岩波の新刊で「プルーラリズム」を見かける。
記事によれば、
政治思想では、文化多元主義、文化的多元主義、カルチュラル・プルーラリズム(Cultural Pluralism)とマルチ・カルチュラリズム「多文化主義」は区別される。カルチュラル・プルーラリズムは近代主義とセットで使われる。同じ文化の多様性を標榜する思想ながら次のような違いがある。マルチカルチュラリズムが近代それ自体を数多ある文化の1セットとして位置づけるのに対し、カルチュラル・プルーラリズムは近代という枠内においてのみ多様性を認めるとする。リージョナリズムのように近代と両立可能な範囲でローカルなものを再帰的に維持しようとする立場もある一方、ネオコンのように近代の枠内と両立不可能のものをすぐさま排除しようとする立場もある。どちらの立場でも、カルチュラル・プルーラリズムは文化的な多様性や少数者の自由を許容する近代の原則を守らない多様性を認めない。
面倒な話だが、
いずれにしても、複数のものを認める立場である。
日本語は現在明らかに、他国に進出するのではなく、
他国から保護されるかどうかという立場にあるらしく、
プルーラリズムを採用してくれれば、生き延びられる。
日本国内でも、多様な方言が現在活発に生きている。
教科書と放送局が東京言葉をまき散らしている。
プルーラリズムは日本国内でいえば、方言を守る運動につながる。
私はずっと、方言に適した表記法をそれぞれに開発すべきだといっている。
ヨーロッパでも、それぞれの国で、微妙に表記は異なり、発音も異なる。
それは当然だと思う。
なぜ当然か。
ある集団で言語を一致させるのは、やはり集団の力学が必要で、集団内での伝達が必要である。
強いオーラを放つ人物がいて
その人の言葉が周囲の人を引きつけて、まねをして、標準となり文法となる。
国家として独立するかどうかは、言葉の要素が大きい。
言葉は脳にとってはOSであるから、
当然、反発もする。
多様性を維持しながら、
外部に対しては一致するという、難しい動きをする。
冒頭の解説でも、近代を大枠として守り、その内部での多様性という立場と、
ヨーロッパ近代も複数要素の一つであるとする立場とがあり、
進化論者の私としては、進化論的多様性を支持するし、しかし一方で、時間の後に淘汰されることも支持する。
世界が今後、旅行で結びつき、商売で結びつき、
婚姻で遺伝子を混合し、お互いの国のテレビを見たり、
そんなことの果てには、世界混合言語が発生するはずであるが、
その際にも、方言として、各地方の要素は残るだろう。
なぜなら、言葉のオーラは、人から人に直接伝えられるものだからだ。
現にこれほど放送局が東京言葉を流しても、
地方の人たちは一向に自分たちのOSをバージョンアップしようとはしないのだ。
若い人たちの頭には東京言葉も入っていて、
ダブルOSで、英語国で暮らした人はトリプルOSになっている。
酒を飲んで酔ったときなどは一番根本のOSで叫ぶ。
新しいOSにはバグがあるので、ときどき変調を来す。
そのときには、古いOSを使えば、安定する。
人間も同じ。
親も祖父母も話していた言葉をOSとして採用することで、
脳は安定する。