- ふとしみじみと、ああこれが「机の机らしさだ」「しみじみと机らしい」と思う瞬間がある。
- 離人症という症状がある。離人症では「机の机らしさ」つまり「机の実感」が失われる。しかし「机である」との認識は保たれている。机は何のために使われ、原料は何であり、そんなことはよく知っている。ただ「しみじみとした机らしさ」が欠落する。そのような状態が人間の意識には可能であることがこれから先の手かがりとなる。
- 「風景を見ても、絵はがきみたいだ」
- 「風景がガラス越しみたいだ。一枚ベールがかかっている感じ。」
- 従って、「机の体験=机そのもの+机らしさ」である。
- 移項すると、「机の机らしさ」=「机の体験」-「机そのもの」となる。
- そもそも、風景そのものと、一流絵画と、絵はがきが違うという言説自体が怪しいという意見はある。絵はがきは手がかりであって、現実の体験を思い出すきっかけになればいいのであるから、絵はがきの中にすべてがある必要はない。一流絵画と絵はがきを比較して、絵はがきは本物の芸術でなはいから二流だとする考え方には反対。手がかりだとしてもそれは風景に対しての手がかりである。
- 反論2。フランスの絵はがきは日本の絵葉書よりも原色を忠実に再現しているとする説。本物が最高で、それに近いほど、偉い。芸術はそんなものだろうか。疑問に思う。
- 離人症の場合には、「机の机らしさ」=0となり、「机の体験」=「机そのもの」となる。
- これが離人症の場合には耐え難く、そのゆえに死ぬことを考えるという。
- ここで、「机そのもの」=0とすれば、「机の机らしさ」=「机の体験」となる。これは一般に芸術が求めているものに他ならない。机は目の前にない。しかし画布の上に「机らしさ」が存在している。これは大変奇跡的な事態である。