が何といおうと関係ない。
華道ならば、何が美しいかについて、家元が決める。美の基準などはそれでもいい。自分が何を美しいと感じるかは自分で決めるという人もある。そうした人たちの場合、美とは個人的な経験である。なかには何が美しいかについて家元の意見を参考にして決めたいという人もある。そうした人たちの場合、美とは集団的な出来事である。しかしそれだけではない。「わたしとしてはこちらの方が美しいと思う。この確信は譲れない」と思っている場合に、やはり集団の合意を反復しているだけだという場合が多いのである。人間が集団で生きる生物であるという、脳の性格を反映している。
経験を基礎とした知識、特に実験という純化された経験を基礎として科学が成立している。
人間にとっての真実の源泉は三つある。経験と集団の常識と啓示と。純粋科学は純粋経験を基礎としている。何が美しいかについては、一部は脳の性質(女性の美、満月の美)、一部は集団の常識である(たとえば時代の美)。

科学はなぜ批判されるか。実際は的外れな批判でしかないだろう。八つ当たりである。批判する人の心理分析をした方がよいだろう。

現代社会の問題は科学の問題というよりは人間の心の問題、大抵は倫理の問題であろう。
まとまらず。1997年9月19日(金)

2256
本の企画
管理職必読。
部下の心を管理する。
管理職とは、心の管理職である。

2257
精神科医であることと詩人であることとの本質的な関連
精神病の内的体験は、本質的に「言語領域外」「常識外」の体験である。もし、そうした体験をズバリ表現する言葉があるならば、その体験は常識の圏内にあり、人々の共有されるものである。そうしたものは精神病という必要はない。精神的不調といっておけばよく、多くの言葉を費やすことなく他人に伝達可能な体験である。
精神病の事態というものは、本質的にこれまで個人的にも体験したことがなく、しかも共同体内で共有されたとは聞かされていない、つまり言語の中に組み込まれていない体験である。
患者と治療者が診察室で、患者の内部に起こっている体験について知ろうとすれば、また言語で明細化しようとすれば、それは常識の範囲内の言葉では不足になる。どうしても言葉の比喩的使用法に頼ることになり、さらには言葉の新しい意味の創造にもなる。
患者は自分の内部にしかない、普通の言葉ではぴったりと表現できない感じについて、これまで使ってきた言葉を組み合わせて、ときに意味のにじみを利用して、ときにまったく新しい意味の側面を創作しながら、語るのである。
それは本質的に詩人の営みであり、詩を読む営みである。

これまで常識的な言葉ではぴったりと言いあらわすことのできないことを、工夫して表現する。精神科の診察室ではそのようなことが行われている。それは詩の営みと同じである。

たとえば特定の領域で隠語が発達する場合があり、それはその領域の人々の雰囲気によく寄り添っている。たとえば女子学生の用いる特有の流行語が面白がられる。そのときその言葉には特有の何かの「感じ」が付与されている。言葉に接するとき、その特有の雰囲気、その言葉からにじみ出る何か、その言葉でなくては伝達できない何か、それを感じとる感性が精神科の治療者には要求される。
精神科患者はしばしば「自分は本当には理解されていない」と絶望的になる。精神科患者の一番の苦しみは、他人に理解されない苦しみである。
したがって、精神科治療者が「言葉の体系にとって前代未聞の体験」をどのようにして理解できるかが重要である。
よく耳を傾けて、こちらの常識を押しつけず、言葉の「創造的使用法」の裏にある内的体験を探り当てる態度が必要である。

たとえば、「変な声が聞こえてきてつらいんです」と語る場合、「聞こえてくる」という意味の内容は、通常の「聞こえる」とは似ているがやや違うことである。他の患者の「聞こえてくる」体験と同じかどうかを比べることも難しい。ただお互いの言葉を通して推定できるだけである。その場合、語る側も、聞く側も、言葉の創造的な使用、つまり詩の言葉を語り、聞いているわけである。

2258
よいマネージャーであるために
部下に休養のタイミングをアドバイスできるようになること。

2259
人間は他の動物と違い、生まれた時に脳が完成していない。いわば開いた輪である。牛や馬などは、生まれてからすぐに近くにいるものを母親と認識して真似をする。その程度で輪は閉じる。完成である。
ところが人間の場合にはその後もたくさんのことを学び続ける。
ということはつまり、人間の場合には脳の生育と完成にあたって、環境の影響がとても大きいということになる。

木は、北風が強く吹いていれば、それに抗してまっすぐに伸びようとする。しかし、なかには自分自身のねじれと北風によるねじれとが打ち消しあわないで、非常に極端にねじ曲がってしまう場合がある。それが例えば反社会性人格障害である。

?北風+自身のねじれ=まっすぐ これは打ち消しあっている。
?北風+自身のねじれ=ひどく曲がっている これはマイナス同士で大きなマイナスをつくっている。
最終的な産物(表現型)は異なるが、内在するねじれの大きさは同じである。

?たとえば内在するねじれが小さい場合、北風の影響はそのまま素直にあらわれて、北風の強さに応じて木は曲がって育つ。

    外見      内在するねじれ
?まっすぐ 大きい ……難しい人生を生きている
?ひどい曲がり 大きい ……たとえば神戸殺人少年
?曲がり 小さい ……よくある非行少年
?まっすぐ         小さい ……普通の良い子

?は単に環境のままに育っただけである。病理は深くない。
?と?は同じくらい病理が深いが、外見はまったく違う。

知能とは、環境にもかかわらず自分の好む方向に伸びる力である。知能が低い場合には環境の奴隷になる。

神戸の少年が問題だというのなら、?タイプの人間も、同様に問題である。同じくらいのねじれを宿している。神戸少年の場合には、たまたま風の向きとねじれの向きが同じ方向を向いてしまった。
?は立派だがねじれが大きい。?のほうがむしろ、問題は少ない。主観的にいえば、苦しみが少ない。?で、苦しみの自覚も少ないという人は、苦しみを抑圧している。そんな人たちは心身症の形で体が悩んでみたりする。

2260
セルフ・アイデンティティ
いろいろな下位のアイデンティティが蓄えられているが、どんな場面でどんなアイデンティティを発揮するかをコントロールしているのが、セルフ・アイデンティティである。
これは現実場面にどのように適応するかということであり、神経症の発生と関連している。
ここがうまくいかないと適応障害になる。

2261
治療者として、精神科医と詩人がひとりの人間のなかで統合されていることの大切さ。
これは、科学と文学、体と心、客観と主観、普遍と個別、こうしたものの統合を意味している。精神科の診察室とは、こうしたものの統合の場所である。
患者の話を聞いていて、一方では客観的に診断をしている。そのような知識の体系がある。診断と治療の経験が科学として蓄積されている。
しかし一方では患者の主観に寄り添い、患者のこころの内部にあるイメージシステムをつかもうとしている。これは個別の領域である。

例えば、「海」という言葉にしても、治療者の心にある海では当然いけない。物理的な海を想像するだけでもいけない(人間である限り不可能であろうけれど)。患者の心にある「海」をつかまなければならない。それは容易ではない。しかしそのような作業が積み重ねられて、その患者の心の中のキーワードの輪郭・色・香りが理解されてくるようになると、「治療関係が深まる」ということになる。しかしそんなことは通常不可能に近いではないか?
自分の配偶者について、子供について、その人の内的なイメージシステムをどの程度知っているかと考えてみれば、難事であることが理解される。

普遍と個別は、容器と内容物の違いといってもよい。
治療者は、話を聞いて、態度を観察し、雰囲気を察知しながら、精神の構造がどうなっているのかを知ろうとする。これは科学であり、普遍である。多くの症例に共通するものとして抽出できる。構造の歪みである。容器の穴である。
一方で、語られている内容については、詩人のように接している。個人の内部にあるイメージシステムをもとに、この世界がどのように体験されているか、知ろうとする。

患者にすれば、患者に固有の部分をすべてを病気のせいとされるのは、納得できないはずだ。平均とのずれがすべて病気であるはずはない。

曰くいいがたいものをいかにして伝えられるか、その作業は人間を困惑させる。その困惑を、患者と詩人は共有している。創造的な一回限りの言葉の使い方になる。表現の言葉がないものを、いかにして伝えるか。そうした困難な作業を診察室で試みている。
たいていは、「一所懸命聞いてもらったから、それだけでもよかった」と優しいことをいってくれる。ほんとうはそれではいけないのだから、目標はもっと高く持っているつもりだ。

(風呂場で考えていた言葉が、今はもう消えている。もっとくっきりしたことを考えているつもりであったのに。)
(風呂のなかで考えていることは夢のようなものかもしれない。一次過程が活
発に動いている。湯上がりには二次過程になる。それで言葉が違ってしまう。そうか?)

病気になっている部分と、病気を苦しんでいる部分とがある。病気に対しては科学でよい。病気を苦しんでいる部分に対しては、その苦しみを和らげたい。これは身体病でも同じである。
精神病患者の場合には苦しみの一部は「理解されないこと」に由来している。なぜ理解されないか。それは精神病者の体験は、人々の共有する常識外の事態、つまり言葉の使用法の圏外の事態だからだ。そうしたことを分かり合う方法は何か。ひとつは絵画などの言語以外のチャンネルを用いること。もうひとつは言葉の創造的な拡張しようである。後者が詩の営みである。

一般に、例えば「海」という言葉が発せられたときに、その発言した人の内部に何があったのか、注意深く感じてみたいと思ったとき、詩の世界である。
言葉を南極の氷にたとえる。見えるのは地上の部分だけ、見えない部分がその何倍もある。同じように、言葉はその人の体験の一部でしかなく、伝達のきっかけでしかなく、最大公約数でしかなく、しかたなく用いている記号に過ぎない。

知覚経験とは、外界の実体を、人間の五感で知覚して、それを脳の内部で統合しているに過ぎない。統合の際に、概念や先入観を混入させる。
そのような体験の構造に沿って、理解を試みる。
人が人を理解するのはいかにして可能か。ロマンにあふれた営みである。一面では無謀である。

2262
中沢恒幸「急迫性障害の現在」
中沢(1990)は強迫病の手掌皮膚電位反射から、音刺激を繰り返しても反射数および振幅を減ずることなく(健康者は音刺激が繰り返されると慣れが生じ、反射数および振幅が減少する)、まったく慣れをきたさないこと、精神運動テストのタッピングでその反応時間、間隔、正確さが明らかに優れ、選択反応時間の延長(一瞬ためらい手を離さない、トランプカードを持つ手のごとく、離すとき時間を要する)が挙げられた。
脅迫者は、慣れをまったく生じない反応を呈し、タスクを与えられたときの正確な反応時間が特徴である。

●「慣れを生じない」との観点。

2263
中沢恒幸「急迫性障害の現在」
(Hollander 1992)
強迫と衝動が前頭葉機能とセロトニン代謝セロトニンは社会的従属性と関連している)の上で、たがいに変異体であることに注目した。
すなわち強迫はリスクを避け、予期不安があり、反芻することによって不安を和らげリスクを減らしている。これに属するものは心気症、醜形身体表現障害、摂食障害人格障害を併発しないもの)、離人症、抜毛症、トゥーレット症状群(ママ)で、セロトニン代謝は増加し(セロトニン代謝産物である5-HIAAが髄液内で増加する)、前頭葉機能も亢進(セロトニン受容体数の増加)している(前頭葉機能亢進)。
これに対し衝動性は、危機回避が欠損し、むしろリスクを探索し、感情の制御がきかず行動に出て、不安も少ない。このタイプは怒りの衝動の代表である境界性人格障害BPDや、間欠的に衝動調節障害をきたす放火癖、盗癖、病的賭博、性倒錯などの反社会(非社会)性人格障害の逸脱者で、その行動に多少の心の痛みはあっても、快楽を選ぶ特徴がある。多くの薬物依存(アルコールをはじめ)もこの群に入り、衝動性によりセロトニン代謝が低下し、また前頭葉機能も減少している(前頭葉機能低下)。

一般に脳の器質的変化には強迫を伴うことが多い。

強迫スペクトルの図
(危機回避、損害逃避、予期不安、髄液5-HIAA増加、前頭葉機能亢進)=強迫極
強迫欲動(ママ)
心気症状
身体醜形疾患(ママ)
摂食障害
離人症
トゥーレット症状群
ーーーーーー
抜毛癖
薬物依存
病的賭博
性倒錯
境界性人格障害
反社会性人格障害
(危機探索、損害意識欠如、予期不安小、髄液5-HIAA減少、前頭葉機能低下)=衝動極

セロトニン=心の抑制系

強迫性と衝動性のスイッチ機構は大きなテーマである。
Modell,J.G.,1989の強迫生理学。

2264
中沢恒幸「急迫性障害の現在」
人体で最古のレセプターは原始G蛋白共役セロトニン受容体。7億年以上の歴史を持ち、酵母からプラナリアが分化したとき形成された(?ママ)。以来分化を重ね、現在30数種の亜型を持ち、ドパミンムスカリンエピネフリン受容体なども派生させた。だがセロトニン系は末梢臓器では後発のアセチルコリン系やエピネフリン系に主役を奪われ、生体防御機構としては過去の遺物に過ぎないと考えられてきた。
普段セロトニンは何をやっているのか、まったく分かっていない。
普段は沈黙していて、後輩伝達系が暴走をはじめるや表に立ち現れて、それを抑えるかのごとくである。セロトニン=心の抑制系らしい。

2265
中沢恒幸「急迫性障害の現在」
治療。強迫は治りきると考えてはいけない。むしろ治してはいけない部分があるし、そこに手をつけることは強迫人の歴史を破壊することにもなる。国際強迫障害協議会のパンフレット。
?患者を責めない。
?勇気づけ援助する。放置せず行動を強化する。
?患者にこちらで行動して見せ、痛みに気付かせる。(ママ。どんな意味か?)
?患者と健康な関係を保つ。
患者は孤独である。それに対して、
?精神病ではない。恥ずかしがることでもない。
?君だけではない。20人に1人は強迫症
?治療者とのオープンな関係。
?薬が効く。
?なるべく外に出る。自由に行動する。

2266
先日テレビで評論家が言う。痴呆老人を「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶのは、その人たちの人格を認めていない態度だ。その人たちは立派な社会人だったのだから、人格の尊厳を尊重して、きちんとした名前で呼ぶべきだ。
確かにそうでしょう。そして、そんなことを言えば評論家としては仕事にはなるでしょう。でも、そんなことで何がどうなるというのだろうか。
そんなことを言っていい気になっていられるのは評論家だけだ。また、そのような発言はマスコミから要求されていることでもある。

そんな意見があり、それは正論だろうと分かっている。しかし現場ではその通りにいかない何かがあるのだ。その何かを突き止めなければ意味がない。自分では現場の仕事をしていない人でなければ言えない言葉である。
そんなことがあってもいいけれど、何だか空しい。

痴呆病棟には元医者もいる。元婦長もいる。病棟でその人を「婦長さん」と呼ぶとき、「人間の尊厳のゆえに」その言葉が発せられているわけではない。
病棟で彼らが活動できることといったら、子供のようなことばかりである。大人にふさわしいことはもう何もできなくなっているのだ。集団生活という要因もあるだろうけれど、保育園の園児を扱っているのに似ている。しかも、彼らは園児ほどには可愛らしくない。
そんな状況が一年二年と続いたときに、どのようにして「人間の尊厳」という観念を保持したままで介護することができるか。難しいことだ。介護職の人が特別なのではない。普通の人たちだと思う。病院の仕組みが特に悪いわけでもないだろう。何かしら、必然的にそのような状況に落ち込んで行く要因があるのだ。
そのことを問題にして明らかにしてくれるのが評論家ではないか。

2267
子供の心が分からない
どう教育していいのか分からない

こうしたことの背景に、子供が生きている文化と、親が生きている文化とが、分離していることがあげられる。
子供は家庭や親も属する地域文化に属してはいない。

昔はそうではなかった。子供が成長するとは、親の属している文化を取り込むことであった。
子供は親とは違う文化のなかで育ち、別の価値規範を学んでゆく。
こうした観点からは、親が子供と心が通わないという状態も無理はない。

しかし一方、極端な性格や時に犯罪に至るような暴走、衝動性、こうしたものがどうして生じてしまうのか、それに対してどのような対策があるのか、答えが見えない状況である。

衝動性について、ちとえばセロトニン抑制系の弱さと言ってしまうのはどうだろうか?そのように割り切れるとも思えない。

2268
「幻聴が聞こえる」と患者がいう。この場合の「聞こえる」という言葉がすでに比喩的な意味である。「聞こえるというのに似ている何か」である。このように比喩的な用法が多い。言葉の正確な意味からは少しずつずれている。

2269
説明の文章について。
話しかける雰囲気。手紙を書いている雰囲気。患者に対するパンフレットのつもりで。
です・ます体。
「あなた」などの呼びかけ。
例を多用。
疑問、呼びかけ、話しかけ。
構造を明確に。
ひとつの文でひとつの主張。
頭でまとめ、最後でまとめる。

岩波新書の雰囲気。

2270
精神医学と詩
シニフィアン(記号)とシニフィエ(内容)
記号と内容の結合が社会のなかでの常識の結合の仕方をしている。それが通常である。しかし精神病者の場合には体験内容に対応する記号が欠けている。そこで、記号と内容の独自の結合を創造する。そうすることによってのみ、表現可能となる。しかしその記号は社会に流通するだけの普遍性を持たない。
そうした場面で、治療者は記号と内容の独自な結合を「読み解く」よう試みる。
それが深い意味での「受容」である。

2271
「こころのパトロジー」?松本雅彦
クレッチマーによる、ヘレーネ・レンナー症例。精神分裂病とは異質な、ある程度了解可能な病態として敏感関係妄想という診断名が与えられている。どのような気質(性格)の人が、どのような環境のもとで生活を送り、その中でどのような出来事に出会って妄想を抱くようになるのかという、患者の生活史全体のなかでこころの病をとらえようとする視点が鮮明に打ち出されている。

私という人間の考え方、生き方が環境の構成(たとえば職場の雰囲気)に関与していないはずはないし、一方、環境の方も、私の生き方、考え方に影響を及ぼしていないはずはない。この相互影響の持続の中に、今の私はある。私と環境とは、いつもすでに循環的、円環的な相互作用のうちにある。私が先(=原因)か、環境が先か、という因果論的な問題の立て方はできない。私という人間と私が今いる環境とは不可分で一体なのだ。

こころの病を原因、誘因と名指すことのできる出来事から生じた結果だとみる、そのような因果関係でとらえることを阻むものがある。だからこそ私たちは発病「状況」という言い方しかできない。

●ここのところは、「因果関係でとらえることを阻むものがあるのはなぜか、原理的に不可能なのか」、そこまで論及したい。そうでなければ、単に科学として未発達だから、因果関係を辿ることができないだけだということになる。この程度の複雑さを扱う技法がまだ開発されていないだけだと断定されてしまうだろう。
?通常科学で用いるように、因果関係をたどる理解で原理的にはよい、ただし、複雑すぎて技術としては未完成である。
?因果関係をたどる科学的思考は原理的に精神科領域の説明には不十分である。
?と?のいずれであるのか、明確化する必要がある。
状況因という言い方は単に?の言い逃れであろう。ここに科学の原理的な限界があるなどという大げさな話ではない。

2272
精神病者の状況を一挙に全体的に把握することは不可能である。部分から理解をはじめ、何らかの仮説に立って見てみることが必要である。それを安永は「補助線を引く」という。
●しかし理論はあくまで理論である。補助線を引いて得られる理解はあくまで一側面である。

2273
むかし流行した、トマス・クーンのパラダイムチェンジも、ゲシュタルト変換といってよい例である。
線画の立方体が出ているか凹んでいるか。

2274
「こころのパトロジー」?松本雅彦
実感を言葉にするのは難しい。人と人とが分かり合うためには、言葉によるしかないとされている。本当にそうなのか?

2275
妄想がなぜいつも被害的・迫害的なのか?

2276
「こころのパトロジー松本雅彦
分裂病者の場合、自分の殻に閉じこもり、他者に助力を乞うことをしない。それでも彼らはどこかで救いを求めている。それを直接的な形で表明することができない。その直接的な表明を妨げているものがどこかにある、そう考えた方がいい。

2277
「こころのパトロジー松本雅彦 →精神科医と詩人

ありのままに受けとめること。患者の波長に同調(チューニング)すること。

共感の欠如、「わかってもらえない」事態の連続は、患者をますます自分の殻の中に閉じ込めさせる。

「(自分の体験にはないが)もとそうであれば、しんどいことだろう」

既成の常識的規範で「おかしい」と判断されてきた患者にとって、その「おかしい」という判断以前のところで、実際に自分が実感している出来事を、そのままに受けとめようとしている治療者がいる、このような出会いがなんらかの「手応え」となるのではないか。自分のしんどさを分かってもらえた、少なくとも分かってもらえそうだという「感触」をもってもらうことにはならないか。

患者の言語化に「沿い」、その言語化を「誘う」。

病像をくまなく洗い出し診断を確かなものにしようとする作業は、患者が現在体験しつつある世界に沿って対話を進めてゆくという方向を歪めかねない。

診断学的枠にもとらわれない。

DSMによって初回面接が行われるとすれば、それは反治療的ですらある。

沈黙に治療者の方が耐えられない。

医療とは、個別の関係において成り立ちながら、客観性・公共性を求められる営みである。
個別性が客観性を失ってはならない。

サリヴァンの「関与しながらの観察」。
関与と観察、共感と冷徹なまなざし。この二面性、背理、矛盾。

2278
「こころのパトロジー松本雅彦
薬の副作用に限らず、予告された事柄に対して、人はある程度それを受け入れることができる。

2279
「こころのパトロジー松本雅彦
慢性化した患者が、独語を呟きながら、「声が聞こえる」と訴える事実は、セグラスやジャネ、村上(仁)によって観察されている。
妄想が外界の主観化subjectivationであるのに対比して、幻聴は、内界の客観化objectivation(=外在化)として位置づけられる。
コンラートは、妄想を外界のアポフェニー、幻覚を内界のアポフェニーと名付けた。

声は、聞こえているのではなく、「意味」を声のように「聴いている」。聴覚としての感覚性は希薄であり、むしろ意味の方こそが濃厚である。

覚醒剤中毒者の場合、感覚性が高く、生々しく聞こえるらしい。「声」の発生源を求めて、探し回ったりする。声の発生源が自分の外にあると確信しているからであろう。分裂病者は声の発生源を外に求めることは少ない。自分の内部の声だと知っているからだろう。

●「声が聞こえる」という表現自体が比喩である。

2280
「こころのパトロジー松本雅彦 →精神科医と詩人
分裂病の発症は当人にもとらえがたい出来事として出現してくる。しかし、その出来事を意味として言語として、とらえなければ、彼らは永遠に「無意味」「不気味」な世界をさまよわなければならない。「何か」としか表現できない変化を言語に置き換えるという試みをしなければならない。

妄想や幻覚と呼ばれる「症状」も、病者自身己に出来した事態に意味と言語とを付与しようとする点において、「創造」と呼ばれてよい営みだということができる。

●「言葉で共有できない事態」を言葉で語ることができず、症状で表現している場合がないだろうか。そのようにして伝達している。

2281
精神科医と詩人
行動化や症状化ではなく、言語化して悩む方向に導く。これは詩人の営みである。

また、行動や症状が伝えているものを読みとる。これは詩の営みである。

2282
マザー・テレサの映画
隣人を愛する。しかし精神病者の場合、そうした尊い心を枯れさせる何かがあるのではないか。そこを解決しなければ、現状は改善されないのではないか。
精神科医療は、何かもう一つ足りないように思う。

世間の人や家族が愛想を尽かして嫌う。そんな人たちを職員たちが愛せるだろうか?自然な気持ちとしては難しい。どうしても愛しなさいといっても、無理をすることになる。しかも精神病者は集団である。ときに薬物中毒がいたり、暴力団の人がいたり、さまざまである。
そうした状況で、「仕事だから割り切って、必要なことをやるだけです」となってしまう場合が多い。そして必要なことさえしなくなる。さらには人間として恥ずかしい状態になっていても、反省の機会もなく日々を過ごす。
それも責められない状況がある。「場末の」精神病院は実に困難な場所である。何が問題なのか、考える必要がある。

2283
坂野雄二「認知行動療法入門」
○これならなんとかなるという見通しを持つことのできる人は、そうでない人に比べて、身体的に安定した状態でものごとに取り組むことができる。
○認知によって、いやな体験が再びいやな体験となるかどうかが決定される。
○外傷体験をもつことに意味があるのではなく、それをどう理解しているかに意味がある。
○行動は、?言語的・主観的成分(恐いと思う)、?身体的・生理的反応成分(ドキドキする、冷や汗をかく)、?運動的反応成分(回避行動)、の三つの反応成分からなる。
○伝統的な精神療法は、?をターゲットとする。伝統的な行動療法では、?と?をターゲットとする。
○認知モデル……個人が世界をどう構造化しているか。行動異常あるいは病理的症状は、個人の生育史の中で形成された固定的なスキーマにしたがって判断された歪んだ思考様式によって引き起こされ、維持されている。

2284
軽度の意識障害があるとき、軽度の躁状態に似る。
体や心がとても疲れているとき、軽度の躁状態に似る。それは実は軽度の意識障害である。
都会の喧噪は、疲労の故の軽度の意識障害で、それが軽度の躁状態に見える。
そんなときには思考が次々に進展するということはなく、ただきれぎれの思考が散乱しているだけである。

2285
自由意志。
自由意志はない。こう書いて反論があれば、それは自由意志の意味内容を理解していないからだ。
ただ物質の決定論があるだけである。それによって世界のありさまを記述するには複雑すぎるから人間の手に負えないだけである。
自由意志はない。それを否定することは、つまりは霊魂の存在を仮定してくれということだろう。物質の法則以外の何かを仮定してくれということだ。
物質→意識
言葉など、五感からの入力が脳を操作する。それもすべて物質のレベルで記述できることだ。

2286
「心の豊かさ」の内容について
目を閉じて、そこに何が浮かんでいるか
多面的な見方
挫けない心・楽観的姿勢
余裕
時間を楽しむ姿勢
対人関係の質と量
自分の心をコントロールできること
現在の瞬間を相対化できること
思いやり
他人を大切にすること(愛)
目的意識

2287
「こころの辞典」通信 計画

○目的
・勉強の動機付け
・臨床の支えとなる連帯感
・よいものを紹介しあい、感性を高めるきっかけをつくる
・「こころの辞典第二版」準備委員会の性格を持たせる

○内容
・書籍と論文の紹介
・学会報告
・やさしい解説
・職場と大学の動向報告
・映画、絵画、音楽、文学などの紹介
・声
・質問箱
・エッセイ、文学(小説、詩、短歌、俳句)
・写真、絵画
・近況報告
・症例検討会の紹介

○しくみ
・月刊
・会員に郵送。自分の切手代を各自負担する。
・クローズドで運営。新規会員は紹介制。
・会員が自由に原稿を書く。
・会員の仲が悪くなりそうな内容は避ける。
・患者のプライバシーは守る。
・印刷、紙、コンピューターなどの費用に「こころの辞典」の売り上げ収入をあてる。

○まず趣旨を説明して、アンケートで各人の希望をきく。

2288
内科と精神科を比較すると、精神科は教育界でいう「困難校」のようなものだ。精神科患者といっても、でも物わかりがよくてこぎれいな人たちと、世間からはみ出して、愛想を尽かされ、見捨てられ、ひねくれて、よい意味での自尊心を失った人たちとは、かなり様子が違う。後者を扱うのがいわば「困難校」である。
精神科が敬遠され、敷居が高いとされるのも、後者の患者群がいるからである。この人たちの本質的な問題は精神病というよりは、性格だろうという印象である。
人に嫌われて、ひねくれて、自尊心を失い、人を恨み、居直り、ずるくなり、さらに人に嫌われ、と悪循環が成立する。

2289
目標を見つける
前進する
人生は明快である

2290
愛国心
それは自動的に誰にでも獲得されるアイデンティティである。誰にでも自覚なしに努力なしに。この点で税金に似る。
国家が国家であることによって各個人に自動的に生じるアイデンティティ。一網打尽である。
個人は自動的に選ばれるのだ。主体的能動的なプロセスが欠けている。

2291
学習性無気力と精神病院
精神病院は学習性無気力を制度化している。バカ扱い、子供扱い、犯罪者扱い、半人前扱い。バカな看護婦からバカにされることほど学習性無気力形性に適した状況はないだろう。

2292
映画などで:主人公が生き延びるためなら、脇役は平気で命を落とす。戦いの「尊い」犠牲者である。尊いらしいが、実に簡単に死んでしまう。
「自分のためなら他人は死んでもしかたがない」という、実に人間的な感覚があらわれている。

2293
未曾有の体験を語る人の悩みと、それを聞く人の悩み
内容→記号(言葉)
A→a
B→b
C→c
AとBの中間のことを語るにはどうすればよいか?また、Dを語るにはどうすればよいか?(→言葉の意味の拡張的使用。)

例:「ライオンとトマトの中間くらいの苦しみ」

zと言葉で表現されているとき、どう解釈すればよいか?abcと並べていって、外挿する、つまり補助線を引いて推測する。(→補助線を引いて聞く。言語の拡張的使用の理解。)

2294
坂野雄二「認知行動療法入門」(こころの科学 連載)
○認知の中に、反応パターン(一時的)と反応スタイル(一貫して固定的)とを考える。
反応パターンとしては、「期待」「象徴的コーディング」「対処可能性」「セルフ・エフィカシー(自己効力感)」「自動思考」「原因帰属の型」などの認知変数がある。
反応スタイルとしては、「不合理な信念」「認知構造」「スキーマ」「自己敗北的認知的習慣」などの認知変数がある。従来の「病前性格」に該当する。

刺激と反応の間の媒介変数としての認知。

行動や情動、認知的反応をコントロールする「自己(セルフ)」の役割を重視し、セルフコントロールという観点から行動変容をとらえる。

行動を単に刺激と反応の接近や連合だけで説明するのではなく、予期や判断、思考や信念体系といった認知活動が行動の変容に及ぼす影響を重視し(認知的機能主義:バンデューラ)、認知が行動に影響を及ぼすと考える。
認知と行動の両者の変化を治療効果の評価対象とする。

ペシミストは健康状態が悪く成人病にかかりやすく、無気力で希望を失いやすく、簡単にあきらめる、その結果、能力以下の成績や業績しかあげられない。

肥満傾向の人は過去に対するネガティブな思考を強く持っている。

2295
精神科の現場で、職員のしている行動が、治療として効果的であるという客観的な裏付けが必要ではないか?伝統だから、上司にいわれたから、さらに極端には特に誰にも止められなかったからというだけで続けていることが多いのではないか。
そんなことを議論しようとすれば、結局は対人関係を円滑に維持できない性格とレッテルを貼られてしまう。
つまり、エビデンスに基づく治療の感覚がなく、議論に基づいて真実に至る習慣がない。

2296
人間は「過度の慢性ストレス」に対処できるようにつくられてはいない。さっさと逃げれば正解である。

2297
坂野雄二「認知行動療法入門」
バンデューラの社会的学習理論
人間の行動を決定する要因:先行要因、結果要因、認知要因。
これらが絡み合い、人と行動、環境という三者間の相互作用が形成されている。
●論旨やや混乱?人と行動と環境?
バンデューラは行動の先行要因としての「予期機能」を重視し、二つのタイプの予期を取り上げている。
?結果予期。ある行動がどのような結果を生み出すか。
?効力予期。ある結果を生み出すために必要な行動をどの程度うまく行うことができるかという予期。
自分がどの程度の効力予期を持っているかを認知したとき、その個人にはセルフ・エフィカシー(自己効力感)があるという。
●つまり、「どのくらいやれそうか」ということ。
●結果予期とか効力予期とか分けることの意味は?つまりは「自己の能力についての認知」であろう。自分はできると認知していれば当然結果も良い、それは暗示やトリックであっても、やはり結果はよい、そういうことだろう。
セルフ・エフィカシーを高めるには、
?成功体験
?他人の成功を観察する
?暗示
?生理的な反応の変化を体験してみること(情動的喚起)【●これは不明瞭】

うつのときにはセルフ・エフィカシーが低くなる。

●楽観的とか肯定的、積極的というのではなく、セルフ・エフィカシーとしてやや限定してみることで本質に迫っているのだろうか?
●平たくいえば、「自分にはできるという自信を持たせる」ということでしょう?それだけのことではないのか?それを概念を洗練・限定し、実験的に確認できる客観的なものにしようとしている点が偉い?
プロ野球などでよくいわれていることだ。「ピッチャーには、勝つことが一番の薬だ」など。それを?〜?に分けてみせた。

2298
坂野雄二「認知行動療法入門」
セリグマン「獲得された無気力(learned helplessness)」
無気力な状態に陥り、自分から何もしなくなるという行動の特徴は、電気ショックという苦痛刺激(外傷)そのものによって引