3478-3500

3477
わたしの手元に迷い込んだ小さな虫を見て、誰かの生まれ変わりかと思ったりする。潰そうと思った手をとめる。

3478
忘れられてしまうということ。この世界の記憶から。
例えば神はこの世界の詳細な記録を持っているのだろうか?神はそれほどこの世界に関心を抱いているとは思えないふしがある。作って、それきり。あとは放って置いている、そんな感じだ。

あったこともなかったことになってしまう。

あるいは、あってもなくても同じ。
この世界に何の変化も生じない。

いや、部分ではあれ、この世界の有り様を変えているのだ。それは確実だ。そう考えることもできる。

それだけではなく、世界を実際に変えた人たちもいるのだ。
その確実な手応え。
その確実な手応えに憧れるかもしれない。
そしてそれは幼児的全能感につながるだろう。

3479
患者さんたちは、救われるに値する。

わたしも、救われるに値する。

3480
トラウマはいかにして癒されるか。

孤独の足し算。一人の孤独と一人の孤独を足し算すると、二倍ではなく半分になるとの提案。

トラウマは連帯によって癒される?
個人のトラウマは、個人の内部にとどまればマイナスの意義しかないだろう。しかし共同体の財産となることで、プラスの意味が与えられる。
そのように美しい夢想をすることはできないだろうか?

共同体的意識への変換がもたらす救済。
それはにせの救済かもしれないが。
結局、錯覚である。救いなどどこにもない。
神の国での救済。それと同じである。

ドストエフスキーが、さらに遠くはヨブ記の作者が、とりつかれていた問題。無垢の魂に降りかかる受難。
それは神の意図したことなのか?意図したとすれば、一体どんな意図なのか?意図しないとすれば、その受難は無意味なものなのか?

わたしは自分が無垢の魂だなどとはいっていない。
受難というほどの難もない。
しかし割り切れなさを感じるし、その延長として、受難の感覚は知ることができる。
この世界に、小さな受難が満ちているだろうと思う。

3481
トラウマはいかにして癒されるか。

あるいはトラウマはいかにして癒されるべきか。

今、わたしが幸せになればいい。それしか解決はない。

3482
では、診察室で行われている癒しの操作は何なのだろう?

悪い面も多いのではないか。
忘れること。
気をそらすこと。
別の解釈を信じ込ませること。
世間というもののばかばかしさを受容するように洗脳すること。
長いものに巻かれるように指導すること。
世間の人と同じくらい、惨めで愚かで小ずるくて、ちっぽけな存在であることを教え込む。ほとんど悪魔のささやきに近い。

しかし悪いことばかりではない。
希望の火を再び灯すこと。
自己評価を高めること。
高い志の連帯を確認すること。

本物の芸術に触れたり、高い人格に触れたりすることは、やはり意味があることだ。

(本物の芸術ね、なんてひねくれたことも思う)

3483
インターネットは、情報の再加工技術であると思えてくる。引用を重ねるための道具。直接の体験がそこにはない。

直接の体験などあるのだろうか?脳というフィルターを通して見る限り、すべては直接ではない。目に映る光をトリガーとして、脳の中にある情報を引用しているだけだとも考えられる。

その意味では、インターネットは脳の外延である。

一次情報ではなく、二次情報を増幅させるだけの装置。現代社会そのものである。情報の加工技術だけが発達している。

3484
わたしの日本語が、どんどんお喋りに近くなる。独り言に近くなる。幼児の甘え言葉に近くなる。毅然とした大人の言葉ではない。
甘えた言葉。責任を回避している。悪く思わないでねとメッセージを発している。一応こんなことをいうけど、あなたとは仲良くしたい、と下手に出ている。
「あなたと対立するつもりはない。嫌われたくない。しかしその範囲内で、ひょっとしたら、わたしのいうこととも聞いてもらえたら嬉しい」そんな雰囲気か。それが甘えるということ。

嫌われない範囲で、最大限の利益を享受したいという図々しさである。それが甘えである。

3485
罪の償いをテーマとして生きている人。
神の理不尽さをテーマとして生きている人。
この違いである。

(わたしは思うが、人がどんな罪を犯したというのだろう。宇宙の途方もなさに比較すれば、ちっぽけなものだという気がする。)

3486
記憶があるから時間が発生する。時間が発生するから「もののあはれ」が生じる。

自分の存在を肯定できなくなる。
恐怖も生じる。
罪の意識も生じる。

3487
「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房
・振り返ってみると、あなたの人生が一つの物語になっていることが分かる。過食症もわたしの人生には必要なものであったと思えるときがきっと来る。それはあなたの人生のある一時期に絶妙のタイミングで起こったものであり、あなたの人生というジグソーパズルを埋めるのにぴったりのピースだった。それ以外のあなたではあり得なかった。
●こんな言い方はナンセンスだと理解力のある人ならば考える。しかし相手は気持ちの弱っている人たちである。そうかと信じ込んでしまうだろう。困ったことだが、仕方がない。せめて自分はそんなことはしないようにしよう。治療者としての最低限の良心である。
・親は自分に何を期待したか。そんなものに支配されていた自分を見つめ直そう。ついでに親に対して怒ってもいい。
・「わたしは楽しくてしかたがないから、いつまでもお前の人生にかまっている暇はないよ」という親だったら、子供のほうも、親に世話してもらおうと思わないかわりに、親の人生の肩代わりもしないですんだ。
●親の人生の肩代わり。これがキーワード。
●その根底には、DNAを介しての連続という抜きがたい観念があるから、厄介である。
●親の脳の満足のために子供が利用されるなら、間違っている。親のDNAの満足のために子と親が利用されるのは当然である。そのように考えて整理してみてはどうか?
●子供の成績を理由に、母親の母親グループ内での順位が上昇したとして、何になるだろうか?母親の脳が嬉しいだけではないか。
●親の期待に応えるために自分の限界を隠す必要はない。
●子は親から逃げられない。親に病理があることも少なくない。原因は親にあるが、親には病識がない。そんな場合に、治療は行き止まりである。

3488
「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房
・あなたにとっての正しい答えは、あなたの中にある。
・信頼できる友人に聞いてもらうのもいい。ただし、説教好き、アドバイス好き、批判的、攻撃的人間は選ばないこと。
・彼らを救ってやろうと焦らないこと。それでは元の木阿弥で、あなた自身が大迷惑を受けた、「優しい暴力」と同じになってしまう。
・相手によかれと思ってやった善意の行為が、相手の自尊心を奪う。
●この指摘は大切。結果としていいというだけではなく、そのことが相手の自尊心を傷つけないか、注意する必要がある。「いつかは分かってくれる、彼のためだ」と言うなら、よほどの注意が必要である。
・他人の状態が正確にわかるはずはないし、その人にとって何が正しいか知っているのは本人だけである。
●このような言い方は正しいか?甘言といえよう。
●何が正しいかは誰にも分からない。本人にも分からない。ただ、自分で正しいと思って選択したのなら、その選択の結果を自分で引き受けることにも納得できる。だから、自分で選択した道を進むのがいい。それだけのことである。
●子供が不調なのは、母子癒着のせい。母子癒着を切るのは、父親の役割。これだけで、子供の不登校の責任が、子供→母親→父親とつぎつぎに転嫁される。理論は責任逃れを手助けしている。
・死ぬときに、ああよかったと心の底から言えるか。誰かに包まれている実感をもって死ねるか。たとえ山の中で凍死しても、心の中で自分を見守ってくれるいる人を思い描いて死ねるか。それとも、世を呪って恨んで、孤独で惨めな人生だったと思って死ぬか。
●極端な比喩であるが、そのようなことはあるだろう。実際には両極端の要素の適度な混合であろうけれど。何が違うのだろうか。経験そのものに大きな決定的な違いがあったとも思えない。受け取る態度の違いであろう。その態度の基礎は子供時代につくられる‥‥?母との基本的信頼。
3489
トラウマの癒しは、「本質的な連帯」である。

トラウマがなぜトラウマになるのか。その本質は、人間あるいは他人への信頼を傷つけることにあるのではないか。
やや心理学的にいうなら、トラウマがトラウマであるのは、基本的信頼を傷つけられる体験であるからと言ってもいい。
そうならば、トラウマを癒すのは、より上質の連帯ではないか。やはり人間は信じられると再度確信することではないか。
基本的信頼の再建である。

ここでも「孤独なバナナ」のイメージ。
トラウマは、バナナが引きちぎられること。

一人ではないことの再確認である。

本当の味方がいることを確信できるようにする。

その意味で、母親が基本的信頼の基盤として機能しない場合が困る。

3490
一人で悩んできたのね。もう今日からは一人ではないのよ。

3491
人間の順位を決める要素に、準拠集団がある。
所属集団と言ってもいい。意見の対立があったときに、だってこれは‥‥の意見だから××の意見よりも正しいのだと信じることができる。そのとき主観的に優位に立っているのだ。それが順位付けにつながっている。
しきたりや趣味の良さ、そんなものは相対的なものであるが、それでもやはり順位付けの道具になる。

3492
「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房
・離れていても、母親に愛され、母親と共にいることを確信している子供は、一人でいられる。
・このような確信が持てない子供は、一人でいることが不安で、どうしようもない寂しさをかかえている。一人でいることは寂しさと絶望であり、一人でいても、自分を愛してくれている人が存在していることを信じられない。一人でいることに耐えられず、つねに落ち着きなく活動し、何かに依存しないではいられない。
・「一人でいられる」は「○○なしではいられない」の反対。
・誰かのために、何かのために、自分を犠牲にする必要がない。
・一人でいられる人はしがみつく必要がない。相手を束縛する必要がない。
・わたしたちにとっての真の欲望は、自分以外のもう一人の人から「承認」してもらうことである。しかも条件を付けない「丸ごとの承認」である。
●生まれて成長するということは、それを失い続ける過程である。
●同時に、未来を失い続けることである。
・そのような欲望を相互に満たし合う関係として、親密性がある。適当に譲歩し合う。
・自分を承認してくれる他人を探す。自分より強いもの、優れたものに出会って、その人に承認を得ようとする。承認の前段階に攻撃があり、パワーゲームがある。子供が暴力などで親を支配してしまった場合、承認を得たい強い相手ではなくなる。だから親は、子供の自己主張に適度な規制を加える気力を持ち、子供が承認してもらいたい人としてとどまる覚悟を持つ必要がある。
●そんなのも甘えだと思う。親が何でも関係ないではないか。自分は自分だ。

3493
石上も青木も、父への不信をあからさまに表明している。父への不信があるから、素敵な男性との出会いからも遠ざかり、結局あまりよくない男性と出会い、歴史は繰り返す。

3494
患者の逆恨み。被害的な人は逆恨みも平気で口にする。しかしそれは病気のせいだからしかたがない。ところが、親までもそれに同調したりする。親も病気だったわけだ。しかし母親は子育てをしてたまにパートに出て、ゆっくり暮らしているから、分裂病でも破綻しないですんでいる。この種の人たちは病識がない。しかも被害的で、他罰的である。わがままで反省がない。悪いことの原因はすべて外部にある。そんな世界観の中に埋没している。どうしようもない。
この種の親は治療目標も理解しない。一時的に家で暴れても、閉じこもりから脱却する過程として受け入れればいいものを、「家に閉じこもっていた頃のほうがおとなしくてよかった」と文句を言う。一瞬完全治癒の魔法を使えというわけか。当然そんなことは不可能である。
逆恨みの餌食になる前に逃げることだ。それしかない。全てを治せるわけではない。

3495
ユウキ君。自分の欲しいものを手に入れようとして、おばあちゃんを相手に泣きわめく。おばあちゃんは世間体が悪いからと買い与えてしまう。
これは結局、子供にどのように育ってもらいたいかよりも、世間体を守ることが大切だと、子供に表明しているようなものである。
世間体はこの際どうでもいい。どのように育ってもらいたいか、それだけが大事だと毅然として教え込む。そこに親子の絆ができあがる。世間体よりも子供が大事だと表明することだ。

3496
「自分のために生きていける」ということ 斎藤学 大和書房
・対人恐怖から嗜癖に至る。ものとの付き合いであれば、「自分が承認されるかされないか」という恐怖から逃れられる。
●不安をしずめるために、ものを使う。あるいは不安をしずめるために、真性でない対人関係を結ぶ。真の安らぎには至らないから、いつまでも求め続ける。
●日本のサラリーマンは、バーのママと、保育園の保母さんと子供のような関係をつくって甘えている。家には妻ではなくママがいる。ついでに会社は大きなママである。無条件に保護してもらうかわりに、無条件に奉仕する。
●確かに、相手の配慮をあてにする習慣があるように思う。はっきりとした契約関係を振りかざすのはいい態度ではない。黙々と頑張って、そのことを正当に評価してもらう。評価を配慮として示して欲しい。そのような関係があるのではないか。図々しく自分の努力をアピールするのはいい態度ではないとの考えがあるのではないか。
・「わたしへの愛と見えた多くのものは、母が自分の不安、心の傷を覆い隠すためのものでした。母は自分を絶対必要とする存在がどうしても欲しかったのだと思います。」「おまえは一人では生きていけないよ。わたしがいなければ何もできないよ」という子守歌を聴かされて育った。
●「あの人はわたしを必要としている!」この感情が確定したときに、愛も確定する。日本女性の愛とは、このようなものである。つまりは母性愛である。

3497
一般向けの著作の多い精神科医
多産の精神科医‥‥斎藤学町沢静夫、大原健士郎、小此木啓吾
評判のよい、ほとんど神格化された精神科医‥‥中井久夫
笠原先生は著作も少なくないのに、あまり評価されない。なぜか?泣かせるものがない?

外来を続けている。日曜にNHKののど自慢を見かける。これと同じだ。この人たちが外来に来ているのだ。そしてこの人たちがテレビを見て、本を買う。

3498
「あぶない心」どこが問題かわかる本 都精研編 講談社(ソフィアブックス)
・「察し」を期待する心と甘え。
●「配慮」や「察し」を期待する。それが甘えである。なぜ自分は配慮や察しに値すると思うのか?家庭でならば、それはそれは大切な子供であろう。しかし組織ではそうではない。集団内では別の感覚が必要ではないか?
●精神療法場面でも、配慮や察しを要求している人がいる。そうした甘えが満たされないと、怒る。または不平を言う。面と向かってはいわない。陰口である。いい子でいたいから、甘えるのだ。面と向かって要求すると嫌われる。しかし要求はしたい。嫌われないで要求を通す方法が、甘えるということだ。
●甘えは、察しや配慮を求める心であるが、それをあからさまに求めた場合、かわいげがないし、断られた場合に傷つけられる。自分を守りながら、要求するのである。守るとは、二面があり、「自分はそんなに図々しくない」と守り、一方では、うっかり要求して拒絶され、嫌われた場合の傷つきから自分を守っている。あからさまに要求しなければ、あからさまな拒絶もない。
・「会話から対話へ」の時代。表面的なあいさつや世間話だけで人間は我慢できない。
・I want to be myself.この欲求は日本でも増えつつある。
●「ああ、いまわたしは自分自身だ」と満ち足りて思える瞬間。どのようにして可能であるか?どれだけの人が、その感覚の欠落に苦しんでいるか?このような感覚は結局、宣伝の結果つくられるものかもしれない。誰も感じていない幻想的な満足感を宣伝して、「わたしにはそれが欠けている」と思わせ、何らかの消費行動に駆り立てる。そういったからくりがないと言えるか?

3499
共依存
必要とされることにエクスタシーを感じる。無力な人間が自分を頼っていると、喜びを感じる。必要とされることの必要。

さて、共依存を未熟と決めつけるべきだろうか?自分は自分、独立して生きるのがいい、生き甲斐についても、他人は関係ない、「他人が何かの状態になる、それがわたしの喜びだ」という喜びは、その「他人」を不幸にする、というわけだ。果たしてそうか?

世の中には確かに共依存傾向の行きすぎた人がいて、明らかに異常である。しかし微妙な程度の共依存傾向がある、そんな人たちの場合にはむしろ普通というべきだ。
人間の生きる喜びは、ある程度共同体的である。

環境が豊かになれば、個体優先になる。環境が貧しくなれば、集団優先になる。
共依存傾向は、集団優先であり、生きる環境が貧しかったころの生き方、生きる感覚であった。
現代は豊かな時代であり、個体優先の感覚になりつつある。

3500
分裂病者は、「孤独なバナナ」になっている。
感覚器も、思考力も、表出も、どこといって障害はないのに、孤独なバナナになってしまう。その長期にわたる結果として、陽性症状、陰性症状が発生する。
拘禁反応がモデルとなる。