なかなかおもしろい。
ハムレットの綴る日記という形である。
シェイクスピアのハムレットが背景にあるのでなおさら楽しい。
本歌取りのようなものか。
シェイクスピアと比較してみると、
シェイクスピアの豪華絢爛なレトリックが際だつ。
大岡昇平は心理描写が際だつ。
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可哀そうなオフィーリア。小川の岸に枝をたらし、白い葉うらを水にうつしている一本の柳の木がありました。そこへ、きんぽうげ、いらくさ、雛菊の花、それから羊飼いはみだらな名で呼ぶけれど、乙女たちは死人の指と呼んでいる紫蘭を添えた花冠をかぶって来ました。垂れ下がった枝に登って、その冠をかけようとした時に、意地悪の細枝が折れ、オフィーリアは、花冠もろ共、泣きむせぶ小川の流れに落ちたのです。裳は水面にひろがる。古い唄のきれはしを歌っていました。水のこわさを知らぬげに、それとももとから水に棲む妖精ででもあるかのように、浮かんで流れて行きました。されどそれも束の間、やがて裳は水をふくんで重くなり、あの子は水底に引き込まれ、歌は途絶えたのです。
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畢竟、彼らはそれぞれ領地の利害を持っている。象徴として王座にあるのは、父上であろうと、クローディアスであろうと、乃至はこの私であろうと、同じことだったのだ。彼らの封建の所領からの収穫と城館と飲酒の習慣の永続を許すものなら、何でもいいのだ。私が彼らの心と正義感をあてにしたのは愚かであった。
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人間の心は黒く、汚れている。思いはとかく罪に向かう。さればこの怖れと悩みに満ちた体が、この機会に水となって溶けてしまえばよい、と思っていた。この腐りきった世の中におさらばするなら、早い方がよい。
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古い土地にかじりついている貴族、フランス流の口舌の猿真似する廷臣、どら声の軍人、嘘吐きの坊主どもが、柄になくデンマークの宮廷の体裁を整えようとあくせくしている有様は、浅ましいというほかはない。かかる宮廷に王として臨むことに、どれだけの値打ちがあるというのだ。しかも彼らは私のあれほど条理を尽くした言葉を、狂人の妄語としてしか取らない無礼者なのだ。
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ハムレットはここであからさまに、自分が狂人として扱われていることに腹を立てている。
しかし、客観的に見れば、やはり、理性からの逸脱を呈しているとしか判断しようがないだろう。
従って、これは「ハムレットの狂人日記」と見なすことができる。
大岡昇平の「野火」は、最初「狂人日記」と題されていた。
戦争末期、しかも敗戦と病気と外地という極限状況の中で、いかにして狂気は発生し、発展したかという記述である。
同様に、ハムレットが置かれた状況の中で、如何にして狂気は胚胎し、発育し、最期を迎えたかを記述している。
ハムレットの内面に即していく限り、狂気の発展は大きくないようであるが、結果として概観してみれば、やはり狂気である。
内側からと外側からと、こんなにも景色が違うのだという発見。
大切なことだと思う。
人は誰しも、自分は正しいと思う。
論理ならば訂正されることもあるが、
自分の体験は否定しようがない。
聞こえたものは聞こえたのであって、他人に訂正されようがない。
そこに幻覚妄想の出発点があり、
その出発点を頭ごなしに否定されることがどんなに非人間的な扱いであるか、
はやり反省が必要だろう。
「野火」や「ハムレット日記」をよんで、「ここが妄想」とくっきり判別できないようならば、あなたもいつの間にか、幻覚妄想の中に生きていることになるかもしれない。
とはいえ、人間はもともと、そのように頼りない存在なのであるが。
だから、人に優しくしないといけない。
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人間がこの世にある限り、少しばかりの感官の混乱はまぬかれないのであって、それが亡霊という形を取るか取らないか、要するに程度の差にすぎない。フォーティンブラスはデンマーク人の幻覚を嘲ったが、彼の目標とするポーランドが幻覚でないと誰がいえる。人はそれぞれの人の精神にふさわしい亡霊を持っている。大事なのはいかにして、亡霊と共に生きるかということだ。