ドラマ「小早川伸木の恋」

2006年3月16日
ドラマ「小早川伸木の恋」
後輩に落合先生という人がいて、唐沢君そっくりなのである。その点でおもしろく見ている。誠実さもそっくりである。落合がモデルじゃないかと思うくらい。
子役の女の子が独自の存在感を出している。おおむねどの人も典型的で戯画的な程度に省略、誇張して描かれている。

離婚届け用紙が印象的。小早川夫人の心理的不安定さが描かれている。こんな感じの人は最近は少なくないと感じている。小早川夫人の不安定さは幼少児のトラウマが原因だという設定であれば、小早川夫人の責任は多少は免除されるのだろうか。

妻が不安定だからといって、何をしてもいいわけではない。安易に他の女に避難所を求めていいわけではない。ましてや子どもがいるのだから、少なくとも、子どもが成人するまで待つべきだとの意見が多いようだ。妻の問題に対して、小早川さんはもっと全面的なコミットが必要だった。

好きな人に出会ってしまうのは運命であり、あるいは交通事故のようなものであり、どうしようもないことであると言い張る人もいるし、そんなのはわがままだという人もいる。どちらが真実とも言えないだろうとの意見もある。場合によるだろうと。そうだろうか。
個人的にはわがままだと思う。傷つく人がどんなに多いか、考えなければならない。何人の心から血が流れるか、感じなければならない。何人の心が仮死状態になるか、考えなければならない。

多くの人を傷つけて手に入れる幸福とは何だろう。しみじみとした幸せを感じる瞬間など来るのだろうか。そんなはずはない。

藤木直人のような人が10年も思い続けていたとして、それよりも、最近出会った小早川さんがいいとは、あり得ることだろうか。ドラマだからありとして、現実のあれこれを考えれば、多くの人は藤木さんを選ぶだろう。それが幸せというものである。

恋はどうしようもないものという柴門的テーゼも、最近ではなんだか色あせて思える。
それよりも、愛を育てる相手は誰なのか、見分けることではないか。

盆栽を育てるみたいに、手間暇かけて、愛を育てるのである。

愛は育つ。

「花には水を 妻には愛を」という。

柴門ふみ原作の本やドラマは好きだった。
東京ラブストーリー」ではサトミに対しての反感に賛成した。
あすなろ白書」では「カケイ君じゃなきゃだめなの」と石田ひかりが言い、「俺じゃだめか」とキムタクが言った。これが「恋はどうしようもないもの」という柴門的テーゼである。
「Age35」も記憶にある。田中美佐子は子どものために結婚生活を続け、そのあと、瀬戸朝香が未婚の母を解消できたのだと思う。
今回のドラマは、パス。