こころの辞典3501-3575

3501
少年少女とテレビ
・テレビは世界のどぎつい事件ばかりを集めている。人間が五感で生きている世界とは随分違う。しかしテレビの中の世界が「本当の世界」と思ってしまう。
・テレビは人間の全体ではなく一部だけを伝えている。虚像であることを認識しているかどうか?多分認識していない。偉い人も隣のおじさんとして付き合っていればいろいろな面が見えてくる。そのようになってはじめて人間のモデルとなる。
・いつのまにか権威になっている。テレビからのメッセージが「正しい」のである。正しさをチェックする能力がない。論理能力がないから、より高い権威を求める。単純化していえば、馬鹿だからだまされている。
・影響される子ども。その親はやはり影響されている。無批判に影響される態度が遺伝している。
・テレビは答えを提示するのか、考える材料を提示するのか?能動的聴取の能力。
・テレビの特徴。自分の話を聞いてもらえない。ただ「権威ある人」の話を聞くだけ。カウンセリングとは対極的な状況である。
・端的に、テレビの真似をする子供がいる。これはしかたがない。そのようなものだ。人間の一部はそのような人間なのである。分別もなく、自分の欲望のために他人が傷ついても何とも思わない。そのような感受性が決定的に欠落している人がいる。欠落の原因はテレビではない。しかし、欠落している人に、欲望発散の手口を伝え、実行をそそのかしているのはテレビである。そのような、欲望制御の欠落した人間と、普通の人間とを区別しないで扱うことから出発するとすれば、まずその前提を確認することが必要だ。
無論、刑法は犯罪発生後に機能するのであって、予防的に機能することはない。従って、現状では、一部にそのような人間を含む社会を、どのように運営するかということになる。
だとすれば、利益の考量は、普通の人の楽しみという利益(そして実はそれで儲ける人が社会を動かしているのだから、その人たちのの利益)と、犯罪が発生したときの不利益を天秤にかけることになる。
現実の問題として、次のようなことが考えられる。テレビでひどいシーンを放映するとする。その場合に、スポンサーがつくか、出演する俳優たちは拒否しないか。ひどすぎる場面ならばチャンネルを替えられないか。そうしたことをクリアーして、そのシーンは子供たちの目にふれることになる。小さな不利益という痛みがあるとしても、大きな利益が優先している。社会はそちらを選択しているのだ。

3502
980920の朝日「声」。取り柄がないわたしだけれど、ボランティアで訪れた障害者施設で、手を強くつかまれて、自分が必要とされていることを実感できた。
ああ、ここでも、「必要とされる快感」「必要とされる必要」である。でも、いいんだろう、これで。

3503
この国でエリートとは、税金の山分け構造にどれだけ深く組み入れられるかで定義される。
国家という暴力組織は、税金の徴収と山分けという側面を持つ。むしろその側面が中心といっていいかもしれない。その徴収のために暴力装置も用意している。
国民はそうした権力装置の恩恵を浴びる側と、被害を被る側に分かれる。税金の山分け構造の中心に近い人ほど、エリートということになる。

そんなエリートになるために勉強しているのではない。自分で事の善悪を見きわめ、未来の方針を決める、その自信を養うために勉強するのだ。

3504
「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社
・子供たちに共通してあるのは、「申し訳ないの妄想」。「わたしは親の期待するような子供でなくて申し訳ない」と思っている。
・ほとんどの子は何かしらの挫折感をもっている。
・暴れている子供に対して、「おまえが生まれてきたときには、わたしたちはほんとうに元気がわいて、頑張るほかないと思って、それで生きてこられたのだよ」ということをきちんと伝えたほうがよい。「ほかでもない、おまえの親をやれて、わたしたちはほんとうに嬉しいのだ」と伝える。そういうメッセージの場を与えることが治療者の仕事である。
●しかしそんなことを言ったら、どんどん要求がエスカレートしてしまうのが心配ではないか?北風ではなく太陽として振る舞って、おさまればいいが、おさまらない場合、どうすればいいのか、と悩みは尽きない。
・「どんな人が来ても、治そうとしないで、分かろうとしなさい」
●なるほど。これはいい指摘。ありのままでいいと肯定してあげることにもつながる。裁判所ではないのだから、これでいい。しかしまた、自分の趣味に合わないことであったら、「わたしはいやだ」と治療者が発言する権利も留保しておきたいではないか。公立の機関ならば、そのようなことは許されないだろう。しかし当院のような私設の、しかも大変小さな場所である。そのような自分の主張を持っていても悪くないと思う。自分の好きな「商品」だけを売る権利があると思う。
・泥棒をする人に、「おまえが泥棒をするからには、泥棒をせずにおれない事情があったんだろうな」と聞く。それがカウンセリングの精神である。
●なんという性善主義!まるだしの性善論である。まずこの前段階に、その来談者の精神構造の分析が必要である。普通の人が泥棒をするにはわけがある。しかし普通でない人もいるのだ。そこを見落とさないのが専門家である。
3505
「人間扱いされていない」と怒る人‥‥構造的悪循環について
・大部分はもともと被害妄想である。
・しかしながら、治療者は微量ではあるが、「病気の人だから」という感覚をもっている。
・患者が治療者の態度について被害妄想的になって、あれこれ訴える。「自分をどうせ病気だと思っているだろう」「人間扱いしていないだろう」など。そのようにしてしつこく訴えているうちに、治療者の側には、「やっぱり病気だな」とか「気をつけなくては」などといった気持ちが生まれ、強くなる。そうしたところをつかまえて、患者はさらに、「ひどい扱いをされた」などと言い続ける。すると治療者はさらに警戒的になり、さらに「患者扱い」するようになる。こうして悪循環は成立する。
・しかしこの悪循環から逃れるのは難しい。患者の言葉に動かされて「患者扱い」は絶対にしないと考えたとする。しかし特別扱いすると、治療は成立しない。奴隷のように奉仕する関係になる。私的生活保護になる。最初の中立的立場を崩さないのが一番であるが、たいていは一対一の関係ではなく、第三者が介在し、話が複雑になる。この手の患者は、アルコール症や薬物依存、さらには性格障害の人たちが多い。第三者を動かすことも多い。

3506
「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社
・人生の中で、たった一人でも自分の気持ちが分かる人がいたということが、その人の生きる力の源泉になる。
●ああ、きれいな言葉だ。そのようなきれいな世界に住んでみたい!どこかにあるのなら。
・「それは君だけではない。みんなそうなんだ。僕だってそうだったよ」
・思いこみの自分はほんとうの自分ではない。現実の自分がほんとうの自分である。ほんとうの自分に気付かなければならない。そして事実に即して行動する必要がある。
●なるほど。しかしこれは人気が出ないだろう。人の気持ちに寄り添うことと微妙に背反する。この矛盾をどうにか克服しながら、カウンセリングは進む。
●つまり、患者を肯定し味方になり誉めようとすれば、現実直視の気分には遠くなってしまう。現実を突きつければ、その時点では患者は拒絶され否定され、無理解にさらされたと思う。この矛盾をどのようにして解消できるか。それが問題である。君を肯定している、しかし現実には二人で立ち向かう、そんな気分を作っていけるかどうか。子育ても同じ。
ここで、「条件付きの肯定」をしてはいけないとよく言われる。丸ごとの肯定をしつつ、現実には直面させる。この操作の呼吸。これがカウンセリング。
・an。時代の価値に従順な人たち。

3507
家族療法
孤立した家族

個人も、学校や会社の他に、地縁、血縁、趣味の集まり、コンピューター通信などでつながっている仲間がいれば安定する。自分をサポートするものの複線化である。
家族も同様で、孤立している家族は弱い。

孤立したバナナは早く腐る。これは家族も同じ。

その点で、地域の意義を再確認したい。そうすれば、地域医療の新しい側面が見えてくる。
こうした地域主義とデイケア、在宅医療などが連動する。

3508
AN
なぜそんなにやせたいのか、理解できない。この理解しがたさが、この病気の本質を告げているのではないか?

3509
「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社
心理的安全感が保証されることがカウンセリングでは大切。安全感が得られれば、右脳が活性化されて、何かがひらめきやすくなる。
●すごい話。でも、安全な場所を設定して話していただくことで、別の面から光をあてたり、総合的に見られるようになったり、いまの事態の辛さを相対化することができるようになる。
・いいお父さん、いいお母さんは、自分の本当に言いたい気持ちを抑えているから不安や不満が強い。すると子供も、良心の顔色を伺いながら育つ。自分を殺すようになる。自分が好きなことをするよりも、親の機嫌がいい方を選ぶ。こうして自分をなくしていく。
・親や世間の期待に応える「いい子」になる。
●いつまでもそうしていて報酬が得られればよい。しかしそうでない場合も多い。期待に応えられなかったり、応えても報酬が少なすぎたりする。報酬が少なければ、もうそれ以上はつきあう必要もない。しかしその時に、自分は何を本当にしたいのか、分からない。「もう他人の期待通りになんか生きないぞ」と思っても、次に踏み出せない。期待という信号、そして報酬がないと次に何をしたらいいのか自信がもてない。
自分で自分に報酬を与えるような習慣がない。自分の内部の満足感だけで完結していない。自分の満足のために必ず外部の賞賛を必要とする。ナルシスティック・サプライが外部にある。そのように依存している人は、自分を殺して、期待に沿い、報酬をもらい、生き続ける。
●これがいけないと議論されている。いけないのだろうか?いけない面もあるが、いい面もあるように感じる。

3510
演歌
失われた人間の絆、あるいは信頼を取り戻す試み。信頼はあるのだと、愛はあるのだと信じさせてくれる歌。
傷ついた心を癒す。傷とは、人間を信じる気持ち、世界はいいものだと信じる気持ちが、損なわれること。
人間と世界を信じるその気持ちが、人間を人間として生かす。安心が生まれる。
そこに傷つきが生じたとき、酒を飲みながら、演歌で慰められる。

3511
「家族」という名の孤独
・女性のケアを必要とする男と、男に必要とされる必要を感じている女が出会う。ケアは愛と混同される。女は母のような役割を背負い込み、その役割の重さに酔って、自分の人生を失う。男は、異性を愛することができるようになるという真の成熟の過程を失い、子供帰りの道を引き返す。双方の欠陥がそのような出会いを生む。当人同士はそのことには気付いていない。自由意志で相手を選んだと思っている。お見合いならこの種の出会いを避けられる。
・娘たちの多くは、母のように配偶者を選び、母のように男に接し、母のように幸福を感じたり、不幸を嘆いたりする。
●徒労感。やりきれなさ。行き止まり。どうしようもない。不幸の再生産の構図である。
●異性をどのように愛していいのか分からない人たちである。愛とは何かを知らない。愛とはケアであったり。一方的な要求であったり。物を買ってもらうことであったり。いずれにしても「ずれて」いるのだ。
・父と同じように欠陥を持った男が、A子の愛で成長し、A子を大切にし、安全にしてくれる優しい男に変身するとしたら、彼女は自分の人生の全てを受け入れることができるようになる。
●その時全ては報われる。このやりきれなさが一挙に意味のあるものになるのだ。
●神の概念や、来世の幻想も、同じ。この世で清算されない、報われない、マイナスの部分を、いかにして清算し、報われるものにし、プラスに転じるか。みな同じ構図のようである。
・家族の機能‥‥安全を提供すること。
・未熟児で生まれる→保護を必要とする→保護のシステム
●同時に、保護を要求するシステムも生まれる。子供のかわいらしさや甘え。あからさまに要求はしないが、察しを要求する。

3512
我々は世界観というものにくるまれている。
この事情を正確に描写できないか?
例えば養老先生の唯脳論なども、「人間が生きているということは世界観にくるまれているということなのだ」ということだ。

「世界そのもの」「ありのままの現実」というものは現実にはない。人間の五感と世界観により構成された「何か」があるだけであり、それは現実を生き延びるのに役立った。従って、そのような世界観を持ったものが生き延びてきた(進化論の原則)。

それは国家だったり、アニミズムだったり、性的幻想だったり、してきた。

3513
風俗嬢の発言
男は女の身の上について悲劇を聞きたがる。「劇団の上演資金を稼ぎたくて」では満足しない。父親の借金とか、母親の病気とか、そんな悲劇を聞かされて、可愛そうにと同情し、それでやっと勃起するというのだ。
そのようなファンタジーが必要なのだという。なぜか?
その風俗嬢は、自分が買春していることの後ろめたさを、そのような悲劇を背負った女を助けるというイメージで、打ち消していると考えている。

また、ポルノ小説で多い筋立ては、高貴な身分のお嬢様・奥様が、セックスの力で、または暴力やその他の権力で、主人公の言いなりになってしまうというもの。
性的描写というよりも、本質的には権力関係の成立と変化の描写である。性的魅力に服従するとする筋立てならば、ポルノといえるだろう。
多くは表の社会での権力関係とは反転した形での支配と服従が成立することになる。
そうした筋立ては多くの男性が下層階級であることと呼応しているから、そこに小説としてのファンタジーが成立するだろう。

悲劇の風俗嬢でいて欲しいと願うのはなぜか?対等な取引と思いたくない。資本主義的取引と思いたくない。そんな部分があるのではないか?

3514
セックスの外注化
現代社会は、いろんなものを外注化して、生活単位としての家族を解体化している。
食事がそうである。衣類もそうだ。病気のときの介護もそうだ。

なぜ人は一緒に暮らす?
心のケアとセックス。心のケアも次第に外注化されつつある。セックスだって外注化されてもおかしくない。
土台、なぜセックスが秘め事で、秘密の事柄なのか、そんなことも、問い直してみれば、以外と理由のないことになっているだろう。
たとえば遺伝子診断がもっと簡単になれば、夫は自分の子供の認知がしやすくなる。そのために妻のセックスの相手を選ぶ権利を縛る必要はなくなる。
外食をすることと、セックス産業のお世話になることと何が違うか?男が、「ここのおかみのごはんはおいしくて」と通い詰めることと、セックスがよくて通い詰めることと、何の違いがあるか?
そうなったら、家族とは何だろうか?それでも夫婦である理由はどこにあるのだろうか?
あるような、ないような。

親子は、血縁によって家族である。契約の問題ではない。
夫婦は、契約によって家族である。根本的に違う。

3515
自己実現などと、聞いたようなことをいう。
その実体は、「自分が偶然に持ち合わせているいくつかの資質を最大限に利用して、最大の利益を得たい」というだけのことだ。ようするにできるだけのし上がりたいということだ。
いま自分にある資源を最大限に利用していないことから来る不全感は誰でも持ち合わせているのだ。そこを利用して、自己実現などといった言葉が繁殖する。

3516
精子は時々刻々新たに生産される。→適応を反映する。
卵子は、適応の高い精子を選択する能力が必要である。何を基準にするか?
女にエネルギーを注げるということは、全体の余裕がある、全体の能力が高いということにつながるだろう(英雄色を好む)。しかしそこで見せかけの戦略が発生する。(動物行動学にこのような例がある。)全体の適応は高くないのに、メスの気を引く部分だけが突出して進化している。

卵子は、精子の全体能力と、その中から自分にどれだけのエネルギーをさいてくれるかを評価する。
女に男が興味を持ち、エネルギーを投入する。その場合、男が他のことにもとても能力があって(たとえば100)、その一部として女にエネルギーをそそぐこともあり(たとえば10)、一方、男が他のことには能力が乏しく(たとえば20)、しかし女にはエネルギーを注ぐ(たとえば10)こともある。結果として女が受け取る分は10となるが、一族の繁栄のためにはどちらの男を選択すべきかは明白である。

だめ男だが、自分に優しい男を選べば、子分が一人である。有能な男だが、さして優しくない場合には、子分が百人位できる。どちらがいいか?そんな問題でもある。

3517
神経伝達物質とレセプター
音と補聴器のボリュームでたとえる。→レセプターコントロール技法について説明。

3518
「家族」という名の孤独
・「男は女の母親的部分につけ込んでいる。」
・アルコールを飲むと男は自慢話を始め、攻撃的になる。女は世話焼きになる。「相手を自分に依存させるケア(世話焼き)」をする。
・男と子供に気をつかい、世話することで彼らをコントロールする。そのようにして家族の中で支配権を確立する。
●自分が必要とされる必要。これを生きがいとして生きている人は会社で偉くなったりしない。なぜか?
こうした人たちは会社組織にはなじまない。会社では個人は「歯車」であり、取り替えがきく。取り替えがきかない特別の人として、自分が必要とされたい、そのような人は会社になじまない。その結果として、家庭や水商売などに生きる場所を見いだす。
知能が高ければ、家庭婦人としておさまるだろう。そして支配の劇を反復する。経済力が必要な場合には、仕事をばりばりやっている。
一方、知能が低い場合には、水商売や下層家庭にはいる。水商売も、金のためである。男を養うには金がかかる。
あなたでなくてはだめだ、と強くいわれるのはまず家庭である。妻として母として、必要とされる。何より乳児の母として、必要とされる体験は強烈だろう。完全に無力な存在が完全に依存してくる。その強烈な喜び。そこには奉仕の快感も、支配の快感も含まれている。

3519
うつになると睡眠リズムが崩れる。
食欲もなくなる。これも、リズム障害と考えることができる。
リズムは、マニー細胞が作るのではないか?マニー細胞がダウンすると、リズムが消える。

3520
「家族」という名の孤独
・「愛しすぎる女たち」。彼女たちは一人になると、苦痛や虚しさ、恐れや怒りにとらわれるので、恋愛を麻薬として利用する。パートナーとの仲が不安定で、困難を伴うものであればあるほど、より強烈な気晴らしになる。問題のある男性を愛したり、精神的苦痛を覚えるような状況に身を置くことで忙しく過ごし、自分と向かい合うことを避けようとする。
●一人で寂しさに耐えるくらいなら、辛い恋愛をしていたい。恋愛への嗜癖の体質がある。現在の社会は全体にそのような恋愛嗜癖へと人を駆り立てるところがある。恋愛を煽れば商売になるから。しかしそのせいで、苦しみも拡大されている。
・彼女たちは、優しくて安定した信頼できる男性を退屈と感じてしまう。「大人の男」は「養育する喜び」を与えてくれない。親との間で生まれた心の傷を、パートナーとの関係の中で修復しようとする。自己中心的で冷たいパートナーを、自分の愛情によって変化させ、暖かい保護者につくりかえることは、貴重で喜びの多い作業である。傷ついた自己評価を回復することができる。
●このあたりが「斎藤節」である。なぜそのような喜びのパターンに固着するのだろう。
・この女性たちは、自分の感情や身体をいたわることを学ばなければならない。安心して抱擁される場所と時間を提供されなければならない。その上で自分の能力と時間を自分のためにだけ使うことに習熟しなければならない。対等で相互に交流する「フェアな愛」を学ばなければならない。
●こんなに理想的な境地を目指していたのでは、いつまでたってもたどりつけないだろう。こんな人はいない。

3521
薬の副作用
副作用情報として、たとえば牛乳を考えてみたらどうだろうか。
下痢をする。日本人に多いアレルギー原因物質の一つで、じんましんがでることがある。コレステロール値が上昇する。肥満の原因になる。
薬剤情報の一部は、こういったことをことさらに書いているわけだ。使用量の問題だと思う。

3522
最近の若い人たち。魅力的ではない。なぜか。
自分たちに合った美の基準を失っているのではないか?
美、自尊心、自己肯定感、集団肯定感、こうしたものは、ある程度小さなまとまった集団の中で、自分たちに適合した形で形成されるだろう。
現代はマスコミが情報を流し、美の基準や自尊心の根拠を提供しているところがある。
君は君のままでいいというメッセージは商売にならない。君はお金を払って、個々をこう変えなさいといえば商売になる。
そうなると、自分たちの持っているものへの自信よりも、持っていないものへの憧れのほうが強くなる。結果として、金髪に染めるなどという現象になる。

自分は自分のままでいいという自信とは反対の極にある現象のようである。生まれ持った自分の資質を肯定できない。なんという苦しさだろうか。

3523
人は安らぎたい。本当の自分を知りたい。本当の自分に帰れば、無理をせずに、楽に、幸せになれるのではないかと期待する。
例えて言えば、お金持ちの親戚からの相続財産を夢想するようなものだ。とても素晴らしいものが自分の内部に眠っていて、そのおかげでとても幸せになれる、そんなことを夢想しているのではないか。
そこまで図々しくなくても、現状の苦しさから解放されるきっかけが自分の内部に埋まっているのではないかと考えることはあるのではないか。

3524
怒りのエネルギーのすさまじさ
境界例患者とその妹が来て、怒りを爆発させた。
患者は、男に捨てられ、「結婚するという約束が嘘なら、慰謝料を払え」と言い、「結局金か」と言い返された。「あんな奴、許さない。殺したい。殺せないなら、死んでやる。」というわけである。大量服薬して、医者はもう薬も出さない、病院にも来るな、ということになった。
一方、妹は、姉がこんなに苦しんでいるのに、薬を出すだけか、専門家だろう、何かもっと役に立つことが言えないのかと怒っている。「こんなに苦しんでいるじゃないか。薬でこの苦しみが消える分けないだろう。いい先生だというから来たんじゃないか。ただ薬を出すんならだれでもできるだろう。」
目がつり上がって、喧嘩を売っている。結局は、入院をすすめて欲しかったのかもしれない。自分のところで看病するのは大変だから。
この人の中に虐げられて生きてきた人の怒りを見る。根本的に人に踏みつけられ利用される人生にはまりこんでしまい、世間と人々に対する怒りを鬱積させている。このような人たちの捨て鉢の怒りの怖さ。彼らは失うものは何もないのだ。
今医者から少しでもいいサービスを引き出すためにどうすればいいかとも考えない。
ただ積もり積もった怒りに身を任せてしまう。そして今現在の人間関係を壊してしまう。そしてまた怒りを背負い込む。
そして次の瞬間には、またいつもの、卑屈な作り笑いの人に戻るのだ。しまったと思いつつ。
抑圧した怒りが、暗い目になる。
磁石のように、怒りを吸着し続けるのである。なんという不幸だろうか。なぜそのような行動パターンを修正できないのだろうか。何か利益があるのだろうか?

3525
98-9-27
前景症状が盛りだくさんすぎて、あるいは次々に変化して、どれが主症状とも言えず、さらに背景病理も明確に指摘できず、困る例がある。たとえばミネオ。
あるいはfirst common pathwayのようなもので、非特異的な症状ばかりで、今後の成りゆきを見守る必要のある例もある。

3526
症状を、過去のトラウマの後遺症としてとらえる見方。
1)「甘えるな」との発言は、発言者の症状である。
過去にどんなことがあっても、現在を他の人のように当たり前に生きられないのは、やはり本人に欠陥があるからだとする考え方も多い。甘えているだけだ、人のせいにするなというわけだ。人は生きていれば誰でも辛い目にも遭う。それなのに誰でもが症状に苦しむわけではない。本人にきびしさが足りないのだとの結論に到る。それは時代の精神ということもあるだろう。戦争を生き延びてきた人たちにすれば、生きるということ自体がとてつもない戦いである。「甘えるな」という発言が出るのも、ある程度はやむを得ないと思う。
そのような「厳しい派」発言は、それ自体が、トラウマの症状であると思えてくる。目の前に苦しんでいる人がいて、その人に「甘えるな」と言ってみても何の解決にもならないことが分かっているのに、それでも「甘えるのもいい加減にしろ」と言うとしたら、やはりそれはひとつの症状であると思われる。

3527
症状を、過去のトラウマの後遺症としてとらえる見方。
2)過去の奴隷。
人はなぜ過去の奴隷になるのだろうか。過去の体験に原因する苦しみを現在生きているとすれば、その人は現在を生きているのではなく、過去を生きていると言っても間違いではないだろう。
多分、こういうことだ。現在を生きていて、適応が落ちてくると、退行状態となり、過去を生きるようになる。適応低下の結果として退行が生じるのは一般原則である。退行状態を試行してみて、うまく行けば、また現在の生活を生きるようになる。うまい行かなければ、さらに退行するか、全く新しいジャンプを試みるか、いずれかになる。いずれにしてもさらに危険な賭になる。危険を冒すよりも、「過去に縛られた現在」の苦しみを生きた方がいいと判断する場合もある。そのようにして固着が生じる。その苦しい過去よりも、耐えやすい時代はその人にはなかったのではないか。何かの点で、その人はその過去を生きることで利益を得ている。その利益は何か。
伝統的な考え方は、その過去の苦しみを克服するために敢えて生き直しているのだというものだ。しかし、それならば、忘れてしまえばそれでいいのではないか?あるいは、もっといい経験で「上書き」してしまえばいいではないか?

考えてみれば、人間の記憶は、それほど客観的でもないし確実でもない。かなりの変形を施された上で記憶されている。その変形の仕方を考えようというわけだろう。

3528
はじめの症状は、身体的。二回目からは心理的パニック発作も、自律神経失調症も、同じ構造である。心身症一般、アトピー、喘息、なども同じ。

頭痛なき偏頭痛などと言われるような状態。自律神経系の失調状態。

3529
光源氏。そしてまた、演歌の歌詞。
「あなたは胸に理想の誰かを宿して生きている。わたしではだめなのね。」と女は歌う。
このタイプの人の場合、恋は理想化から始まる。恋のプロセスは、次第に進行する幻滅である。男は理想と現実の違いに幻滅する。女は、自分が飽きられていくことに苦しむ。あるいは減点法で採点されることに苦しむ。恋愛の時間の大部分は苦しみとなる。
惚れやすい男はこのタイプである。光源氏など。

境界例の理想化と脱理想化。惚れ込みと幻滅と訳していいのではないか。

3530
「家族」という名の孤独 斎藤学
共依存者が支配の道具としてセックスを用いることがある。相手が黙ってつまらなそうにしていると、自分が嫌われているように感じ、何もしてあげられない自分に嫌悪やあせりを感じてしまう。このような息詰まる関係を苦痛に感じて、逃げようとする。「親密性からの逃走」という。セックスはこのような息詰まりを解く。
●真の意味での人間の交流から逃走して、真の親密性に至らない、偽の交流だけを続ける。
●「必要とされる必要」に従って生きている女性は、セックスでサービスしようとするかもしれない。それが相手の求めているものならば。そして充分打算的になることができず、与えてしまう。(このことは、セックスを人生の武器として使う、普通の女性にとってみれば脅威かもしれない。セックスを商売の武器として使うなら、まだ許せるのだろう。)それでも、その女性にとってみれば、充分に見合っているのかもしれない。必要とされる喜びの故に生きていけるのだ。生きる根拠を提供してくれるのだ。
援助交際などの他者交流の形式も、自分が必要とされる場所を見つけたということなのかもしれない。うだつの上がらない自分が、一人前として評価される場所をやっと見つけた。その安心感と自信。そのような形でしか、自己実現の道を見つけることができない。
・男が女に「癒す母」を期待するとき、男は女を恨むようになる。息子は「自分の気持ちを理解してくれない母」を殴り、夫は「母のように自分をいたわってくれない妻」に復讐する。
●「僕の精神安定剤代わりになって下さい」というわけだ。それでは破綻するだろう。しかしそれでも精神安定剤の役割を引き受け続ける女がいるのだ。それが不思議である。その不思議が保存され続けることがこの社会の秘密である。

3531
過去の傷は消せない。しかし意味付けすることはできる。無意味な傷が最悪である。

3532
現代の人間関係
任意加入の集団では、個人を「なかったこと」にできる。昔の血縁、地縁集団では、好き嫌いは別にして、居場所はある。しかし今は、誰かがいなくなっても、空白ができない。何かの都合で出ていないと思われるか、出ていないことを意識されずに過ぎてしまう。その程度の、任意加入の集団になっているのではないか。
自分は集団内で特別ではないのだという感覚が生きにくさにつながっている。

3533
生活習慣病や加齢変化に対する過剰診療(過剰検査と過剰投薬)。

ビタミンDやカルシウム剤の大量投与。骨密度測定で「大変だ」と脅かされる。カルシトニンの連続注射。コレステロールの過剰コントロール。食事指導と運動処方をどの程度しているか。

それも患者が求めるから仕方ないと?
ここでも悪貨が良貨を駆逐するのである。
愚かな社会へいちもくさんである。

内科医から見れば、精神科医は患者を薬漬けにして平気なのかといいたいのだろう。しかし、精神科医から見れば、「それ以外に方法があれば教えて欲しいものだ」ということになる。

同じ患者に対する対処法がまったく異なるということなのか。患者が違うから自ずと対処が異なるということなのか。その点を明確にすべきだ。

3534
「家族」という名の孤独 斎藤学
・この暴力男は自分なしでは生きられないと確認することは、ある種の女性にとっては、自らの心身の安全よりも貴重なことである。
●そのようにして「生きる理由」をつかんでいる。支配の感覚をつかんでいる。女性の場合、赤ん坊に対する支配の感覚に似ているのだろうか。赤ん坊は母に支配されているが、一方、母を完全に支配している。そのような依存関係。
●いわば「わたしの赤ちゃん」である男性を見つけたとき、女性は共依存者になる。
・男が暴力の後で示す、優しさや愛の誓いを過大に評価してしまう。
認知障害ではないか。認知の是正をトレーニングした方がいい。何とも歯がゆい思いで話を聞くことになる。肝心の所で、引き返してしまうのだ。
・アル中の男は、妻に嫉妬していることが多い。妻の男性性や社会的能力に嫉妬する。
●嫉妬しないでいられるものだろうか?たとえばクリントン。やはり根底には嫉妬があり、それが不適切な女性関係の動因になっていないか?
・緊張の高い家庭で育つ子供。世話焼きをして時間を過ごす。思春期に入って家から離れると、自分が何のために生きているのか分からない。空しく退屈で緊張して疲れる。嗜癖に逃れたり、「自分なしではいられない無力な人物」との出会いに救われたりする。こうした依存的な人の世話をしているときに元気になり、充実を感じる。
・子は家族関係のあり方、対人関係のあり方を刷り込まれている。夫として妻としての役割やコミュニケーションのパターンが刷り込まれている。

3535
「家族」という名の孤独 斎藤学
・テストステロンと暴力性・権力志向。
Y染色体によってつくられる内分泌器官によって、男児は胎生期からテストステロンやジヒドロ・テストステロンに影響され、男性脳が作られる。言語野の左脳局在、貧弱な脳梁。テストステロンにさらされた個体が、能動性と攻撃性を発揮する。
人間では、誕生後にテストステロンはゼロに近くなり、思春期に向けて濃度が高まる。男性の第二次性徴を引き起こす。
大きく太い骨格、厚く強い筋肉、外皮を覆う体毛と髭、敏速な逃走・攻撃反応、高感度の視空間認知。
この戦闘者としての能力を用いて、男性は女性を支配する。家族という「権力と縄張りの機構」をつくってきた。
男は順位闘争に駆られているために、女性より嫉妬深い。まず序列を決めたがる。順位争いの中で孤立していく。
●こうした、人間を生物学的に根本的に規定している部分から出発した考察が必要である。
●能動性はよい。攻撃性は悪い。しかし一体のものである。
●女性が攻撃的な態度で人生を送ることを奨励されている。家族という「チーム」ではなく、「個人」で勝利するように奨励されている。ここに間違いがあるのではないか?
●しかしこんなことをいえば、女性に忍従を強いるものだといわれてしまう。男性支配を続ける無意識の方向付けだと批判される。
●家族は縄張りの機構である。主には、食料の独占と分配に関する、縄張りの機構である。糞が他人にとって臭いのはこのことに関連している。
●長い足は、敏速な移動を可能にする。つまり縄張りを拡張することができる。そうすれば食料を多く確保できる。これは女性にとっては魅力である。骨端線の閉止までの間、良好な栄養状態であったということだ。親が優秀だということを意味するだろう。
喧嘩は強い方がいい。リーダーの方がいい。「ハンサム」とは?遺伝子に欠損が少ないことを意味するので、有利なことが多いだろう。だからハンサムな方がいい。(しかしもてる男は資産を分散する傾向がある。この矛盾を解決する工夫が女性には必要である。あちこちに子供がいたのでは困る。)
●多産を実現するような女性の特長を好む雄は、何世代かを通じて見れば、子孫を多く残すだろう。そのような特徴をセクシャルと感じる雄が多数を占めるようになる。だから、そのような特徴が男性にとって魅力的ということになる。
●昔は男同士が順位を決めていた。現在は女性も交えて順位を決めている。これが正当なことかどうか、やはり疑問がある。しかしこれは言うとしても慎重な表現をとる必要がある。
●そのような女性たちのテストステロンレベルはどの程度であろうか?

3536
「家族」という名の孤独 斎藤学
・親たちは親の役割を手放せない。子供が15歳になれば身体的には大人である。30まで我慢すれば、どうしても限界である。親をやめて、男と女に戻る。「さあ、これからどうする?」と話し合いが始まる。でも面倒だ。子供の世話を焼いていれば役割があるので楽だ。すると子供が迷惑する。
核家族では親子の絆が強すぎる。
●子供たちが、社会集団の予行演習として、子供集団を充分に経験しているか?核家族がそれを邪魔していないか?核家族は個人を過剰に大切にしていないか?核家族の中で生きていると、社会集団はいかなるものであるのか、知らないで過ぎてしまうのではないか?そしていきなり社会に出ると、困難が生じる。
●男性ホルモンが順位への敏感さに拍車をかける。母親は子供の順位で社会的序列が決まる。両方の要因で、順位に敏感になる。これは喧嘩ではないから平和である。しかし試験はいつまでも続くから、厄介である。上には上がいて、終わりがない。強迫性性格傾向を育成してしまう。
・拒食は、「異性への接近ゲーム」から退避させ、家にとどまらせる。「子供の役割」を続けることができる。
●母親の支配的態度は確かに印象的である。
●メスも順位を気にするが、自分で駆け登るよりは、夫や息子の男性ホルモンをあてにしたほうが効率がよいと考えるメスも多いだろう。愛されないメスは仕方がない、自分で登る。自分で登るよりはオスに登らせたほうが効率がいいと考えるときは、間接的に競争に参加する。内助の功であったり、教育ママであったりする。
●しかしそんなことの果てに何があるというのだろうか?何もない。ただ空っぽの自分である。人は空っぽ以外にありようがないと言えば、それでもいいが、そうだろうか?

3537
他者の内部状態に関しての推定
自分の場合:f1(event)=feeling この関数ができあがる。
これを他者にも応用して推定する。しかし、社会を生きていればそれなりに「常識」が形成される。
Aさんのばあい、f2(event)=feeling という推定をする。
知らない人でも、学者さんだから‥‥、医者だから、ソープさんだから、主婦だから、女子高校生だから、といった推定をする。
そのような、他者の内部状態に関しての推定の総和が、人間観であるといえるだろう。
この推定がうまくいかない原因として、
1)情報収集と整理がうまくできない、知的能力の欠損。
2)基本モデルとなる自分の感情反応が、一般他者とずれている場合。(性格障害の一部)
3)感情反応はずれていないが、自分の内部状態をモニターする能力が欠損している場合。(内的盲目。これも性格障害の一部)

共感能力の欠損。
(しかし、一緒に泣いているような人でも、真に共感能力があるかどうかは、怪しい)

現代社会のように、自分と生きる環境が相当異なる人が、自分のそばにいるという状況では、他者に関する推定は有効でない場合も多いのではないか。

3538
精神科医療。
誠実にやろうとすれば疲れすぎる。
続けることが患者のためになると考えて、疲れすぎない程度に続けようとすれば、いつのまにか自分の内部から腐る。
この矛盾を解決できない。
なぜか?

この苦しみを他科の医者は知らないのだろう。

3539
心のモデル。
1)自分自身についての外的体験と内的体験の対応。
2)他者についての、内的状態の推定。
3)2の推定は、自分自身の体験を基礎として、かつ、その他に他人の行動や内的表白に接したことの総和を動員して、なされる。
4)この推定は、他者の心を読むので、他者の次の行動を推定しやすくなる。このことは集団内での自分の立場をよくする。食事や性行動で有利である。

●他人の気持ちが分かるので、異性に好かれる人と、それとは別に、性的魅力があって好かれる人とがあるのではないか?

たとえて言えば、眼鏡をかけて他人を見ている。眼鏡に他人の動作や表情が映るたびに、内的状態に翻訳されて、眼鏡の内部に表示される。たとえば感情、意志などである。
眼鏡であれば、頭を回して景色が移れば、感情も移るはずである。ところが景色は変わっても感情は変わらないことがある。
分裂病で、敵の回し者が至るところにいる場合。眼鏡の内部に「敵がいる恐怖」がへばりついていれば、敵は至るところにいて、患者が散歩するたびに姿を変えてついて来ることになる。 

●このモデルで、精神病状態と神経症状態とを区別できるか?
・自分についての眼鏡に傷が付いているのは、神経症。他者(外界)についての眼鏡に傷が付いているのが精神病。
神経症とは言っても、心気症が典型。強迫性障害は別だろう。例の、心因性二次悪循環回路が典型である。

しかしながら、眼鏡に傷が付いていたとしても、現実と比較対照することで、訂正できるはずである。訂正不可能であることが、もう一つの不可欠の病理である。

つまり、眼鏡に、外的現実とは無関係の感情が付着することが病理のひとつ目、それを外的現実と比較照合して訂正することができないことが病理のふたつ目、である。

●妄想の種類。
a そこに殺し屋がいる。(外的現実)
b 胃が痛い。(内的現実)
c わたしは太っている。(中間的領域)

わたしはうつだ。わたしは気力が出ない。→内的現実の歪曲知覚の場合もあるだろう。

外的現実の歪曲=妄想→精神病
内的現実の歪曲=? →神経症

こうして考えると、強迫性障害はやはり別物のようだ。

3540
変えられない過去をいかにして受容するか。

人を苦しめ続ける過去をどうすればいいのか?

いま、幸せになれば、自然に忘れるのではないか?過去を振り返り続けるのは、現在の問題に対処しきれないことの結果ではないか?あるいは、現在の問題から目をそらしたいから、過去について悩んでいることにするのではないか?
いま、幸せをつかめばそれでいい。
そんな方針はどうだろうか?

「変えられない過去」写真のタイトルにちょうどいい。

「受け入れられない過去」
しかしそれは実は、
「受け入れられない現在」
ではないのか?

失った未来

未来がすでに確定したものとして感じられるとき、うつである。

過去が真っ黒に見えるとき、うつである。

3541
「家族」という名の孤独 斎藤学
・学校は評価と順位付けの場である。
・中学は英雄崇拝の時期。逆に、劣位者を決定する必要もある時期。
●こうしたイデオロギーを否定していかなければ、いじめの解決にはならない。しかし、昔から続いているこの優勝劣敗の原則をどうすることができるだろうか?現にあるものを、ないはずだと言い張ることができるだろうか?いや、実はそうではなくて、全ての人が、いじめられず、搾取されず、仲良く、平等に、暮らしていけるのが、人間というものの可能性の中にあるのだろうか?
●こうした優勝劣敗の原則の中で(これに反するのが、核家族の中で、個人が大切にされる制度である)、社会の現実というものを学ぶ。ここで学ぶことを拒んだものは、社会でも適応できないだろうか?あるいは、社会は学校とは違って、もっと多様な価値観の存在する場所で、このタイプの子供たちも、自分にぴったりの場所を見つけることができるのだろうか?
●学校は、エリート選抜の機能がある。それはつまりは、支配者と被支配者を決定しようということだ。まあ、支配者といっても、それほどのものではないけれど。支配者層とはいっても、その内部でさらに競争は続き、長い間の忍従を要求され、勝ち残ったとしても、自分の思い通りにできるわけではなく、組織のために働く歯車の側面が強い。だから、どちらになっても失望する他はないのだ。
・「親の期待で子供を縛る」という「見えない暴力」。妻の期待や会社の期待がサラリーマンの過労死を生む。
●結局、「親(またはその人にとっての重要人物)の期待するものが何か」ということだろう。

3542
「家族」という名の孤独 斎藤学
・それぞれが他人の気持ちを敏感に察知して、その期待に沿って動こうとする。そうする人は、他人からもそうされることを期待する。それぞれが他人にとっての必要な人であり続けることを望むことによって成立していて、そのかわりに個人のあからさまな怒りや欲求は我慢させられている。これが共依存家族である。
●この手の家族が現代にいたって種々の問題を呈しているのはなぜか。そして、共依存家族が、親密性家族になったとして、新たに抱えることになる問題は何か。こうした方向の議論が必要だ。つまり、下部構造はどう変動していて、上部構造の何の変革を要求しているのか。
少なくとも、長い間の家族は、共依存家族であったと思われる。共有しているものがあまりに多い、言葉を要しない程度の親密な関係が支配していただろう。それはそれでよかっただろう。
言葉を用いて、語り合わなければならない関係は、これからの課題である。家族の中にアメリカ人が発生したのだといってもいいのではないか。
・学校生活の中でいつまでも親を満足させ続けることは難しい。親は気付かなければならない。
・他人にとっての価値によって、自分の価値をはかるという態度。これが共依存
●さらに、自分を価値あるものと認めてくれる他人が、世間で価値ある人ということになっていれば、なおさら嬉しいわけだ。世間で無価値な人が自分を認めてくれている場合、仕方がないから、その人は本当はすごい人なのだけれど、いろいろな事情があって、いまはこんな姿になっていると、納得するための物語が用意されている。
これは例えば売春婦を買う男もそうだ。目の前にいる女は価値のある女であって欲しい。そこで、事情があってこんなことをしているという物語を用意する。それに納得してはじめて、商売が成立する。

3543
「家族」という名の孤独 斎藤学
●他人にとって自分の価値はどうなのか、それ以外に自分の価値をはかる尺度が何かあるだろうか?他人というものは別にして、自分が本当に納得できる自分の価値。そんなものがあるだろうか?ない可能性が高い。価値はつまり、社会での流通の問題であろう。つまりは他人の思惑の集合体であろう。
例えば、キリスト教的神の存在は、こうした、共同体を過度に重視する態度からの救いになるだろうか?
共同体的価値に対立して、絶対者的価値を信じることができるだろうか?
しかしそうした価値にしても、その淵源をたどれば、共同体的価値ではないかと疑われるのだ。実際の他人ではなく、自分が考える理想的他人がいたとして、彼の目に、価値ある自分でいたいとする考えのようでもある。
●真実の根源の三種を思い出す。直接経験と、共同体的真実と、絶対者からの啓示。
・子供があれこれの要求をするとき、子供は結局、丸ごとの自分を認めて欲しい、存在そのものの承認を求めているのだ。
●それはそうかもしれないが、ではどうすればいいのだろうか?学校がとか、試験が、卒業が、とこだわる親もたまにはいるが、みんなそんなに愚かではない。途中からは、そんな世間並みのことは二の次で、あなたのことを大事だと思っているのよと言い続けるようになる。しかしそれでも、解決するわけではない。条件付きの愛をいつまでもいっているわけではないのだ。それなのに‥‥。親は絶望的になる。カウンセラーは抽象的なことしか言わないではないか?いったい親として、どんなひどいことをしたというのか?世間並みのことをしていただけではないか?

3544
「家族」という名の孤独 斎藤学
・特定の教義の中で葛藤を解消することと魂の成長とを混同してはならない。
●生活がある程度安心して送れるような経済的基盤ができれば、あとは心の葛藤を何とかしたいと思うだろう。生活自体が大変なときには、現世利益的宗教が必要とされる。豊かで知的な階層では、現世利益ではなく、心の葛藤解消型の宗教になる。
魂の安らぎや魂の成長が、メッセージになる。そして悪徳商法と結合する。

3545
人の気持ちが分からない人。何が起こっているのか。改善の方法はあるのか。
1)出来事に対応して発生する自分の気持ちが、世間の人に比較してずれている場合。
2)自分の気持ちのモニターがうまくできない場合。

3546
SST生活技能訓練と訳したりするから、誤解が広まる。
生活技能というから、買い物の方法とか、切符の買い方、電車の乗り方などを練習しようということにもなる。
むしろ「対人関係技術」と訳したらよいと思う。

まあ、生活技能を身につけることも大切である。そのことで生活のストレスを減らすことができる。

3547
偏頭痛百科 オリバー・サックス
・偏頭痛は、前兆と頭痛を合わせた、自律神経系の乱れである。頭痛のない偏頭痛もあると考える。
・頭痛を止めても、他の症状になって出現することがある。頭痛を止めて、どれだけの利益があるか、よく考える必要がある。
●以上二つは、日本でいう、自律神経失調症不定愁訴の特徴にあたるだろう。
・「吐き気がする」「むかつく」は、身体感覚でもあるが、感情でもある。
●なるほど。
・耐える必要のある頭痛の総量は決まっている。しばらくなければ、強くなる。むしろ定期的に、少ない痛みで終わってくれたほうがましである。
●そういう面があるだろうか。痛み物質の総量が決まっているようなことがあるかもしれない。一定量ずつ次第に蓄積する「頭痛物質」。その放出パターンにさまざまあるということ。
てんかんと重なる側面と、自律神経ストームと重なる側面とがある。だとすれば、自律神経発作との関連を考えるのが自然だということにもなる。必ずしもそうではないだろうが。そもそも、偏頭痛の発生頻度とてんかん発生頻度は桁違いに異なる。
・偏頭痛の保身的反射としての側面。休息が必要なときに、偏頭痛が起こり、結果として休息をとることになる。
・ストレスに対する反応。

・動物は受動的反応を見せることがある。例えば、脅威に際して、下痢をする、脱糞する。スカンクも同じように、進化した汗腺から大量の分泌物を出す。人間の下痢、便秘も似たような側面がないか?下痢をすれば、臭くて、他人は寄りつかないだろう。

3548
偏頭痛百科 オリバー・サックス
・偏頭痛のときには部屋に引きこもり活動停止する。そのことが何らかの利益をもたらすかどうか。
・脅威に対する反応。1)攻撃と逃走。交感神経亢進。2)受動性と不動性。
・攻撃・逃走は、怒りと恐れに対応する。
・急性反応と持続反応。
・受動性と不動性。→「頻繁に出るあくび。皮膚は蒼白、浮かび上がる汗の粒。筋肉は弛緩。虚脱。下痢。」
・動物界の受動的反応。不動化。分泌・内蔵活動の亢進。おびえた犬は縮こまり、吐いたり脱糞したりする。「死んだふり」をする動物は多い。スカンクの分泌反応。抑制的反応は危険や脅威を避けようとし、結局は危害を加えられる可能性を少なくしてくれる。
・文明化した社会では、攻撃・逃走は不適切で、長期化した受動的反応がむしろ適応的である。
・フロム=ライヒマン:「偏頭痛とは、意識の上では愛している人間に対する無意識的な敵意の肉体的な表現である」
・人類の十分の一が偏頭痛に苦しみ、五十分の一が古典的偏頭痛を持つ。
・偏頭痛の発生パターンと決定因子を明らかにしようとする際、二種類の日記が役立つ。一つは偏頭痛の日誌、もう一つは日常の出来事を記した普通の日記。
・医師はアドバイス、心の支え、分析を患者に与える。
・医師と患者との関係が重要である。権威、共感、望ましい医者・患者関係の中で形成される連帯。医師の言葉や行動と同じくらい重要である。この関係こそが、あらゆる機能性疾患の患者を扱う際に決定的に重要である。

3549
偏頭痛百科 オリバー・サックス
・偏頭痛という生き方を選択する人がいること。
・患者に対する医師の伝統的な役割の一つは、心配しないこと、休息をとること、十分な運動をすること、夜更かしをしないことなどを、言いきかせることである。
・「頭痛に悩まされる大学教授より、健康で幸福な農夫のほうがよい」と宣言した彼自身、頭痛に悩まされる大学教授を辞めていない。
・偏頭痛を誘発しやすい特定の状況を回避できるような忠告。それは医師の洞察力にかかっている。
・「人は椅子から決して立ち上がらないと決心することはできるが、決して怒るまいと決心することはできない」
・専門家には専門家の働きがある。
しかし、専門家にとってわたしたちは、専門的知識の中のほんのつまらない一例に過ぎない。
わたしが信頼を置くのは、
診察をまかせる前に、ともに世間話をし、ともに杯を交わしたことのあるような医師である。そして、わたしたちの身体の訴えを理解することが、
以下にむずかしいかを認める人である。
なぜなら、わたしたちの身体は、みなそれぞれ
自分だけの、言葉で語るからであり、
しかもその言葉は一生を通して
変化し続けるからである。
(W.H.オーデン)

3550
脅威に対する反応。
1)攻撃と逃走。交感神経亢進。→パニック発作につながるもの。
2)受動性と不動性。副交感神経亢進。→「死んだふり反応」につながるもの。
非常に急激で激烈なストレスに対しては、死んだふりに近い反応が起こるだろう。それほどではないストレスに対しては、パニック発作が起こるだろう。
しかし人によって反応の形式は異なるだろう。個々の内部特性が問題になる。

3551
患者の語る言葉。
例えば「痛い」「冷える」であるが、正確にどんな事態を意味しているのかは、慎重に考える必要がある。
ある意味で、伝達不可能な事態を伝えようとして言葉を用いているのだ。
だから伝える側も、受け取る側も、詩人の営みが必要になる。

3552
牛乳とアルコールで、薬品副作用警告のパロディをつくること。

3553
若者が魅力的でないことの理由
一つには、言葉の問題がある。もぐもぐと何を言っているのか分からない。耳が遠いせいもあるが、NHKのアナウンサーの言葉はよく聞き取れるから、耳の老化のせいばかりではないはずだと患者さんの一人はいう。
そして彼らの言葉が魅力的でないことの背景には、彼らの文化が魅力的でないことがある。なぜ若者の文化が魅力的でないかといえば、現代社会・現代文明が未来を持っていないからだろう。
快適で楽で面白いものなら、下部構造は上部構造を引っ張る。つまり、未来の下部構造が魅力的でないのだ。それが一番の問題である。

むしろ、いまの若者を見てかわいそうと思う。教育程度も低下し、倫理観も低下し、社会の活力がなくなり、国際競争力もなく、誇るに足る文化を味わうことさえ自分たちではできなくなる、そんな時代を生きるのだ。

3554
偏頭痛百科 オリバー・サックス
・もっとも大切な規則は、患者の話を聞くこと。聞かないで無視することはいけない。
・医師と患者がお互いに理解し合えるような人間関係とコミュニケーションを確立しようとする一般的な姿勢が、あらゆる治療法に先立って必要とされる。
・患者に受動的・従順な態度を要求する権威主義的態度は、有害である。
●精神病は、このコミュニケーションの部分で本質的な欠損がある場合がある。それが難しいのだ。しかしまた、このように他人のせいにしてすむわけでもないのだけれど。「あらゆる治療法に先立つ基盤」がまさに欠損しているわけだから、難しい。
・頭痛は何時間かすれば必ず終わる。この数時間を我慢できるようにする。濃いお茶・コーヒー、安静、暗闇、静寂。アスピリン
・自然に対して忍耐強く、ある疾患がその自然の経過をたどるのにまかせ、患者の不快感をできるだけなくす努力をするが、断固とした介入は、ふさわしい瞬間(カイロス)が訪れたとき以外は控える。これはヒポクラテスの設けた基準である。騒ぎ立てることは治療的ではない。
・治療が必要なのは、偏頭痛ではなく患者である。
・純粋に機械的な、攻撃的で、あわただしく、検査漬けと薬漬けの、現代医学は、偏頭痛の患者の治療には敵対的なものである。
・治療の中心には、時代遅れの、個人的関心がすえられねばならない。
・医師は病を理解するだけではなく患者を理解しなければならない。それを通して患者の導き手、道連れになる必要がある。この意味で医師は権威を持つ必要があり、患者は信頼を持つ必要がある。両者にあるのは倫理的関係である。偽りのない深い理解が必要である。そしてこの関係は腐りやすい。

3555
偏頭痛百科 オリバー・サックス
・医師が最終的に与えるべきもの。理解、勇気、病に対抗する生命肯定的な態度。
・患者は一人で立ち上がる力を必要としている。医師はそれを与える。

3556
愛するのも自分だけ
憎むのも自分だけ
攻撃するのも自分だけ
そのような人の夢

ヨットの上
真っ白な服でわたしは立っている
誰かがヨットの甲板に横たわっている
任務はその人を湖に投げ込むこと
その前に顔をオールで潰さなければならない
うつ伏せの死体だ
顔を上に向けるとそれは自分だった

自分だけが住んでいる世界の象徴である
そこに他人が住むようになる
それが成長だ

たとえばヨットの白い服を着た人は恋人で
その人を抱きしめてキスをする
そのような夢になるように治療は進められる

たとえばヨットの白い服を着た人が父ならば
その人を湖に投げ捨て象徴的に殺すことで
父を乗り越えるだろう

君が父といっているものは
自分だ
君には他人はいないから

3557
わたしの言葉はあなたに届かず
ただわたしの内部でこだまを返している

届かないからなおさら繰り返して語り続ける
しかし届かず 内部でのこだまばかりが繰り返される

3558
医師が患者を診るときの目。
一人の人間としてもう一人の人間を理解したいと触れ合うときの目。
この二つの違い。暖かさと冷たさ。判定者と共感者。理解と了解。
障害者と付き合うときには、この観点が強調される。また例えば、子どものケアの際には、「子どもと同じ目の高さで」というのが決まり文句である。
勿論そんなことは常識である。子どもに見える世界がどんなものであるか、そのことを意識しない想像力欠如の人間は、障害者のケア以外でも、決定的に人間として欠けているだろう。
むしろ、そのような、欠如を抱えた人間が、好んで障害者ケアの世界にかかわろうとする事実を考えた方がいいだろう。そのような想像力欠如の人間は通常社会では敬遠されるだろう。その人にとって、居心地のいい場所はなかなか見つからない。しかし障害者のケアの場では、「その人は障害者に対して優位に立ち、ケアを与える側の人間である」として自然に、当然のこととして決定される。そういう場所ではそんな人たちも生きにくさを感じないですむ。
ところが、障害者にしてみれば、辛いことが起こる。その人は想像力が欠如しているから、付き合っていてとても居心地が悪い。普通人同士ならば、「あの人は変」と思える。しかし障害者の場合には、「自分が変」との思いがまず先にある。自分が変なのだと思うしかできない。
ケアする側も、自分が変なのだろうかとの反省には至らない。障害者は変だから仕方がないと思うだけだ。反省のないところで、一応居心地は悪くない。
このようにして、障害者ケアの場所は、実は障害者が堪え忍ぶ場所となる。そして一般社会でやっていけない想像力欠如の変な人が、そのおかしさを「のびのびと」発揮してしまう場所となる。
そんなわけで、やはり、人と人として謙虚に、向き合う、その態度は大切である。

例えば、地位も教養もある人が、心臓病になったとして、医師は「患者を診るときの冷たい目で診断する」だろうか?一人の人間として接するのではないか?
一方、長期にわたる障害が固定している人ではどうだろうか。障害が固定している場合には、社会・経済的地位が低下していることが多い。そうした背景を診察室に持ち込んで「冷酷に機械的に判定」しているという印象が生まれる。医師はエリートであるという社会的背景があるから、こうしたことは起こりがちである。

だから、貧富の差、地位の差、社会的有用性、性格のよさ、美醜、そのような一般の社会的判断を超越して、誰にでも、医の心をもって、対応するようにする、これが大切である。
一般社会で冷遇されている人の場合にも、その人の奥に、無垢の魂が宿り、世界を経験してるのだと思う。その無垢の魂を思えば、いま現在どんな姿で医師の前に現れていようとも、やはり畏敬の念を持って、診療に当たるべきだろう。

しかしまた、こうしたことを前提として、次のような事情もある。
性格障害の精神障害者がいる。「オレを人間扱いしろ。患者扱いはよくない。ひとりの人間とひとりの人間として対等の高さで話をする必要があるのではないか。」などと言う。一般論としては正論である。
その一方で、普通の人間同士ならば、つきあいを断られるような、自分勝手で、自己中心的な振る舞いをする。その場合、相手が「そのようなことをするなら、つきあいはごめんだ!」と言えば、「やはり最初から見下しているのか!」と反論する。狡猾にも敢えて事態を混同するのである。
そうした進みゆきになると、こうした事態を上記のように分析的に見ることができない職員は患者に翻弄されてしまう。
しかも、さらに問題がある。職員はアダルト・チルドレン系の人が多いのだ。過剰な一体化をする。相手のためではない、自分のために、いくらでも共感する。そしてもう一人ダメな人間を作ろうとする。そのような職員にかかれば、こうした狡猾なタイプの人は、いい餌食なのである。
患者から見れば、いつものやり方で、自分のペースに巻き込んだと思う。世間では通らない自分勝手が許される。
しかしAC職員から見れば、こちらも、やはりいつもりやり方で自分のペースに巻き込んだと思っている。「わたしの愛の力だ。わたしだから、あの患者さんは心を開いてくれた。あの患者さんのためなら特別サービスも喜んでしてあげたい。なぜなら、いまの彼にはわたししか理解者がいないから。」こうして、餌食を一人増やして、職員のAC的病理は満足を得る。
客観的に見ればとても困った事態なのに、両者とも満足しているのである。
これを竜宮城状況と呼びたい。一般世間で生きることができなくなってしまうのだ。患者も職員も。

3559
子育てに悩むお母さんへのアドバイス
・一人で抱え込まない。……助けを求めるのは恥ではない。むしろ母親として責任のある態度である。
・ちょうどよい距離をとる。……保育所や親戚に頼って、物理的に距離をとる。
・自分を責めすぎない。……ありのままを受け入れる。子どもが嫌いな自分も受け入れる。

3560
人は他人の痛みや苦しみを本当に理解することはできない。
そばにいる人がいつもいつも苦しみや痛みを訴えていれば、イライラしてきて腹を立てる。
苦しみや痛みは、ジョーカーのようなもので、強いカードである。痛みを訴える人に、慰めではない強い言葉を投げかけることは、自責の念を引き起こす。
ジョーカーを乱用されると、そのことに腹が立つ。

痛みを対人関係の駆け引きに使うという、「生き方」を選択する人もいるのだ。

3561
制度への依存
時間を価値に変換する。残るのは何か?

例えば、ある人が時間をかけて何かの資格を取ったとする。その社会ではその資格は有効で、生きていくのに役立つ。
一方の人は時間をかけて人間の文化を学んだとする。その社会では特に評価されず、就職にあたって有利になることもあまりない。
ある日、その社会が消えたとする。制度が消えてしまったとき、制度に依存した資格や身分は消えてしまう。そのようなものに時間をかけていいのだろうかと考えてみる。

この世に生きて、何をするか。

3562
火星の人類学者 オリバー・サックス
・「図書館には不死が存在すると読んだことがあります。‥‥自分とともに、わたしの考えも消えてしまうと思いたくない‥‥何かを成し遂げたい‥‥権力や大金には興味はありません。何かを残したいのです。貢献をしたい。自分の人生に意味があったと納得したい。いま、わたしは自分の存在の根本的なことをお話ししているのです。」
●なるほど。「何かを成し遂げたい」この欲望かもしれない。この一節はとても心に響く。
●この世に生まれて、この世を体験する。
経験の後に、次の世界にいくか、元の世界に帰るか、全くの無になるのか、分からない。
分からないが、この世を経験し味わい、そして出来れば何らかの貢献を残して、去っていきたい。そう思う。
例えば図書館の一冊として有意義な本を加えたい。
●全くの「観賞する人」「味わう人」の立場もある。しかし、それを基本としながらも、変革ではないが、世界に貢献する立場もよい。
●世界はよい・悪い。世界を変革する・味わう。この二つの軸でいえば、世界はよい・世界を味わう、これがわたしの基本の態度だ。しかしこれに「可能なら世界に貢献する」を加えたいと思う。
●図書館には不死が存在する。これはポッパーの哲学を思い出させる。三世界の考え方。脳が文化をつくり、文化が脳をつくる。そのような一体のものとしての関係。脳は長期間存続することはできない。いつも新しいものとして学びつつ成長しつつ存在している。文化はそれらの脳の総体として存在する。この特殊な関係が美しい。
●「自分の人生に意味があったと思いたい」これこそ、豊かな時代の欲望である。安全が満たされた人間は、人生の意味を求める。しかし、意味の次元でも自由主義的な社会は、価値の選択を個人にまかせる。そこから苦しみは生まれる。

3563
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー(岩波同時代ライブラリー349)
・世界に「普通」の人々はごく少ししか存在していない。
●特別の不幸はとても普遍的である。
・人々の心の痛みに対して伝統的な宗教はあまり役に立っていない。
●実にその通りである。なぜか?宗教はあまりにビジネスになった。良心的な人たちは宗教の腐臭に耐えきれず離れていく。異様な腐臭にも鈍感な人たちだけが残る。そしてますます腐臭が立ちこめる。
・「悲劇も本当はよいことだ。不幸に思えるこの状況も、本当のところは神の偉大な計画の中にある」これらの言葉は善意のつもりではあっても、傷つき痛みに耐えている人々にとっては、「自分をかわいそうがるのはやめなさい。このことがあなたに起こったのにはちゃんとした理由があるのです。」とたしなめているように感じる。
●慰めの言葉を考えるのは尊いことだ。しかしときには間違った答えをしてしまう。人間はそんなものだろう。間違いの背景には、やはりいろいろな動機があるだろう。他罰、嫉妬、攻撃。あるいは自分の信じる整合的世界観を守りたいとする欲求。そして他人の痛みに対する盲目。
・(不幸に耐えかねて家出した人。)彼らはその痛みに対応することができなかった。現実を受け止め問題に対処することができないから、彼らは家を出て痛みから逃げ出すという「解決」の方法をとった。
●非合理的であるが、否認にはなる。問題が自分の視野の外に去るようにする。弱い人間にはそんなことも必要だろう。

3564
悲しみに沈む人に、「世の中にはあなたよりも不幸な目に遭っている人が沢山いる。自分だけが不幸だと思ったら大間違いだ。」と語る人について、どう解釈すればいいのだろうか。正直に言って、慰めには思えない。不幸の追い打ちとしか思えない。
共感性の不足が根源にはある。しかし、この発言者は、ある意味で嫉妬を感じていたのではないか?不幸が起こり、ある人が世間の注目をあびる。ある意味では不幸のヒーロー、ヒロインが誕生する。自分を差し置いて、世間の注目を集める人が出現するのは許せない、そう思うのではないか。みんながあなたに注目して同情して、さぞかしいい気持ちでしょうけれど、ちょっと待ちなさいよ、と冷水をかける。
自分の言葉が、本当に慰めになると考えているほど、それほど鈍感で頭が悪いのだろうか?あるいは、自分の悪意を承知しつつ、そのように発言するのだろうか?その時、その人は快いのだろうか?「この人に、これだけは教えておきたいわ。いい気味だわ」といった具合だろうか?
分からない。一体何になるというのだろうか?
嫉妬に駆られた発言と考えれば分かる部分もある。
たとえばこういうこともある。攻撃性の高い人は順位をとても気にしている。攻撃を仕掛けて、相手から屈服のサインを引き出して喜ぶ。このタイプの人にとって見れば、悲しみのさなかにある人はいい餌食である。ましてや、日頃、その人に対してひけめを感じ、何とか順位の逆転ができないものかと思っている人ならば、相手のそのような状況を利用することもあるだろう。
相手が傷を負っているときに、ことさらに攻撃を仕掛けるとは、スポーツマンシップのかけらもない。アンフェアな振る舞いである。そんなことをしたら、どんなに自分が貧しい人間か、思い知ることになるだろうと考えられる。
まさかそんなことが、と思う。しかし人間はそのようなものではないか。葬式の席で、そんなことが起こっている。
3565
愛と赦し。他人を批判しすぎる習慣がある人に、必要なもの。あなたはその人を育てることができるのではないかと考えたらどうだろうか。この世界をよくするために、あなたにまずできることがそれだ。

状況を批判するのは必要だ。しかし人にはそれぞれ行動の必然がある。全否定してそれでいいというものではない。

3566
日々新しい日を迎えて、年をとるとはどういうことかを体験しつつある。どの人にとっても、その年齢を生きることは初めての体験である。

3567
正義を求める心。そして正義の貫徹されない世界であることを神に抗議する心。
これは嫉妬心に似ているのではないか?
愛と幸福の分け前が公平ではないことを神に抗議している。それを正義と言い換えている。

この世界は公平ではない。制度は公平に出来るが、自然も人生も公平ではない。この現実をどうとらえるか。
フィクショナルに、実は全ては公平なのだと考えてみることもできる。公平の概念を洗練させることもできるかもしれない。
しかし自然な気持ちで事態を見つめれば、不公平は厳然と存在するように思う。
幸運を与えられたと見える人も、それが不幸の始まりであったり、と考えることはできる。実際にそうだろう。人生はいろいろなことが起こるから。
才能も寿命も財産もチャンスも不公平に与えられる。そのような世界である。
しかしそれを受け入れられるかどうか。そのような世界をあっさりと受け入れてさらに前進できるか。あるいは不満を神に向けて、あるいは周囲に向けてこぼし続ける人生にするか。

ある程度の幸せがあれば、忘れていられる。そんなものだろうと思う。自分にふさわしい幸せはどの程度のものであるか、その基準以上の幸せがあれば忘れていられる。自分にふさわしい幸せの基準が高すぎる人は不幸である。

3568
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・悲しみにくれている人に対する援助。「ものごとには時がある。手の施しようがない状況が確かにある。あなたがどれほど努力してみても、修正したり解決したりできないことがある。それでも、そんなときにもできることがある。悲しみに打ちひしがれている人のそばに、ただ黙っていてあげ、その人が泣いていれば泣く手助けをしてあげる。そうすれば、その人が置き去りにされひとりぼっちで寂しく泣くということはなくなる。」
●肯定的に寄り添うこと。
●しかしこの時、悲しみに沈む人はあまりに無防備である。相手の人が攻撃的であったりすると、ひとたまりもない。パワーゲームをしかけられ、屈服の仕草で返すまで、攻撃される。なぜこんな時にそんな目に遭わなければならないのか?
・どんな人であれ、「六ヶ月が過ぎました。もう立ち直る時期に来ているのですよ」などという権利もない。
●なるほど。しかし医師の場合にはまた別だろう。過度の甘えを予防することは大切である。しかしその時、医師としての判断ではなしに、「もうそろそろ仕事しなくちゃね」と感じていないか、チェックが必要である。
・人生は善であり聖なるものであり、病気や死が悲劇にすぎないことを理解した。
●病気や死などの悲劇に意義を見つけようとすれば、それは慰めではなく攻撃になる。これがポイント。そんな慰めよりは、その人の感情のままに十分に泣き、悲しんでもらうのがよい。その間、寄り添うこと。遠慮なく泣いてもらうための場所と考えていい。
・自分たちの悲しい体験を希望に変え、同じような体験で苦しんでいる人たちに自らの経験を語りかけ、援助の手をさしのべる。
●これが自助グループの原理。不幸を希望に変える。それは可能か?

3569
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・人生の不公平さ。
●これに我慢がならないと感じるとすれば、それが真の意味で豊かではない証拠ではないか。
・不公平な出来事に対する深い痛み。憤り。わたしは悪い人間ではなかった。
●ここがヨブの叫び。答えは結局、不幸には原因もなく意味もない、その無意味さに耐えなさいということだ。
・神はそれぞれの人がその態度や行いにふさわしい人生を送るように見守っている。
●このような神の観念が、不幸に遭う人にとっては居心地が悪い。神がそのようなものであるならば、不幸にあった人はその不幸にふさわしい悪い人だということになる。正しい人も悪いことに見舞われるならば、神の観念についての訂正が必要である。著者は、神の観念について部分的修正を加えようとしている。全ては神の意志だとはしないで、神にもどうしようもないことがこの世には多いと考える。神の働きによって不幸が起きるのではなく、不幸が起こった後の人間の対応の仕方にこそ神の働きがあらわされると考える。しかしこれは、そう考えれば不幸を耐えやすいというだけである。神の観念は、不幸を耐えるために役立つ「装置」でしかないのか?本末転倒ではないか?
・この世に正義があるのなら、こんなことが自分に起こるのは間違っている、と考えている人に読んでほしい。
●つまり正義などないのだとの結論が待っているのではないか?しかしそれを言ってはならない。不完全でも神はいてほしいのだ。なぜか?神がいなくなって失われるものの大きさを思うから?日本の社会のようになることの恐怖と言ってもいいかもしれない。知的水準は低下してもいい。倫理の水準が低下するのが根本的に恐い。それはドストエフスキー的野獣を社会に放つことになる。例えば、中国人がうごめく新宿のようだ。
3570
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・なぜ善良な人が不幸に見舞われるのか?これが根本的な問いである。
・宗教はまったく安らぎを与えなかった。むしろ、宗教が彼らの気持ちをことさらにみじめにしていた。
伝統宗教は、まったく世俗の権力装置である。その人が不幸に見舞われて、社会・経済的階層が低下すると、宗教はその人に辛くあたる。
・根拠のない罪意識によって、人々は神を憎み、自分自身を憎むようになる。
●このあたりが本末転倒である。神という「装置」はこのような構造的欠陥を持っている。しかしまあ、そんなに目くじらを立てなくてもいいだろうという気持ちで、たいていの人は通り過ぎる。人々はこんなことばかり考えているわけではないから。
・病院や老人ホームの実態を知っていながら、全ては神の思し召しだと言えるだろうか。
●確かに、実態はひどい。考えさせられる。しかしそれが人間の限界でもある。誰もどうにもできないことがあるだろう。福祉を充実させようとすれば、何かを削ることになる。無駄づかいを減らせばいいが、それがなかなかできないのが人間の社会である。それほどの高度な倫理を求めることは難しいのだ。特別なときの倫理と、ふだんの生活の倫理とは、連続はしていても、同じではない。
・不正直で良心を持たない輩は、しばらくは栄えることが多いが、ついには正しいものが追いつくのだ。邪悪は草であり、正義はナツメヤシである。同じ日にまいたら、草の方が早く芽を出し成長する。しかしそれは一時的なことで、ナツメヤシは長い時間をしっかりと生き続ける。よい。しかし願望が多く含まれている。

3571
特別なときの倫理と、ふだんの生活の倫理とは、連続はしていても、同じではない。

一般人が従うべき倫理と、わたしが従うべき倫理とは、連続しているが、同じではない。

3572
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・人は理由もなく災難に見舞われ、神は世界と何のかかわりもなく、運転席には誰も座っていないという考えをかかえて生きていくことは、もっと苦しいことだ。
・もし神が支配していないのなら、誰が支配しているのか?
●偶然である。と結論したとき、どんな苦しみが始まるか。
●同様に、死後の生はない、と結論したとき、どんな苦しみが始まるか。あるいは、人生は無意味だと結論したとき‥‥。
・神に対して怒りを抱く自分に罪の意識を感じる。
●このあたりが辛いところである。人は良心的であれば苦しむ。
・理由のない苦しみ、身に覚えのない罪に対する罰としての苦しみは耐え難い。
・「何のための苦しみかは教えて下さらなくてもかまいません。ただ、神よ、この苦しみがあなたのためのものであるという確信を与えて下さい」
・まったく理にかなわない苦しみを、人に負わせる神を、どうして別扱いして許す必要があるのか?
・苦難には教育的な意味があるか?
・「苦しみの目的は、その人の人格の欠点を修正するところにある。苦しみは徳を高め、高慢さや浅薄な考えを浄化し、その人をより大きくするためにある。」
・「いまは理解できなくても、いつか成長して、この苦しみも自分のためだったと知るときが来る。」
・医療について何も知らない人が外科手術を見たら、一種の拷問と思うだろう。

3573
人間が永遠に生きるなら、人生に選択はない。人生の時間が有限だから、選択する必要が生じ、苦しみが生じる。

3574
ピアノ教師の悪癖
誇大な形容を多用する。根拠薄弱なのに断定する。良識の支配する社会では、このような悪癖は排除され、訂正されるだろう。しかしピアノ教師という立場は、この悪癖を助長する方向に働いた。
客観的な評価基準がない。教師や権威を崇拝にまで高める、頭の悪い「顧客」がたくさんいる。そんな中で、市場の一角を確保していくためには、ある程度のはったりや威勢の良さ、あるいは断定が役立つだろう。
そんなことの果てに、何が真実であるかを見失ってしまう。
医者の仕事もある程度は似ているところがある。注意が必要である。

3575
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・神の立場を守り、悪を善、痛みを恩恵と言い換えることでしかない。
・苦しみの原因が神あり、神がなぜわたしたちを苦しめるかを理解しようとしている。ここに誤りがある。
ヨブ記‥‥善良な人の苦しみをなぜ神は黙認しているのかという問い。
・「わたしの子供たちは悪人だったから死んだとでもいうのか?わたしが邪悪な人間だから不幸になったというのか?」
・どうしてそのような神が、義の神と言えるだろうか?
●不幸になったこと、その不幸の故に神を信頼できなくなること、あるいは、他人の心が信じられなくなること。このようにして、不幸は二重の構造となる。
●幸福なときには周囲の人たちは幸せな顔で接してくれる。人間はいいものだと信じられる。不幸になれば周囲の人たちはそうした信頼を打ち砕く。不幸な人はさらに不幸にさせられる。運命によって不幸になった人は、人々によってさらに不幸にさせられる。
・被害者に責任を負わせることで、悪はそれほど不合理なものでも恐ろしいものでもなくなる。犠牲者を悪くいうのは、世界は見かけよりも住みやすいのだ、人が苦しむのはそれなりに理由があるのだ、といって自分自身を安心させるための一つの方法である。それは、幸運な人たちが、自分たちの成功は単なるまぐれ当たりではなく、それにふさわしいだけのことをしてきたからだと信じる役にも立っている。
・この考えは、犠牲者をのぞいて全ての人の気分をよくしてくれる。被害者は不幸に苦しみ、さらに人から非難を受けるという、二重の苦しみを味わう。

3576
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・神が全能でもなく公正でもなければ、道徳的に従順でいれば神の報奨がもらえるという打算を抜きにして、純粋な愛故に神に従い、道徳的になれる。かりに、神がお返しに愛してくれなくても、人は神を愛することができる。
●なるほど。
・ヨブは神を公平という概念を超えた存在と見る。
・善に対してではなく忠誠心に対して報奨を与える物騒な古代の王。道徳的に欠けるところのないヨブを、忠誠心を確かめるためだけに苦しめ、最後にはたっぷりと報奨を与えて、゛うめあわせ゛をする。これが古いヨブの民話。
●善や公平は、神を超える法ではない。神はそれらを超越している。
●その神が公平だから信じるのではない。
●こうして愛の神の観念が発生するのか。愛の放射源としての神。
・ヨブは、神との間に裁定人がいてくれればと願う。神が神自身につい