2801
「ストーカーの心理学」福島章(PHP文庫)
●なかなか面白い。恐さがある。
・乳児は母親に絶対的に依存する。相手は無条件に自分を満足させる。そうでなければ乳首をかんで攻撃する。ただ求めて得る。ギブアンドテイクはその次の段階である。ストーカーが、「そんなことをしたら嫌われるだけだ」と思われる行為を止めない理由はこのあたりにある。いうことを聞かなければ「乳首をかんで攻撃する」、そのことによって被害者とストーカーは一対一の関係に入る。
相手に好かれるためにはどうすればよいかという思考回路は働かない。
アメリカでマドンナがストーカーに侵入されたとき、マドンナは法廷に立つことを拒否した。しかし出廷しなければ逮捕するというので、無理に引きずり出された。その時彼女は法廷で語る、「このようにしてわたしが彼の前に立つ、そのことで彼の欲望は成就された。この場面こそ、彼が望んだものだ。」
・パラノイドには分裂病の軽症型と見られるパラノイアと、特別の性格の人に心理的・環境的ストレスが加わって起こる心因性パラノイドの二種類がある。妄想以外の点では正常者と変わらない。
・自己愛性人格障害。自己中心的で、自身、自負心が強く、自分の有能性と万能感にだけすがって生きている。他人の存在や感情には無関心で、本当の意味で人を愛することができない。いつも自分が賞賛され関心の中心で、ちやほやされないと不機嫌になる。人を愛するもの、その人が自分をほめてくれることを期待してである。いったん拒絶されると、これまでの愛の対象に対しても激しい怒りや攻撃性をもって反応する。他人の愛情を得られなかったことに落胆するのではなく、自分がそれほど有能でも魅力的でもないことを思い知らされるから怒る。これを「自己愛性の激怒」という。
●現実的ではない自信。妄想的自信。有能性・卓越性の幻想。しかしこれだけならば、妄想性障害と言っていいはずではないか?妄想的自信を抱いていることではなくて、それが傷つけられたときの反応の仕方が激烈であり、その反応の異常さゆえに人格障害というのではないか。
2802
人間である限り、ストレス状況で神経症成分が観察できる。いろいろな病気の際に神経症成分を吟味・鑑別することができる。精神病の場合には、神経症成分も本来の病気である精神病と同じ精神領域の症状になるので鑑別は一層困難であるが、それでもやはり区別して考えることができそうである。
2803
精神病院や老人病院で仕事をしている自分に疑問を感じないのだろうか、同業者の皆さんは。高すぎる倫理観を振りかざして、他人様を非難しようというのではない。自分の実感として、こんなことを続けている人生はよい人生ではあり得ないと感じるのだ。
どうしようもないのだろうか?本当に?おかしいと思う。
例えば、自殺未遂で救急病院にかつぎ込まれたときに、救急の医師は冷淡であるといわれる。死にたい奴を助けるなんて、という気持ちがあるのだという。また例えば、精神病者を外科に依頼したときに、どうせ精神病者でしょうという気持ちがないでもないらしいといわれる。もちろんあからさまではないだろうけれど。
このような「差別」の雰囲気が蔓延しているのではないだろうか。その上に精神医療は成立している。どうせこんな人たちを扱うのだから、あまり高い倫理は要求されないと高をくくっている。それでも彼らを扱ってやるんだからありがたいと思え、そんな気分があるのではないか。いずれにしても、人間として最高の倫理を実践してはいない。そのような場所である。退廃がある。
精神医療ばかりではない、社会全体がそのようなものなのだといえば、確かにそうだろう。そのようなちんぷんかんぷんな場所でもどうにかこうにか動いているのが人間というもの、社会というものの実体であるといえばその通りだろう。だから、どの分野でも、それほど高級なことを要求するのは間違いだといっていいだろう。それが一般論である。
しかし自分がそのような場所で生きたいかどうかはまた別ではないか。
2804
新聞で、性犯罪被害者の手記が出版されたとの記事。自分が「モノ」になったような気分。人格を否定され、惨めな悲壮感。「わたしは人間の形をした、ただのモノなんじゃないか」と思った。そしてその後の、警察でのひどい扱われ方。
昨日の夕刊では、こころを忘れている、倫理はどうなったという対談。人間の行動を快楽を求めてとか有利だからとか、そんなことで説明しようとして、「こころ」を忘れてしまっていると二人の倫理関係の老人が対談しているのである。
人間がモノであることは否定しようがない。こころという、モノとは別の次元の事象があると信じればいろいろと都合がいいとしても、それもやはりモノの次元で説明できることだろう。そのような穏当な唯物論までも否定するなら、それは「否認の機制」である。
しかしこれは認識論の次元のことだ。目の前にいる人間をモノとして扱うとしたら、こんどはそうした態度が病理的である。認識論の次元と、対人関係の次元とを混同して、唯物論としてまとめるなら、それは大きな混乱である。
「モノ扱い」は、結局「支配の感覚」だと思う。ボタンを押せば動く、それだけの存在。ボタンを押す人と押される人との間には無限の距離がある。
対話は対等な話でもある。
ストーカーの話で、性関係を考えるときも、結局は支配の関係で考えることしかできない人がいるらしい。そのようなこころの傷つきはどのようにして修復され、望ましい発達の機会を与えられるのだろうか。
人間のこころも、植物が成長するように、放っておけばすくすくと普通に成長するものと思うのだが、人生には阻害要因がそれほどまでに多いのだろうか。
社会で生きる人間の属性として、いろいろなことがらを身にまとっている。社会的地位、生い立ち、家族の関係、友人の関係。そうしたものをはぎ取られて、ただ徹底的に「モノ」であると思い知らされるときがある。例えば、手術台に乗せられて麻酔をかけられたとき。密室で暴力にさらされたとき。「社会の中での自分」がはぎ取られて、肉体として、モノとしての自分がむき出しになる。肉体といっても、スポーツやよい意味でのセックスは、自分をモノと感じなくてすむ。むしろ、惨めさとは逆の位置にある。その対極にある、自分という存在の無意味さ、無力さにつながる体験を押しつけられて、自分は「モノ」に過ぎないと思い知るとき、耐えきれない大きな傷になる可能性がある。
一言で言って、「無力感」の体験であろう。
自分の意志が反映されず無視される状況におかれる苦痛。意志発動の主体としての感覚を剥奪される。一方的に翻弄されるだけの存在。
そのような場所で生きてゆく方法は何があるか?最悪の場合、意志など消去しても生きていける何かを持っていればまだましである。何もない人もいる。たとえば精神病者は意志を剥奪され、かつ、なんら取り柄がない。
自分がモノになってしまったという感覚を反復して味わいたいとするなら、外傷性障害と似ている。戦場での兵士。娼婦。
2805
テレビで。私鉄の東武は利用者の減少に驚いている。満員電車対策を急いでいたが、利用者数の自然減があり、目標は達成されてしまった。少子化で通学定期の使用が減少、不況の解雇で通勤定期の使用も減少、この二つが大きな要因と分析している。しかし東武では大規模団地を二つかかえており、その地域での人口増加を計算に入れれば、将来はそれほどの落ち込みにならずにすむと考えている。
これまで増加の一途だった鉄道利用者にもこのような変化が現れている。日本の社会は変わるだろう。
2806
援助交際の是非について有効な説得の方法がないという。
これは例えば、ドストエフスキーが描いた世界と似ている。「この世の害悪となっている老女を殺害する権利をわたしは持っている」と考えた男。一方で、「自分の体をどう使ってもいいではないか。誰かに迷惑をかけたか?」と居直る女。
認識論の次元と対人関係の次元とを混同した錯誤ではないか?ドストエフスキーは故意に混同して読者を錯誤に引き入れて、その錯誤の仮定の上に、どのような運動が発生するか、展開して見せた。前提条件を設定しておこなうシミュレーションのようなものである。
この世界の原理的なあり方と、人間が社会の中でどう生きるかは、直結していない。前者から後者を演繹できるわけではない。遠い前提ではあるが、決定しているわけではない。?
2807
宇沢が、「経済学者にだまされないようにするために経済学を勉強する」という話を紹介している。精神医学者にだまされないように、精神医学を勉強する。これでもいい。
2808
「現代は過剰に合理的である。その反動としてオーム事件のようなものが起こる」などと山中康裕(臨床ユング心理学入門)。わたしはその反対で、現代も依然として合理性の欠如が著しいと思う。
合理性という言葉にも幾層もの意味があるようで、それを区別してからでないとくっきりした意味は伝わらないのではないか。
例えば、現代社会は効率の追求にのみ忙しいと論じられることも多い。標準的な意見である。「効率的」の反対は、ゆっくりと人間的なゆとりを持った生活態度といったあたりか。結局それは、人間的なゆとりを効率的に追求しているに過ぎないではないか。
効率性の追求に罪を求めるのは皮相的で頭が悪い。
目標と方法と分類する。効率追求はつまりは方法の分野の話である。目標はたいていは企業の利益であったり、個人の利益であったりする。それらを非効率的に追求すればよいという話ではないのだ。論者のいうところは、ゆとりをもっと効率的に実現せよということだ。それを悪い頭で、効率追求が悪いと表現しているに過ぎない。
方法の次元で、効率的でない方がいいというなら、理解不能である。目標がゆとりであればそのように、利益であればそのように、さっさと実現すればよいはずである。非効率のほうがよい面があるというにーなら、それは非効率を目標として掲げるべきで、その場合の方法としてはやはり効率的であった方がいい。
方法としての非効率をいうなら、もっと説得力が必要だ。
2809
「臨床ユング心理学」(山中康裕)
・魂に呼びかける仕事
●このような言い方は聞こえはいいが、どうだろうか?その実態は何かと厳しく問いかけたい。
・ユングはナンバー・ワンとナンバー・ツーの自分があったという。→●解離性障害と見える。
・神経症。表面的には立ち向かわなければならないものから退却している。しかし実は立ち向かうために必要なエネルギーを蓄えつつある状態。そしてそこから立ち直るためには、「これではいけないのだ」というもう一つの心の声が必要である。
●現状をよい観点から捉えるとすれば、このような言い方が可能になる。それはとてもよいことだと思う。
・フロイトと決別後のユングは七年の内閉生活を送る。外界との交流を少なくし、自らの内界と進んで深くつながった。
●やはりこのような時期が必要なのではないか。学びの旅の宿りのようなもの。
・自分の出会った経験のすべてが、「自己」を実現する方向、一本の自己への道につながるものであった。神経症は一つの退却であるが、それも次なる自己を実現するための退却であった。
●「次のための」と考えるか、現在は現在のためにあり、それ自体でよいものとして完結しているとみるか。苦難の時期が、将来のために役立つと捉えるのもいい。しかしそれ以上に、苦難も現在の人生を輝かせていると捉えられれば、さらにいい。
●人生の各断片が総合・統合されて、意味のあるまとまりとして姿を現す瞬間。それは幸福である。
・高い境地を実現するというのではなく、むしろごく自然な「あるがまま」の自分になるということ。
・心身症。感情の表し方が非常にストレートで、例えば怒っているかそうでないかは明確に分かるのだが、その間のこまやかな感情表現ができない。心身症に共通の特徴である。……そして、攻撃性の表出は回復のために必ず経なければならないプロセスである。
・ずいぶんと無駄なことに延々と時間をかけて、と思う人もいるかもしれない。しかし、どのような生き方を選んでも、何一つとしてむだなことはないのが人生である。
東京から京都まで、新幹線で二時間、江戸時代だと徒歩で五十三日。生きる意味においては全く等価である。どちらの道を選ぶかは、一人一人に委ねられている。
すべてを知ることはできなくても、その中で魂が震える一ページに出会うことができれば、それは次からその人の糧となっていく。
・分裂病……「本当の自己」は現実から遊離し、「にせの自己」が人格の外側を覆っている。本当の自己は奥深くで殻に閉じ込められているので、体験をすることができない。つまり、成長が止まってしまっている。「本当の自己」が殻を破るように成長して「にせの自己」を凌駕すれば治る。
・躁うつ病……感情と人格が乖離。
・神経症……人格そのものは保たれているが、過度に抑圧されたコンプレックスによって、何らかの考えにとらわれたり、何らかの行動や症状に精神活動の一部を支配されている状態。しばしば何らかの葛藤がみられ、その葛藤から距離を置くために、人格そのものの痛みを防ぐために、何かにせの症状ともいうべきものを作り出す。抱えている問題の本質に触れることがあまりに辛いので、寸分の狂いもなく儀式を遂行することにエネルギーを費やして、そこから回避するという方法をとっている。ヒステリーの場合には、体の方に症状を出すことによって、葛藤を回避しているとみることができる。
2810
腑に落ちるたとえ話が語られたとき、人は真に理解する。チャートにして理解できたとき、人は真に理解する。
治療もこのようなものではないか。理解を助ける物語を提示する。仮説やチャートを提示する。
2811
テレビで宇沢弘文。
・体にメスを入れて傷をつける。それが許されているのは医師だけだ。
●精神科医療は心にメスを入れる。その自覚が大切である。
・教育は刷り込みである。そして再教育はできない部分がある。だから教育者の責任は大きい。
●なるほど。一度限りの教育チャンスというものがある。
・感情を分かち合う。
・ヒポクラテスの誓い。
・患者からの評価でいい医者が選択されるのか?
・レセプト制度の矛盾。ベテランも新米も同じ。聴診器のベテランは不必要な検査をしなくても分かる。診察回数も少なくてすむ。
2812
「心身症を治す」(山岡昌之)茅ヶ崎図書館で。
●頭の悪そうな、勉強の足りない、文章である。これはひどい。しかし一般人の知的水準を考えればこれでいいのかも知れない。そういった絶望的な現実が目の前にあるのである。
●母子関係の不全や生育歴の欠損に原因を求め、母親に育て直しのようなことをさせている。これは一般の人には「ウケル」のだろうけれど、やはりひどいと思う。原因が分からなければ、生育歴の傷を拡大して指摘する、このは悪い習慣である。自閉症のときも、分裂病のときも、このような態度が見られた。探せばそのような傷は必ずあるのである。指摘された人は後ろめたいので受け入れるしかない。昔、結核の原因も倫理的な面に求められ、その傷を指摘されると受け入れざるを得ないという事態があった。宗教者は狡猾にも、そのような人の弱みを利用したのである。いま、同じようなことを医者が行う。ひどいものだ。
2813
●器官選択の問題。例えば、昔あった、植物の場合の必要栄養の図が思い出される。樽があり、樽を構成する木はそれぞれ長さが異なっている。水を満たしていくと、一番短い木のところから水が漏れる。そのような図であった。
水はストレスに対応する。木は器官である。ストレスが次第に大きくなっていくと、器官の中で弱いものが症状を呈する。ストレスはそこから逃げてゆくので、しばらくは他の器官は守られていて、症状を現したりはしない。
そのような脆弱性は何に由来するか?遺伝的要因と生育要因の両方である。
また、同じ環境にいたとしても、ストレスが人によって異なる。受け取るストレスの大きさが異なり(つまり適応の違い)、かつ、ストレスに対する耐性が異なる。
適応が上手であれば、ストレスそのものを小さくできる。たまる水そのものが少ない状態である。
ストレス耐性が大きければ、耐えられる。ストレス耐性が大きいことは、樽の木がどれも背が高くてなかなか水が漏れない様子と考えられる。
2814
●ストレスコントロールについてまとめてみること。
2815
宗教と精神病理について
呪術的思考→密教、錬金術、迷信、占い、独自のジンクス。
強迫性儀式→ジンクス
うつの自責→罪の宗教
分裂病性超越→超越神
宗教の超越の面と、集団力動の面。超越は分裂気質的、集団に安らぎを求める傾向は循環気質的。
2816
生育と性格
特に几帳面に着目。生まれ持った几帳面と、後天的にしつけられた几帳面と。躾とは几帳面さを定着させる訓練である。
他には超自我。ひいては自責の念。後悔の念。これらは後天的にしつけられる要素が大きいのではないか。
2817
真の犯罪抑止力は何か。
「援助交際」で、「人に迷惑をかけていないからいいじゃない」と語る。
例えば、親に申し訳ないと思わないか。育ててもらった恩はどうなるのか?
そのような生き方がいい人生なのだろうか?
大蔵省の役人がおかしな接待を受けていることが次々に報道されている。これも本人たちは「大したことではないだろう」と思っているはずである。見つかってまずかった、しかし大して迷惑をかけているわけではないと思っているだろう。料亭やゴルフが何だというのだ、大したことではないだろう。上に行けばもっと濁っている。
大蔵省の役人も「誰にどれほどの迷惑をかけましたか?」と反問することもできるだろう。「ご馳走したいという人がいるからご馳走になりました」、誰かのご迷惑になりましたか?というわけだ。
要するに、見つかって損をしたな、という雰囲気である。
マスコミ報道は日が経てば誰もが忘れる。家族などの範囲でいえば、つきあう人たちは会社や役所の身内である限りは、大して罪に思っていないだろう。みんなが同罪なのだから。
村落共同体のような形の、ある程度プライバシーのない社会が基盤にあってはじめて、犯罪の抑止につながるのではないか。「こんなことをしたら、世間に申し訳がない」という「世間」が実体的なものとして意識に存在する。「こんなことをしたら、家族にすまない。子供が恥を受ける。など」
まるで、日本国憲法に書いてある、権利と義務、基本的人権が、そのままで歩いているかのようだ。人間というものは、そのような権利義務関係以上の存在である。それなのに議論は「人に迷惑をかけない」といった低い次元のことに帰着してしまう。理論化するときはそのようにしか言えないかもしれない。しかし人間が実際に生きているということはもっと深い感情であり遠い希望である。
母乳哺育をやめて、母親との哺乳を通じての交流が失われたとき、人間精神の生育に重大な変化が生じたとする指摘は説得力がありそうだと思う。それは動物を飼育しているのと変わらない。
2818
倫理の感覚 適用範囲の錯誤
例えば、宇宙規模の感覚でいえば、地球上に生命が誕生し、人間が発生し、社会を作り、いま自分が生きている。倫理といっても、局所的で、大して理由はない。やりたいようにやっていいのだ。理論的には何もあなたを止められない。たとえばドストエフスキーのラスコーリニコフである。
一方、日々を生きる人間の感覚がある。家族がいて、友人がいて、自分としての歴史があり、希望があり、そうした特殊事情を抱えて生きている。地域や時代の倫理感情や価値観に支配されて生きている。そのことはバカにはできないし、御破算にもできないものだ。なにしろ感情は自動的にそのように動くのだ。従うしかない。
簡略化していえば、「理論の要請」と「実際の感情」の対立である。理論の要請は、まるで宇宙規模の理論で日常生活の倫理を語るようなもので、適用範囲の錯誤である。
2819
注意の理論
意識は暗い部屋のようなもの。懐中電灯で部分部分を照らす。これが注意の機能。抑圧や解離などといわなくても、いろいろなことが説明できる。
2820
悪い人生はあるか
人生から何を学ぶか
人間はいつ成立するか
「悪い人生」と思える人生の場合にも、距離を持って考えれば、たとえば宇宙的な規模の感性で考えれば、悪いことはない。悪いと考えてもいいが、そこから何をくみ出すことができるかという問題が大切である。
人生というものは教材である。そこから何を学ぶことができるか、それが大切である。そう考えれば、よい人生や悪い人生というものはあまりないだろう。どのような人生であれ、そこから何を学ぶか、そのことの方が大切だ。学ぶべき何もない人生というものは考えにくいだろう。
しかしそういった思考は、はるかな距離をとって考えるから成立するのだ。間近に見ていれば、人生の幸福と不幸は比較的明瞭である。だからこそ人は幸不幸に敏感になり、神を恨んだり、人を妬んだりする。
人生を見る地点をどこに設定するか。ずっと遠くと、近くと、いくつかの視点を持つことができれば、バランスのよい把握ができるだろう。これは心理療法家にとって必要であり、かつ、このことを患者に伝えることが必要であろう。
遠くから見れば、苦痛もいとおしい。近くから見れば、そんなことを言ってはいられない。
苦しみはある。しかしそこから何を学ぶかは、主体の問題である。
傷口があって人の優しさがしみるように、苦しみがあって、神との対話が始まる。感謝するだけの神ではなく、問いかけかつ問いかけられる神との関係が始まる。その時はじめて人間が成立するのだと思う。
2821
「母乳」山本高治郎(岩波新書)
●土居健郎が紹介していた。なるほど大切な指摘を含んでいると思う。
・刷り込み。後追いの対象となる個体は、そのひなの生涯を通じて不変で、変更を許さないユニークな存在となる。異なった種の里親の鳥に育てられたひなは、成長となった場合、性的な反応を里親の種の異性に対してのみ示し、自分の属する種の異性には示さないことが確認されている。性的固定が、自分の続さない種に対して起こったり、人間に対してすら起こる。
●本当だろうか?動物は鏡を使うわけではないから、自分が何であるかは分からないはずだ。刷り込みの時点で親となって種に自分は属すると考える。それはよい。しかし、配偶行動の段になって、自分は相手と同じ種のつもりでも、相手は相手と同じ種であるとは判定してくれないだろう。しかも、種の中でも異性に対して配偶行動を起こす。自分とは異なる種について、異性か同性かの区別ができているのだろうか?オオカミ少年の場合、刷り込みがオオカミを対象として起こったわけだ。
・出生から二週間、子は親に固定され、親は子に固定される。母性愛という愛が点火する。ヤギの場合は分娩後の数分間、ヒツジの場合は数時間、ネズミの場合は三日間。人間は二週間程度。母とこの最初の日々はきわめて貴重な日々である。
・ゴム乳首。二重に不幸である。母性愛の火に待ったがかかる。新生児は最初にゴムの乳首の吸い方を覚えてしまう。
・子宮外の胎児の状態は満一歳の頃まで続く。その未熟の脳に、ということは発達をとげつつある脳に、遺伝子によらない多くの情報がインプットされてゆく。ポルトマンは、「人間の尊厳は、子宮外に出た胎児の期間に獲得される」と述べる。
・母性愛は、出生後二週間ほどの間に、母と子がどのような蜜月を過ごすかにかかっている愛情である。
・母親が子供に乳を与えることをnursingという。
・乳房から直接に乳を与えることは、単純に食物を補給するということだけでは終わらない。
・工業化。人の心を充たす何ものかが失われた。
・聖アウグスチヌスは小児のもつ天衣無縫の行動の中に、人間の原罪の萌芽を認めていた。母親が自分の子供に哺乳する行為すらも、一種の肉欲によるものであるとしていた。子供が泣くたびに乳を与える行為は、放縦につながる行為だった。
●母親は子供の泣き声が聞こえる範囲に常にいて、一日に何度でも好きなだけ乳を与える。これが理にかなっているという。
・エストロゲンは少女を女性にする。プロラクチンは女性を母親にする。
・乳頭に吸啜反射→視床下部プロラクチン分泌阻止因子が休止→プロラクチン分泌
●ここでドーパミンがプロラクチン分泌阻止因子である。ドグマチールの副作用。
・オキシトシンは乳頭の筋上皮細胞に作用して、射乳。プロラクチンは腺細胞に働いて乳汁産生。
・多発性硬化症は髄鞘が変性する病気。自律神経は植物神経とも呼ばれ、髄鞘がない。錐体路は髄鞘がある、有髄神経。新生児は満二歳で髄鞘化が完成する。
・牛乳は母乳に比較して、蛋白質と電解質が多い。熱量が同じ場合には、電解質と蛋白質を過剰に摂取することになる。未熟な腎臓で処理する必要がある。しかし、濃い尿をつくることができないので、多量の水分を必要とする。水だけを要求することはできないので、さらにミルクを飲まされることになる。酷暑の際に乳児にみられる夏季熱は、体温を犠牲にして、浸透圧を正常に保とうとする。その結果が体温上昇になる。水分を与えて一汗かかせると体温は低下する。
・幼児は耳が聞こえていないのではない。刺激が繰り返されると慣れを生じる。これは高位中枢が働いていることを意味する。
・虐待が、新生児期に集中医療看護を受けた未熟児に多発する。親とこの間に愛が成立しなかったことを物語る。母乳哺育を通じての母子の関係は、人間の尊厳の獲得に通じる。
・出生後一時間以内に、母子が哺乳により結ばれれば、人間にとってのもっとも幸福な体験を持ったといえる。
・母乳を与えること自体、母親の心をやすめる。プロラクチンがトランキライザーの働きをする。
●つまりは、母乳哺育以外の方法で育てられた場合には、精神的に重大な欠損を残して生育する可能性があると考えられる。人工栄養はそのような効果をもたらしている。近年の若者の「出来損ない」の様子を見れば、納得させられるところがある。人間として異質な人たちであり、そうした人たちが今度は親になる。ますます異質な人間になるのではないか。
そして「向こう」からみれば、母乳保育された人間は異質と映っているのではないか?感性も倫理も価値観も、異なった世界ができて、それはそれでいいのだろうと思う。二種類の人類が同居して、お互いが違う種類であると認知していないと、居心地が悪いことになるだろう。
新人類という現象はこうしたことと関係しているかもしれない。スタートにこの事実があり、さらに生育の過程で、学校教育、家庭のあり方、地域社会のあり方、遊びの仕方、いろいろな要素が絡んでくる。
2822
ホルモンの嵐→思春期と妊娠・出産期→これは女性の場合の分裂病好発期
ドーパミンが、プロラクチン阻害因子であること
2823
すりこみ
刷り込み時期に、子に刷り込みが起こり、同時に、母親に母性愛への点火が起こる。
(刷り込みとホルモンの関係)
同様の点火が思春期に起こる?
最近の事件。シンナー中毒の既往がある青年が、道路で見ず知らずの人を包丁で切りつけた。朝、通学途中の女子高校生を重体にし、幼稚園のバスを待っていた女の子は逃げようとして転んで殺された。それを助けようとした母は重体。犯人が逮捕されたときには背中に包丁が刺さっていたという。
母親は子供を見捨てて逃げることもできただろう。しかしそれをしなかったのはなぜか?
「ソフィの選択」のソフィは、子供を見捨てたことが外傷体験となる。その傷を癒すことができなくて、苦しみ、死に至る。
母性愛のユニットが彼女を許さなかった。内側から苛む声となった。
2824
自分は何をしたいのか。自分はどうなりたいのか。そのイメージを明確に持つこと。くっきりと細部までイメージできるようになること。そうすれば実現に近い。人生を生きるポイントである。
2825
「季節性うつ病」(ローゼンタール)講談社現代新書
精神療法についての比喩
コンピューターソフトにバグ(間違い)があり、繰り返し何度も同じところでエラーが発生する。そうしたエラーを訂正すること。
家の中にいるハエが外に出ようとしてガラスに頭をぶつけている。そこにガラスがあることや、後ろに飛べばドアが開いていて外に出られることなどを知れば、問題は解決する。ただ状況を知ればよいだけである。
神経症者は間違いから学ぶことなく、同じことを何回でも繰り返すといわれる。
フロイトは幼児体験に遡る。(●幼児期の内的欲動の興奮体験。興奮させられても、解消する方法を知らない。)
2826
変な理論
うんちが臭くて足が丈夫な人。なるべく遠くに臭いうんちをするから、自分の領域を広く保つことができる。すると食料を多く確保できて、家族をたくさん養える。
赤ん坊はうんちが臭くない。老人になるにつれて臭さが増す。これは遠くにはいけなくなるが、自分の領域を確実に確保する働きがある。
遠くにうんちを置くには足が速くてかつ我慢できなければならない。下痢気味が続くとよくない。領地をとられてしまう。
老化に伴う変化の中で、進化論的に有利なものがないか?
2827
「1998年精神医学的考察」と題して考える
2828
躁うつ病者の認知は、「ないものをあるとする妄想的な認知」ではなく、「あることはあるが、それほど過大視するのは間違っている」といったような認知である。ないものがあるとするのはひどい間違いであるが、あるものを過大に評価するのはマイルドな間違いである。
これは注意のスポットライトの当て方の問題ではないか。
「ないものをあると認知する」のは、結局、「自身の内面にあるものを外部にあると誤認する」ことだろう。言い方を替えただけとも見えるが、かなり違うように思える。
2829
人を愛することはどのようにして報われて、ポジティブ・フィードバックのループが形成されるのか。報酬系は何か。考えてみる必要がある。
愛がなくなっているのは、報われず、強化されないからだと思う。
報われない愛を救済するために、神の愛が役立つと思う。人のためと神のためと自分のためとの三者が一致する地点では幸福である。
2830
ギブアンドテイク
境界例
子供がそのまま大人になった(あるいは不適切で大幅な退行状態)
自分の命、自傷他害を武器にして、親が示すのと同程度の関心を引き出す。
境界例は、衝動性が高く感情制御が悪いという特徴がある一方で、他人にあれこれ無理な要求をするという印象がある。「無理な要求」というのは、大人だったら普通であるギブアンドテイクの原則を逸脱して、まるで乳幼児が親に何かを要求するような態度である。乳幼児と親は特にギブアンドテイクというわけではない。それをそのまま大人になってもやっている印象である。これは生育不全というべきか、極度の深い退行というべきか、両方の要素があると思うが、やはり退行がひどいのではないかと思う。
普通ならばそのようなおかしな要求には誰も応じないものである。ところが、彼らは命や自傷他害を武器して周囲に要求をのむように迫る。周囲の人の中には優しい人がいて、「親のように」ギブアンドテイクではない関係に入り込む人がいるものである。そのときに境界型人格障害的人間関係が成立する。一方的に要求して、一方的に利益をかすめ取る。
愛情という利益をかすめ取られた人がきっぱり絶縁してしまえば、それで終わりである。しかし絶縁できずに続けてしまう。境界例の女性に対して、あくまで優しい夫がいるものである。また、衝動的で感情統制の悪い娘に対して、なされるがままの母親がいるものである。
その場合、普通ではギブアンドテイクになっていないけれど、実はギブアンドテイクになっているという深い事情があるのではないか?だからこそ境界例は存在していけるのだと思う。
ギブアンドテイクよりは、親と乳幼児の関係に近い。親が乳幼児の要求を聞き入れて自分達も楽しんでいるのには理由がある。それと同じような何かがあるのではないか。
2831
うつ状態の進化論的な意味
不適応のサイン
異質の遺伝子の導入を促す仕組みの仮説(適応状態と免疫システムと精子製造細胞とが連動して働く)
適応の仕方を変えてみる柔軟性が求められている。死ぬことが求められているのではない。それは過去の社会の話である。現代では、知識や経験の蓄積は大いに価値がある。
自己保存本能、種保存本能、集団性本能の衰退→つまり死ぬということ。
生殖年齢を過ぎてからの発症……「もう要らない」という集団からの通告
不適応な個体は集団のお荷物になる。そこで排除の圧力が働けば「好都合」である。(集団の生存可能性としては)
→ではそれに抗して生きる理由を持つためにはどうするか?存在の理由、価値がある、必要とされている、みんなのためになる、そこが信じられればいい。→しかしそこに妄想的で訂正不能の思考が入りこんでいる?
不適応遺伝子の排除は集団のシステムとして確保しておかなくてはならないだろう。そうでなければ、その集団は衰退する。
しかしそれは過去のことであって、これから先の人類がどのように選択するかは、我々の自由である。「自然のままに」することが最良であるとは限らない。
2832
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
●日本語の推敲が不充分である。誤植や校正ミスと思われる部分がいくつもある。
●恋愛転移が当然のコースのように書いているが、これはどうだろうか?治療者の中に内在する欲望を読みとって患者がサービスしている面があるのではないか?
●たとえば症例で、どうしようもなくなり閉鎖病棟に移ってもらったところ、医者は何も分かっていないといいながら、退院してから後は仕事に就いている例があった。これなどは、理解されるかどうかではなく、社会復帰に役立ったかどうかでみるならば、閉鎖病棟の無理解な医者が有用だったということになるだろう。(治療の全体の経過というものがあるから、このように単純化するのは危険ではあるけれども。)
・フロイトの時代は欲望の抑圧の時代であった。現代は欲望の発散の時代である。
●フロイトの時代には強すぎる抑圧があり、それに拮抗して強すぎる欲望があり、症状を形成していた。そこで抑圧されている欲望の内容を意識化することで症状を消した。抑圧を解除して欲望を満足させてしまうのは社会的に容認されないとなれば、欲望を意識化するという解決はとてもスマートであった。
現代は抑圧が少なすぎる。従って、自分の内部の欲望をコントロールする方法を学ぶ必要がある。しかし現代の消費社会は、欲望をあおり立てる。そして火をつけられた欲望を冷ますには、金がかかる。広告があおり立てる欲望をコントロールするとしても、広告産業はさらにどぎつく欲望を刺激する。それが商売だからだ。プロの技で欲望を刺激されれば、制御の弱い人たちはひとたまりもない。カード地獄に陥る。借金を返済しようとして、人生をだいなしにしてゆく。
しかし結局は、そうした「欲望をあおり立てるもの」に抗するように、欲望制御を学ばなければならない。非常に困難であるだろうけれど。このような「学習」はいかにして可能であるか。難問である。
嗜癖の問題はこうしたことの線上にある。境界例の場合も同じ。対人関係嗜癖と捉えて、どのようにして自分の内部の欲望や感情を制御できるか考える。
しかしある程度は生物学的に規定されているものだろうと思う。
2833
テレビでひとくち知識
不眠症。交感神経と副交感神経のバランスが悪い。交感神経は太陽、副交感神経は月、昼と夜にそれぞれ優位になる。夜になっても緊張してぐっすり眠れないという人は交感神経優位の状態が夜になっても続いている。交感神経から副交感神経への交代がうまくいっていない。
背景にはストレスがある。持続的ストレスがあると、交感神経の興奮がいつまでも続いてしまう。
ラベンダーは副交感神経を優位にする。休息のためによい。
ローズマリーは交感神経を優位にする。集中力を高める。
持続的交感神経興奮状態。ストレスの実態をこの面から考える。
2834
SSTでは、受信→処理→発信モデルを使う。
認知療法では、出来事→認知→反応モデルを使う。
類似している?
脳は、感覚神経→中枢で処理→運動神経となっている。だからこの類型が繰り返し登場するのではないか。
認知療法の「出来事→認知→反応」モデルはやや次元が異なるかもしれない。「出来事→認知スキーマまたは自動思考→認知発生」と、ここまでで感覚が成立し、このあと、中枢処理と運動神経による反応が続く、と考えた方がよいのだろうか。
どこまでが中枢処理化については、区別はない。次第に高次の処理になるというだけで、連続している。だから中枢処理というのも正しくないと思う。
感覚から始まり、認知になり、高度の処理になり、意志発動になり、運動神経に至る。関係する神経細胞のそれぞれが、独自の処理をしているのである。
2835
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・生産社会から消費社会へ。(ボードリヤール)
・物そのものよりも、物についての情報を交換する社会。
・消費社会、情報社会において、人の内面はどのように扱われるか。生き方や価値観を記号的情報にすることは難しいだろう。そこで内面は疎外される。
●内面が疎外されることの原因をここに求めるのは間違いではないか。対人関係のあり方に影響を及ぼしているのは何かと考えたい。対話的関係を阻害しているものは何か。
ただ昔は内面が大切にされていたのに、現代は内面が疎外されているというなら、間違いであろう。昔は昔で、現代は現代で、問題があるのだと思う。
・地位、学歴、要望、ファッションなどの表面的な価値は情報になりやすい。
・情報社会、消費社会は人の欲望をかき立てる社会。人は欲望のコントロールを失うようにしむけられる。
●ここでは大衆の欲望を操作する側と、操作される側とに分かれるのではないか。そしてさらに、欲望を操作する会社に属している人間が、家に帰って、操作される大衆の一員になる。勿論、家に帰らなくてもどこにいても操作される大衆の一人である。
・リースマン「孤独な群衆」で、伝統志向型人間、ジャイロスコピックな人間(個人主義、生産主体の人間、資本主義を生み出した)、レーダー人間(情報収集にたけている)と分類している。
・価値観の混沌。価値観を持たないまま、情報収集にのみ能力を発揮する。一人おかれると自らの人生を楽しむ能力がない。孤独に弱い。一人になると情報のないレーダーになる。
・情報の交換が行われている機械に過ぎない。本当の喜びはそこにはない。
●本当の喜びとは?幻想ではないか?あるいは人と人との真性の交わり。
●レーダー人間というのは、現在でいえば、情報末端たとえば「ザウルス」のようなものである。パソコンでもいい。
2836
昔の物語は精神病は少なかった。障害は外部にあった。たとえば愛ゼンカツラ。
今は障害は精神の内部にある。トラウマがいかに癒されるかという物語と、愛の物語が交錯する。男と女が愛し合うということの中に、心的外傷の癒しが混入する。そこでは純粋な愛ではなく、別の何かが混入しているのである。
2837
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・意味や価値が空洞化し、人格の外枠しか身につけていない。
・見かけの自由はありあまるほどあり、その自由の裏側に消費熱あるいは欲望を操る隠れた意図がある。我々はその見えざる手に支配されている。
・自分なりの価値観をつくることから限りなく逃げようとする時代。
・この中心のない人間こそ、境界性人格障害である。人格に核がなく、人に依存し、親密さを求めるのだが、それが得られないとなると一挙に退行し症状を呈する。
・現代社会には枠が乏しくかつ不安定である。境界性人格を作り出すとともに、境界性人格に適した社会である。
●衝動性人格障害、不安定型人格障害などと明示すれば利益があると思われる。
・成熟を放棄し逃避するのが境界性人格。
2838
出生前の遺伝子診断でダウン症が分かる。この技術をどう利用するか。新聞で。
また一方では、幼児期の教育過熱についての記事。親の喜ぶ顔が見たいからと頑張る子供もいるらしい。
「命の選別」といった言葉で表現される。しかしそれを言うなら、配偶者を選択するときにすでに選別は始まっている。血縁関係に遺伝しそうな病気の人はいないかなど、調査するとしたら、それは「命の選別」を前提にしているのではないか。
しかしまた一方で、ダウン症が診断されたとして、どうするかという問題は残る。どうすればいいのだろうか?クールな選別がいいように思うが、しかしどこで線を引くかという問題がある。例えば、女の子なら「要らない」との考えはどうか?「要らない」という言葉で表現されるような心理があるとすれば、それは過剰な選別かも知れないのだ。
難しい問題である。しかしながら、こうした問題は、倫理観と実利の対立である。時間が経てば確実に、倫理は後退して、あるいは倫理は変容して、実利に従うようになるだろう。
無条件に尊重されるべき命が、親の都合で選別される。それでいいのか?この延長上には、カトリックの考えがあるだろう。
だとすれば、フェミニズムの発言の中に、有力な反論が含まれているだろう。
選別の原理を拡大すれば、「自分に都合の悪い存在は消去してもよい」とすることになってしまう。しかしこのような「拡大」は意味があることなのか?一部の論理を過剰に拡大して、そのことに意味があるとも思えない。
2839
大江健三郎が新聞で書いた、「人を殺してはいけないのはなぜなのかとの子供の発言の中に大いに問題がある」とする文章に、また一人、新聞紙上で文章を発信している。灰谷も書いていた。大江が非難されている。
大江は障害者の中に、弱いものの中に、無垢の子供の中に、真に大切なものがあるとする論者の代表であったから、年末の新聞のような発言は、「仲間」から見れば非難に値するものであろう。
しかし、個人的にいうとすれば、現代日本の子供たちは明らかに一つの曲がり角を曲がったように思うのだ。
「なぜ人を殺してはいけないか」などという問いは、実際はドストエフスキー的な哲学的な問いである。そのレベルでなら、問いかけにも深い意味がある。しかし、そうしたレベルに達していない子供が、何を考えてテレビで発言したかが問題である。
殺人を禁じる根拠についての深い哲学的問いと、人を殺してはいけない、傷つけてはいけない、仲良くしたいとする、自然な生活感情を問い直す態度との間には大きな隔たりがあるのではないか?
2840
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・DSM4での9つの診断基準
マスターソンは「見捨てられ感」が中心と考えている。カーンバーグは理想化と脱理想化を揺れ動く、不安定で激しい対人関係、つまりスプリッティングに関係した項目が中心と考えている。
その他の多くの人たちは、衝動的、自殺のそぶり、感情の激しい変動、強い怒り、強い愛情飢餓、をあげている。
・ICD10では、不安定人格障害。下位分類に衝動型とボーダーライン型。ボーダーライン型は、自己同一性の障害、慢性的虚無感、見捨てられ感、自殺の危険、自傷行為が見られ、DSMでいうボーダーラインに近い。
・ストーン。診断基準の中に、人格傾向ではなく、症状と見なすべきものが入っている。不安定な対人関係、不適切な怒り、気分の変動性など。この点からは、人格障害というよりは症候群と考えた方がよい。
・「発症」というニュアンスが強い。
・治療は自然成熟を待つ。やや軽うつ状態で治っていく。
・神経症者を治すには最終的には性格の問題にぶつかる。
・スターンの指摘。深刻な自己愛的病理を持っている。現実感覚が弱いので、ストレスにあうといとも容易に適応能力を失う。
●現実感覚が弱いとは。現実検討に問題がある。これは自分の内面のことを外部のことと区別できなくなっている状態。情報の帰属を間違う。内部と外部の区別ができない。しかし、それにしてもなぜそのようなことが起こるのか?→情報不足がそのような結果を招く?少なすぎる情報で何かを推定しなければならないとしたら、過度の推定が生じ、それを訂正するプロセスを持たない。
結局、「情報が不足し」、「訂正のプロセスが欠如している」と考えればよいのではないか。情報の不足については、内的情報遮断が起きている。内的情報遮断と訂正プロセス欠如とは分裂病の病理であると思う。
●過度の傷つき易さ。
・カーンバーグの説。すべての患者は、性格構造として、精神病的構造と神経症的構造、その中間の境界性パーソナリティ構造の三つのうつのいずれかを持っている。
境界性パーソナリティ構造は、アイデンティティが損なわれている、原始的防衛機制特にスプリッティング、現実見当識の保持、が特徴である。
神経症的構造では、アイデンティティは保持、防衛機制は抑圧が主体。
精神病的構造では、現実検討能力が失われている。
アイデンティティ 防衛機制 現実検討
神経症的 ○ 抑圧
ボーダーライン × 原始的 ○
精神病的 × ×
・自我の弱さとは、不安に耐える力が弱いということ。
●なるほど、このように定義して考えるのがよいかも知れない。自我といっても結局何のことか、よく分からないのだから。
2841
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・カーンバーグのスプリッティングは、クラインに由来している。パラノイド・ポジションの主たる防衛メカニズムであり、つまり分裂病の主たる防衛メカニズムと考えている。自我の対象の状態が、良いと悪いとにスプリッティングすることは、良いと悪いが共に混在することによる、当人の不安を防衛する働きがある。これによって自我が混沌となることを防ぎ、自我の体験を整理するのを助ける。
●「良いと悪いが混在すると不安が高まる」これは、たとえば父からの性的虐待を受けたときの子供の心理である。いっそのこと all bad であれば、不安も少ない。(恐怖は大きいだろうが)
●こう書くと、不安が内部発生のものであることが分かる気がする?
・しかしこの意味では、スプリッティングは分裂病のメカニズムである。
●分離(解離)することと、投影することの混合。「投影すること」に精神病性のメカニズムがある。
スプリッティング=解離+投影
解離は解離性障害
投影は分裂病性障害
と公式化してもよいかも知れない。
・大人の仮面をかぶった3、4歳の子供というイメージが強い。その表面の大人の部分と多くの子供の部分をどう統合するかが主たる問題である。
●このイメージは、「ヒステリーは全般的に子供に帰る。ボーダーラインは部分的に子供に帰るが、他の部分は成熟した大人である」という考えに一致する。全般性低下と、部分的低下の差と考えて良い。
・衝動制御、感情制御、うつ気分の改善、自立心育成などが治療の主目的である。
・BPOの人も、抑圧を使っている。原始的メカニズムと神経症的メカニズムの両方を使っている。
・他人への幼児的接し方。自分の依存心が満足されない場合には、大変な強い反応が見られる。他人と対等な人間関係が結べない。
●このあたり。母親でもない人に、母親ほどの巨大な愛情を要求している。
・ガンダーソンは理想化、投影性同一視などを批判。過小評価は見られるとした。
・自己嫌悪、自虐性、マゾヒズムはうつ病よりもBPDで強い。
・BPDの自殺をそぶりと考えてはいけない。操作的でない自殺も混合している。
・安定した一貫性のある自己感が障害を受けるのがBPDにとって中心的な問題であるとガンダーソンは考える。
●MPDの像に近くなる。
・一見表面的には明るくて、虚無感など持っていないかのように思われる。しかし空しさに悩んでいる。
・能力の割には達成は低い。
・研究が進むに連れて、衝動性、怒り、対人関係の障害あたりにまとまりつつある。
・境界性分裂病のグループは分裂病型人格障害。感情病圏にやや寄ったのがボーダーライン(スピッツァー)。スピッツァーの考えは、カーンバーグ、マスターソンよりは、グリンカー、ガンダーソンを大幅に取り入れている。
2842
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・見捨てられ感について
・二十歳以上のBPDの方が見捨てられ感が強い。これは二次的「見捨てられ感」が混入しているから。成人後の多くの要因が絡んで生じる。つまり成人後に実際に見捨てられる体験をする。
・マスターソンはマーラーの考えを踏襲している。15〜22ヶ月までの乳幼児の再接近期に、母親の適切な個性化、分離化の励ましと愛情がないと、独特の傷つきやすさを有し、見捨てられうつを体験する。それが外傷体験となり、発達過程に障害を残し、全体的発達を抑制し、思春期に至って見捨てられ体験に近い体験をすると一挙に退行して、再接近期の見捨てられ感が再び大きくその患者の心に生じる。
・アメリカのデータによれば、BPDを外傷後症候群と考えることも可能な状況である。
・BPDの親にBPDが多いのではないか。彼らは子供に対して衝動的で不安定なため。
・母子と父子で分離体験の差はないとする報告が多い。
●母子と父子では重みが違うように直感するが?
・日本では虐待は少なく、性的虐待はさらに少ない。→むしろ過保護という虐待を考える必要があるだろう。遅すぎる分離・個体化。母子共生。
・同一性障害主体型のBPDには見捨てられ感のテーマは少ない。
・男女の治療者が父親、母親の役割を持ち、共同して治療にあたる方が患者にも治療者にも余裕を与える。一方の治療者に対する転移を話すことで客観化するとこができる。
●「治療者に対して患者が性的欲求を持つ」と解釈している。まあ、これは理論通りだからいいのだろうけど、こんなことを言われたら、普通の患者は離れてしまうだろう。それでも離れないのは、なんとなく治療者と患者が、同じ体質を持っていて、演技的に診察場面を過ごしているような印象を受ける。
治療者がエロスで対応しているから、そのことを患者が感じ取って、エロスで返している面がないか?テニスのボールを最初に打っているのは、ひょっとすれば治療者の側である。自然の心の動きということもあるし、理論がそのように教えているという要因もある。
このような症例報告を読むと、「町沢さんに?」という印象を受けるのだ。
恋愛転移を起こさせるような面接をして、こじらせているだけではないのか?
・自己愛性人格障害を合併する人は多い。幼児的万能感が傷つき続けると、他者からの評価過敏から見捨てられ感が生じる。
●幼児的万能感が傷つけられる。これが自己愛人格障害の中核かも知れない。
●自己評価が高いと、自己愛的になり、自己評価が低いと境界例的になると言えるか?
・「見捨てられ感」よりも、「強い分離不安」、ないし「自立心の弱さ」と表現した方がよい。見捨てられ感は分離不安や依存心のあらわれに過ぎない。
2843
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・下位分類の提案。
自己の構造の障害を思わせる、分裂病圏寄りの自己脆弱性優位型。
絶望感、無力感、孤独感といった感情病圏寄りの症状を主に訴える抑うつ気分優位型。
・自己脆弱性優位型は、自己の感覚が不安定であり、それを補強する。支持的。抗精神病薬。
・抑うつ気分優位型は、感情コントロールが主たる治療。情緒の言語化を促し、それによって単に気分に流されるのではなく、自分の直面するストレスを明らかにし、その対応を共に検討する。そうするプロセスで感情の言語表現によって、できるだけ自己をコントロールすることを学び直し、欲求不満耐性を強くすることが心理療法で求められる。抗うつ薬。ときにリチウム。
2844
援助交際についての説得がそもそもかみ合わないわけ
説教が、マウンティングになってしまっているからだ。
「優位を示して相手をやっつけるゲーム」としてしか感じていない。だから、共感のないあの言葉「誰にも迷惑かけていないじゃない」も出てくる。
他人にこんなに心配をかけて申し訳ないと思わないのか?
まじめに顔で説得しているこの人はどういう気持ちなのだろうかと考えないのか?この人と同じ土俵に登ってあげようという優しさがないのか?どうしてただ拒絶の言葉を吐くだけなのか?
この人は自分の人生を心配してくれているのだとなぜ伝わらないのか?なぜそれさえも拒絶するのか?
「いいような顔をしてきれいな言葉で言ってるけど、本当はあんたも私たちを買いたいんでしょう?」などとひねくれて思うのだろうか?
対話的関係がない。共感的関係がない。女子高生は相手を思いやる気持ちがない。だから拒絶があるだけ。
これは親と対するときと同じ態度である。ギブアンドテイクではない関係である。親は一方的に関心を持続していてくれる。それを前提にして、子供は自分の利益を最大にしようとゲームを始める。
それと同じパターンで、他人にも接している。「自分は子供だから」という地点から発言している。
子供だと思わなければ、「何をしても勝手だ」と言われるまでもない。勝手である。あとは法律があるだけだろう。子供だと思うから「教育的に」接したいと思う。すると、「勝手でしょう、余計なおせっかいだ」とくる。言葉では子供ではない次元で語っている。しかし相手の善意をそのように踏みにじって、なお許されるのは子供だけである。その点では子供の場所を確保している。
子供の場所を確保しながら、大人の言葉を吐いてみせているのだ。卑怯な態度である。
2845
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・治療
・転移の扱いがキーポイント。
・行動化に対して限界設定。
・治療目標を意識化させること。何度も再確認する。
・衝動性が激しい時期……限界設定、行動療法。衝動コントロール
落ち着いたら……支持療法
さらに進んで……認知行動療法
内省できるようになったら……力動精神療法
・「もう一人の自分がいる。悪い自分、それが出てきそうで恐い」
●このようなMPDのような訴えは、どう聞いたらよいものか。
・家族について
・境界性人格障害の衝動性、あるいは自我の脆弱性は家庭そのものの混沌、あるいは親そのものの混沌ときわめてよく対応しているように思われる。
●つまり、混沌を取り入れて(introject)内面が混沌になった。
・成熟が停止したというよりは、思春期に至り強いストレスが加わり、分離不安のレベルにまで退行し、したがって急速に症状を呈するように思われた。それは人格障害というよりも、DSMの第一軸に属する精神障害が「発病した」というニュアンスに近いものであった。
・まとめてみると、境界性人格障害の中核は、感情と行動の調節障害と同一性障害であり、さらに感情障害の中核は分離不安を中心とする見捨てられ感である。脆弱性としては、多彩な精神障害の遺伝負因と、劣悪な家庭環境や親子分離を有している。多くは思春期のストレスによって「発症」することが多いと考えている。
2846
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・自分を悪く考えてしまう傾向、対人過敏と対人依存、強迫的思考の三者が、精神疾患にかかりやすい人の認知パターンである。
●かかりやすい人というべきか、かかった人のその後というべきか。
・BPDとうつ病を判別する項目。「わたしがいない方が家族はうまくやって行くだろう」「自分が他人に必要とされている人間とは感じない」「私は人生に立ち向かう力がないと感じている」つまり、見捨てられ感の強い対人関係の障害が中心。
・ボーダーラインについての町沢の分類‥‥衝動型、抑うつ型、同一性障害型。‥‥衝動型と抑うつ型が日本では多い。抑うつ型は抑うつがとれると衝動的になることが多く、結局、衝動型をボーダーラインの中心と考えて良い。ライヒの衝動的性格が基本ではないか。
・特徴。衝動的。甘えが強い。自立心に乏しい。過剰な転移。大人の顔をしながら三、四歳の子供のように思える。スキンシップを求める。治療者に「抱いて」などという要求は実に一般的である。
●治療者がこうした要求に巻き込まれ易いであろうことは容易に分かる。誰がこのような要求に対して上手に対処できるだろうか?心のどこかで、治療をはみ出しているのである。やはりチーム医療にするしかないだろう。
しかしまた、チームというものは容易に倫理的に堕落するものである。だから難しい。
チーム医療は、底の抜けたザルになりやすい。しかしまた一方で、治療者の個人的暴走につきあわざるを得ない患者という立場もまたかわいそうである。暴走と底の抜けたザルと、どちらも最悪である。
チームのよう面と、個人の良い面とをミックスするような仕組みを考えればよいわけだ。
ボーダーラインシフトをもっと工夫して洗練する必要があるだろう。しかしその前提として、個々のスタッフのレベルがもっとあがらないと何もできない。それが日本の精神科医療の現状である。
・衝動性、感情不安定、愛情飢餓から、すべての症状の説明が付く。
・日本における過保護は、子供の自立心を奪うという意味において虐待に近い。子供のペット化である。自立心や自己主張を抑えてしまう。成熟停止を起こす。思春期になり抑制できない感情がわき出てきて、境界性人格障害になる。
・家庭の混乱が激しいと、子供は無理に「仮の自分」をつくってしまう。偽の自分をつくり、一時期しのぐ。
●このあたりはMPDと同じ考え方。
●1‥‥抑制系の未発達に由来する、衝動コントロール不良。2‥‥心的外傷に対処するために、解離機制を用い、それが固定する場合。
ボーダーラインはこの二つの要素の混合物であると考えてはどうか。
・BPDは単独に見られるのではなく、いろいろな人格障害や精神疾患と合併している。演技性、自己愛性、依存性、回避性など。男性なら反社会性も多い。
●小此木は、「各種人格障害が重症タイプになると境界性人格障害の像を呈する」と提案している。
・BPDは「感情や衝動のコントロール障害」と捉えられる。加えて、自立できないための愛情飢餓。つまり「未成熟による愛情飢餓」この二つがBPDの二本の柱。
●成熟とは、孤独でも不安にならないこと。不安耐性の発達。
2847
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・社会の辺縁つまり境界線上に立つ患者は、ときに一般社会に潜む偽善を告発する。社会の仕組みのグロテスクさを表現する。
●しかしそうしたことは、社会分析から得られるのではない。自分が感じている病的違和感が、見方を変えれば、社会を告発することにつながるというだけのことだろう。
しかし、社会が間違っているとしても、間違うに至るには理由があったのだ。そのことを度外視して、結果だけを批判するというのは未熟というものである。まさにBPD的な未熟さである。子供の語る真実、正義。それは原則的であり、誰も反対はできない。
宗教でいう、原理主義のようなものだ。
現実よりも原理原則を優先する態度である。
しかしこれはただ単に現実把握としても未成熟であるといえる。数少ない原理で現実のどの範囲を説明できるか、試みることは大切である。しかしそれは思考実験というものだ。
原理に現実をあわせることが大切なのではない。
またその場合の原理というものは、本当に人間を幸せにする原理であるか?そうしたことも吟味する必要があるだろう。
・BPDは「砂漠を一人歩いている恐ろしい孤独」をよく訴える。
・心の混沌を統合してくれるものを求める。
・結局、社会の中に入り込めない自分というものに直面せざるを得ず、再び虚無感の中に投げ返されてしまう。
●町沢は日本語が正しくない。多分、思考が粗雑である。そして言葉が美しくない。真に内的関連を持った言葉のつながりになっていない。言葉と言葉が内的関連を持ってしっかりと結びついていない。
・BPDは自虐的である。自己愛人格障害になれば、もっと自分が好きで、誇大的意識もある。BPDがよくなれば、自己愛人格障害に近い形になる。これはコフートが指摘している。
・他人の批判を極度に恐れている。
・カーンバーグは探索的心理療法。治療初期に起こる患者から治療者への否定的転移の解釈は不可欠。スプリッティングと否認についての解釈と防衛解除が大切という。
・マスターソンは、ボーダーラインは発達障害ないし停止と考えている。分離・個体化の段階で発達が停止している。したがって母親からの見捨てられ感が強い。分離・個体化の段階から、もう一度自我の再構成を行うべきだと考えている。
・アードラーは、ボーダーラインの問題は葛藤ではなくて欠損だとした。つまり自分が愛されているというイメージが乏しいか、または欠損していると考えた。治療には、安定したホールディング(抱え込み)が重要であり、彼らのよい自己イメージを作り上げ、慰めることが重要。原則的には支持的、後に探索的。
・ガンダーソンは葛藤の問題であると同時に、欠損の問題であるとした。治療は支持と同時に解釈的。治療は、
1 治療の安定枠や構造。
2 治療者の強い役割
3 否定的転移への忍耐力の確保
4 患者の現在の行動と感情の関係を作り上げる。
5 自己破壊的行動を不快なものとし、自我異和感として排除する。
6 行動化を阻止する。
7 「今ここで」に焦点づけた明確化と解釈が重要である。
8 逆転移に十分な注意を向けること。
治療者の人格と患者の人格がうまくマッチするかどうかが、治療のポイント。
2848
症状形成・維持に関してはポジティブ・フィードバックができているはずだという推論
パニックアタックにしても、うつ思考回路にしても、何度も繰り返していて、それがだんだん消えていかないのはどうしてかと考えれば、どこかでポジティブ・フィードバック回路が形成されているのだと思う。ネガティブ・フィードバックができていれば、だんだん起こる頻度は少なくなっていくはずではないか。
2849
言葉の網の目を細かくすることはどのようにして可能かと考える。
比喩の意味について考える。
比喩を用いることの前提条件について考える。
たとえば、音楽を聴いたあとで、その感動をどのように伝えられるかと考える。その場合、言葉で表現するということは、ある程度、比喩を用いるということになるだろう。どんな比喩か?その人が、音楽以上に細かい語彙を持っている領域である。
つまり、比喩を用いるとして、自分が非常に細かく精通している分野が最低一つなければならない。そうでなければ、より細かな意味の網の目をかけるわけにはいかないはずだ。
今の若い世代が、あるいは単純に知能の発達の充分でない人が、言葉の網の目を発達させられないでいるのは、まずもって細かい意味の網の目に対応するだけの経験を持たないからではないか?
精通している領域がなければ、どうしようもないではないか?
2850
タイプAまたは執着気質に特徴的な二つの性格
1 上昇志向。内面的実存的価値よりも社会的価値を重んじる。
2 1を実現するために、真面目、几帳面、全エネルギーを注ぎ込む、といった正面攻撃で挑む。
結果として全エネルギーを使い果たす。年をとるに連れて、職責は重くなりより大きなエネルギーを要求され、一方でエネルギーは若いときほどではなくなる。こうした適応の仕方を変えていかないと、いつかは行き止まりになる。持続的交感神経緊張状態の結果、中高年のうつ病が成立する。あるいは心臓病、胃炎などの心身症が成立する。
→ここでMAD理論でうつの形成を説明できる。心臓や胃などについては交感神経そのものの影響として説明できる。
2851
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・いろいろな治療法を学び、自分の人格と自分の持っている雰囲気とに合わせて修正し、自分のものにして、あらゆる治療法がある程度こなせるといった方向が望ましい。
・カーンバーグにとっては、最初に患者から向けられる否定的転移を解釈し、それをくぐり抜けることによって、やがて力動精神医学的アプローチ、あるいは洞察を目指した治療、あるいは表現的治療が可能になる。最終的には、「よい・悪い」のスプリッティングを統合することが彼の目標である。
・マスターソン。二歳前後の分離・個体化の時期に母親の愛情が充分来ないために、成熟が停止した。そこで母親に見捨てられていると考えるところにボーダーライン発生の源がある。この見捨てられ感の克服がボーダーラインの治療である。これか「再構築法」。
・自由は彼らを悪化させることもある。自滅を進めてしまう。
・自然成熟を待つ力が、患者、家族、治療者に要求される。
支持療法について
・支持療法は、治療者がかなり活発で積極的な働きによって感情の安定化を助けるものであり、社会的機能向上、能力向上、精神分析とは異なり、感情を掘り下げず、自尊心を高め、安心感を高める。
分析は掘り下げるので不安を高める。
・ロジャーズの心理療法は患者への指示や助言を出さないものであり、あくまでも患者への共感に徹するものである。支持療法は助言や指示がきわめて重要な要素となる。ロジャースの頃に比べて、精神医学的、臨床心理学的知識が積み上げられた結果である。
・自我が脆弱な人やストレスに弱い人は、自分がどうしてよいか分からず、助言が欲しいと思うのも当然である。これを延々と共感的に聞くだけでは、彼らは一層不安になってしまうだけである。決定する力がない人に対して、決定をじっと待つことは時に残酷である。
・支持療法は、患者の自我の肩代わりをしてあげる。どのような助言や選択が望ましいか、またタイミングはどうか、センスが要求される。
●結局、広義の常識が必要である。
・自尊心を保証し高めること。必要に応じて直接介入すること。つまり、示唆、助言、指示、誘導。
・Bの人は一見自尊心は高いように高飛車に出ることが多いが、よく聞くと実に劣等感が強い。彼らがおかれている社会的な立場は、現実にたいてい低いからである。話を共感的に聞いて、やがて出てくる自尊心の低さを守ってあげる。そしてひとまず荒れた感情の静まりを待つ。
力動精神療法
・無意識を意識化し、自我の管理下におくこと。古典的精神分析の方法。
・解釈は抑圧されていた欲望と症状の関係を説明すること。
・自我分析。行動は本能によってのみ決定されるのではなく、自我によっても決定される。生まれた時から自我が働いている。その自我を分析する。人間は能動的存在であり、欲望や環境の奴隷ではない。
・短期力動精神療法。目標は具体的、患者の一番悪い状態を改善する。解釈は現在の状況に主に向けられる。転移性神経症が生じるのは望ましいものではない。心理療法は治すのではなく、困っている患者が。自分の人生の避けられないストレスに対してよりよく対応できるように社会的学習を助ける。
2852
「ボーダーライン」(町沢静夫)丸善ライブラリー(1997)
・彼らは概して家庭が混乱し、両親の喧嘩が絶えなくても、その頃は「仮の自分」として両親の間をうまく「良い子」として生きていたことが多い。しかしこの「良い子」は、本当の感情、本当の自己主張をしていない自己だけに、思春期、青年期になってきたときに、いろんな衝動に耐えうる十分な、本来的な自己に成熟していないものなのである。そのためにボーダーラインとして発生してくる。
●日本語が不安定で味が悪い。
●ACの論と同じ系列。
●どのように育てば、十分な衝動耐性が身に付くのか、実証はどうなっているのか。「本音でぶつかる」ことがいいことのように書いている。そんなものとも思えない。まあ、いつも仮面でいるよりはずっと健康だろうけれど。
・彼らが何故に衝動的であり、何故に感情のコントロールがうまくできないのか、何故に愛情飢餓が強いのかというその由来を分析し、突き止め、それをどう埋めていくかを話し合うことが中心になる。
●話し合ったところで、誰にも何も分からないような気がするけれど。
●そうした行動様式が自分に損失をもたらすなら、改めればよい。それが利得をもたらすなら、改めることはない。それだけのことのように思う。治療者は、判断の材料を充分に提示することでいいのではないだろうか?
判断は、価値判断であり、それは生きることの選択である。どうなろうとその人の勝手であり、結果を引き受ければよい。ただそれが自傷他害に及ぶ場合には特別の対策が社会として必要だということだろう。
あなたは何をどうすれば、どのような人生を送ることになるか、その見取り図のようなものを提示することだろう。それは治療というよりも、アドバイスである。指示ではない。
価値判断の材料を提示すること。
2853
声の大切さの指摘
テレビでも、ニュースキャスターとして真に人気を確保するためには「声」が大切。安心感を与える声。
これは精神療法でも同じ。昔からよく指摘されることだ。声の調子、抑揚など。これを「営業用」にコントロールすることは大切である。
2854
新聞で。親が嘆く。
家では何もしない。片づけもしないし、風呂にも入りたがらない。躾というものが全くできない。家庭不和があるわけではないし何といって問題もないのに、どうしてこんなことになるのか。
なるほど。「親の顔がみたい」と言いたくなるけれど、親も困っている。どうしていいか分からない。
これは生物学的な変異であろうとおもう。
本当にどうしようもない事態が進行しているのだろう。
2855
知識の三つの源泉について
知的に高等な人々と下等な人々の間では、この三つの源泉の比重が異なるだろう。
2856
日経メディカル1998-1月号「外来での会話術」(飯島克巳)で「解釈モデル」について書いている。
患者との面接で、患者が疾患についてどのような「解釈モデル」を持っているかを探る。
原因と経過、治療、病気がもたらしたもの。なぜあなたがこの病気になったか、失うものは何か、得るものは何か。あなたにとって病気とは何か。特に原因についての解釈。
「解釈モデル」が治療者と患者で異なっている場合、治療に支障のない範囲にまで、教育によって是正する必要があるだろう。
しかし精神病の場合にはこれが難しい。
一つには、患者は病識に欠ける。
病感があったとしても、原因については心因主義に傾きがちである。
従って、薬に不信感を持つことが多い。また、依存性や副作用についての根強い俗説がある。薬よりもアルコールの方がよいと考えている。(参った!)
つまり、精神病に関しては、素人と専門家との間で、原因から治療に至るまで、疾病についての解釈モデル、理解のモデルが全く異なっている。
「心の問題だ」という言葉が一体何を意味しているのか。専門家と素人では差が大きい。
だからといって、「素人は仕方がないものだ」では済まない。その素人が悩んで訪れる。強制入院ならばまだ強制的治療の方法もあるが、外来ではそんなわけにもいかない。
そこで悩みは大きくなる。一体どうすればよいものか。
2857
唯物論的宇宙論と日常生活を生きている我々の倫理感覚は矛盾していてもいいか?
世界論、宇宙論については、勿論唯物論である。神がどこかで何かをしているなどとは考えない。
人生をいかに生きるかということに関して言えば、むしろ神のある倫理主義をとる。
この両者は論理的に整合する必要があるのだろうか?たとえば倫理の根拠を求めて、宇宙論との整合性を追求し、最終的には唯物論的宇宙論か、日常生活を生きている我々の倫理感覚か、いずれかを否定するに至るのは、果たして正しいだろうか?
論理を追究すれば、これらは整合すべきである。どちらかを展開していって他方と矛盾するなら、やはり訂正が必要である。
しかし私が思うに、そのような論理はやはり間違っているのではないか。
それはそれ、これはこれだ。それじゃだめかな。
自由意志論についても同じ。哲学は哲学である。
「サイエンス・ニュー・ストーリー」の序文でエックルズが書いていたこと。つまりは現代科学の世界観が未熟なのだという指摘である。それはそうかもしれないが、しかし、そんな世界観が我々の日常を本当に蝕んでいるのだろうか?そうとは思えない。
我々の日常の倫理を蝕んでいるのは何か他のものだろう。そしてそれは何か。
世界観はむしろ結果である。言葉がやや拡張的になるが、症状である。病因ではない。
2858
「心の豊かさ」とか「物質主義でないもの」「物質の豊かさだけでは充たされない」という言葉で人は何を指し示そうとしているのだろう。
謎解きをするならば、結局は満足は脳内の状態に過ぎない。脳内麻薬物質か何か、そのようなものが、「心の豊かさ」の実体である。そしてそれを作り出すことが現状では薬剤では難しいから、どのような操作によればいいかということになる。
そのように言ってしまっては嫌われる。
「心の豊かさ」とは、私の定義は、「個々の豊かな心が結び合った状態」とでも言おうか。循環的な定義を一部含む。個々の心が豊かであるためには、心がつながっていることが前提である。さらにつながっている心がそれぞれ豊かであることが前提であり、そのような個々の心が成立するためにはつながりが必要である。つまり、「豊かなつながり」と「豊かな心」は同時に成立するだろう。
しかしまた、つながればつながるほど、孤独が深くなるという事情もあるだろう。孤独でもいいからつながるのである。孤独を癒すためにつながるのではない。自分が豊かになるためにつながるのである。
豊かになるということと、空っぽになるということが、同じことなのだから、難しい。「自分」を空にすればするほど、自分は豊かになる。自分の中にいろいろなものを詰めれば詰めるほど、貧しくなる。
真に心に詰めるべきは神だけである。しかし神は留まることがない。風のようである。何もない空間に発生する何か、それが神である。
豊かさとは、そういう事象である。
2859
「認知行動療法の理論と実際」(培風館)
・アメリカでは心理療法は長くても26週(回)以内、一般的には13週(回)以内のものにしか給付金を認めない傾向である。
・問題行動の根底に無意識の関与を仮定することについての科学的実証性の疑問
・実証的に検証された事実の上に科学的に構築すべきだ
●言葉が不安定。現在では、Evidence-Basedがいわれる。
・行動の大部分は学習されたものである。
・S−R理論は行動主義、S−O−R理論は新行動主義。Oは有機体内部の諸要因。
・ゲシュタルト心理学の人たちによって認知理論が展開された。認知理論とは、学習というものを知覚体系の体制化あるいは再体制化で説明する。つまり、認知の変容という視点から学習を説明する理論である。
・不安障害の患者は、まわりの状況を現実以上に危険であると評価し、さらに自分の対処能力を過小評価して、反応している。
・恐慌性障害の患者は、自分の身体の不調を緊急性のあるものと考え、不安を強める。息切れからは窒息を、胸部の緊張感からは心臓発作を、手足のしびれからは脳血管障害を、めまいからは意識消失を、動機からは死を、非現実感からは狂気を瞬間的に連想して、発作を加速する。
・否定的側面にばかり目が向くようになる抑うつ状態の場合にも、原因か結果かはまだ明らかにされていない。
・気持ちが動揺している場合には、他の人の反応を歪曲してとらえる可能性が高くなる。その危険性は特に情報が多い場合に高まってくる。
・最初に選ぶ主題は、核心的なものよりも、それを扱うことによって患者の自己価値や自己効力感を高め、治療者への信頼感を増すような可能性の高いものにし、その後、核心的な主題に移っていく。
・注意を他にそらす技法(diversion technique)を身につける。読書、散歩、電話、会話、固いものをかみきる、周囲に関心を向ける。
・「○○は××である」と考えるのではなく「○○は××という面がある」と考えることが、事象を適切に理解する方法であると伝える。
・「〜ねばならない」というほどのものはない。せいぜい「〜であってほしい」「あればいいな」という程度のものであることを強調する。かりにそれが果たされなくても、最悪などという事態はそれほど多くは存在しないという思考スタイルに導く。
●心の中のスポットライトが、狭い部分にだけ当たってしまう。もっと広くみることができれば楽になる。しかしそのような狭いスポットライトがどのようにして成立するのか。
○絶対的価値志向をやめて、相対的、多面的な観点に導く。
・一般臨床において、生活習慣病と、ストレス病が主流となった。各患者の心身病態、ライフスタイル、性格傾向、職業・生活環境などを正確に把握した上で、心身両面からの「生活指導」と「歪んだ認知の修正」をする。
2860
寓意の技術
これは大切である。「分かる」ということはこうしたことと関係している。
2861
「グノーシスとは何か」(マドレーヌ・スコペロ著、入江良平他訳)
・ユング派との関連あり。
・寓意の技術に長けていた。
・グノーシス主義者は自らについて語ることを好まない。彼らが著作の中でなそうとするのは、数多くの天上的な存在が集う上の世界を想起すること。これらの存在の中心には知られざる神がいる。知ることができ、知ることを望む人間、そうした人間の「知識」が究極の目的とするのは、この神である。
・地上における魂は、劣った神が創造したこの世界の暗闇に幽閉されている。
・人間は、暗澹たる苦悶の色に塗り込められたこの世から逃れて、自分自身に回帰し、そうして自分自身を乗り越えて神を見いだす。
・真のキリスト教徒、啓示の唯一の受託者を自称した。
・この世は劣った神が創造したもので、キリストが汚れのるつぼである肉体に具現したはずがなく、その肉体の中で苦しんだはずがない。
・人間の魂を誘惑しようとする詐欺師と非難された。
・絶対を探求する魂の道程。
・自らを知り、自らの起源を探求したいという関心。
・世界は邪悪な勢力の仕掛けた罠の所産である。
・自らの内面に埋もれている知識(グノーシス)の閃光によって世界から逃れることができる。
・人はこの賜物(グノーシス)によって神との結合、神と一つになることが許される。
・汝自身のもとへと立ち帰る。
・変容させ、彼を神的にする。
・福音の救済は万人に提供される。ところがグノーシス的宗教は選ばれた者たちだけのための宗教である。人は選択によって知る者(グノーティスコ)となるのではない。知る者は最初から知る者なのである。したがって、少なくとも理論上は、グノーシス主義への改宗なるものは存在しない。
・自分達だけが、イエスの隠された言葉を受け継ぐと主張した。
・人間と宇宙と神との関係を論じる夥しい文献。
・複雑で魅惑的な神話。
・旧約聖書の神は正義の神ではなく欺瞞の神である。この神は、人間に自らの神的な起源を忘れさせるために運命の重い鎖で人間を縛った。神の神は創造と無縁である。彼は無限の光の中にひとり存在している。
・世界や被造物に対する軽蔑から、グノーシス派は、超然主義的な道徳に導かれた。結婚や出産の否定にまで至る。
・絶対かつ究極的知識に対して抱いた憧憬。
・グノーシス派は旧約聖書を悪の神の作品とし、新約聖書を善と光の神の言葉とみなすために、旧約聖書の神と新約聖書の神が同一であるということを否定している。(カトリック教会は、両者の根底における一致を主張している)
・オフィス……ギリシャ語で蛇。
・「パナリオン」……ギリシャ語で、医者の持ち歩く「薬箱」。蛇の噛み傷すなわちグノーシス主義者の教えに対する解毒剤。サラミスのエピファニオスの反グノーシスの著作。
・教義は神につ