手元に斉藤由貴「運命の女」(平成2年)がある。「運命の女」、「雲のため息」、「マイ・シークレット・ラヴ」の三編が収録されている。
内容は、女たちが日記にも書き、ラヴレターにも書くようなことでもあり、しかしまた、そこには独自の精神構造が立体的に印象的に表出されているようでもある。
p.31より
「俺ばっかりに言わせて
お前はちっとも逢いたいと言わない
だなんて
そんなこと簡単に口に出せる分だけ
あなたはこの恋に捕まっていないのだ
逢いたいと口にすることすら
苦しくなってしまった
私は今 自分で自分がよく分からない
一体これからどうしたらいいのか
よく分からない
あきらめのように あなたを愛しています」
目もくらむような恋の陶酔の中で、自分の寄る辺なさ(helplessness)を自覚せざるを得ない。歓喜はそのまま苦渋であり、諦観に連なる。そのような構造。
p.102
「不幸とは知ってしまうことだ
(中略)
そしてある種類に属する人間達にとって
それは致命的な判決だ」
p.103
「私は知っている
(中略)
どんなに誠意をもって他人に接しても
決して隠しおおせない
そんな孤独があることを
絶対に逃げられない
自分という鳥籠
その自分の身体の中から発する
秘やかに微妙な臭気があること
永遠に消えてはくれない
臭気があることを。」
その「微妙な臭気」が否応もなく人を恋に引きずり込んでしまう、そのような現場。そしてここでも、恋の喜びと二重写しに、「不幸」「致命的判決」「隠しおおせない」と語る。恋は運命であり自己発見であるが、その発見の内容は行き止まりのようだ。深く恋するとはそのようなものかもしれない。
p.120
「(略)それだけは間違えたくない。(略)環境や常識の中でどんなに苦しい恋だとしても、あまりにも似た感性をもった私達が、ある線以上は決して近づく事が出来ない事を知ってしまっていても。
この想いがわきおこる以上、ひたすらあなたを好きでいつづけるよりしょうがない。
自らの想いから逃れる事はできない。」
部分的かつ恣意的に引用して何か結論を言うものではないが、私としては上記ような精神の構造がやや透けて見えて興味深かった。常識と妥協できず困惑し、結果として運命に身を任せるしかない女がいる。
被動感に捕らわれていると言ってもいい。能動感がうっすらと失われている。結果として寄る辺なさとなり、諦観となる。しかし我々の能動感は実は錯覚だと私は考えているので、考え果てた末にはここに表現されている被動感がやはり否応もなく感じられてしまうのだと思う。これはこの本の筆者の特性ではあるが、深く物事を感じる人はそこにたどり着かざるを得ないものだろうと考えている。わたしは運命という言葉をそのように考えている。