3576-3600

3576
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・神が全能でもなく公正でもなければ、道徳的に従順でいれば神の報奨がもらえるという打算を抜きにして、純粋な愛故に神に従い、道徳的になれる。かりに、神がお返しに愛してくれなくても、人は神を愛することができる。
●なるほど。
・ヨブは神を公平という概念を超えた存在と見る。
・善に対してではなく忠誠心に対して報奨を与える物騒な古代の王。道徳的に欠けるところのないヨブを、忠誠心を確かめるためだけに苦しめ、最後にはたっぷりと報奨を与えて、゛うめあわせ゛をする。これが古いヨブの民話。
●善や公平は、神を超える法ではない。神はそれらを超越している。
●その神が公平だから信じるのではない。
●こうして愛の神の観念が発生するのか。愛の放射源としての神。
・ヨブは、神との間に裁定人がいてくれればと願う。神が神自身について説明しなければならなくなるような。しかしそれはできない。相手は神だから。
・ヨブは言う、「わたしたちは公平など期待できない、理不尽な世界に住んでいる。神は確かに存在する。しかし、正義や善という限界に縛られない存在なのだ。」
心理療法家は、愛を伝えればそれでいい。裁くことも、世の中に公平を徹底させることも役目ではない。しかし、そうしたことは密接に関係していて、単純に区別できるものではないけれど。
●神から発する愛を患者にも伝える。
・正しい人にも不幸が降りかかる。しかしそれは神の意志によるものではない。神は全能ではない。これがヨブ記の作者の意図であると思う。神は全能であるという信念を放棄しようとしている。

3577
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・公平な神がいれば心は安まる。人生はずっと楽になる。しかしこのような慰めは、無実の人の犠牲の問題を曖昧にしてはじめて、慰めとして働く。わたしたちがヨブであったなら、このような世界や神を信じることはできない。
・神が正義の神であり力の神でないとしたら、わたしたちの上に不幸が訪れたときでも、神はやはりわたしたちの味方である。神は知ってくれている。不運や不幸は神のなさることではない。だから、わたしたちは神に救いを求めることができる。
●なるほど。
・わたしたちの問いは、「神様、なぜあなたはわたしをこんな目に遭わせるのですか?」というヨブの問いではなく、「神様、わたしのこの有り様を見て下さい。助けて下さいますか?」という問いとなる。わたしたちは裁きや赦し、報いや処罰ではなく、力と慰めを求めて、神に向かう。
●そして神の救いは隣人を通してあらわれる。それが愛である。
・聖書が語っているのは、なぜその人が不幸になったかではなく、不幸な人を特に擁護する神である。
●この延長線上に福祉国家があり、社会活力の衰退があるのだろうか?そうではない?
・神に対して抗議することなく、降りかかった出来事に対して怒る。
●なるほど、不幸が神の不信につながる、ドストエフスキーのようなことにならなくて済む。
・何の理由もなく何かが起こる、この宇宙はでたらめだという考え。これを受け入れることができるか?

3578
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
地震や事故は神の意志ではなく、神もそのことで怒ったり悲しんだりしている。
・ミルトン・スタインバーグが「神の創られし神殿のいまだ取り払われざる足場」と呼んだ悪。これからも存在し続けるのか。悪の消滅はこれから時間をかけて達成されるのか。あるいは神はもうすでに役割を終えているのか。これからますます混沌が世界を支配するのか。
地震は神の行為ではない。神の行為とは、地震が去った後で生活を立て直そうとする人々の勇気のことであり、被災者を助けるために自分にできることをしようと立ち上がる人々のことである。
・不幸に見舞われて、「いったいわたしがどんな悪いことをしたというのか?」というのは間違った問いかけである。「こうなったいま、何をなすべきなのか」と問うことが正しい。
・痛みの原因は分からないかもしれないが、痛みの結果については選択できることがある。敵意や妬み、あるいは豊かな愛情。
・ヨブが必要としていたのは、同情と思いやり、自分は悪い人間ではないのだという確信、そして優しい友人。
・ヨブは、自分の身に降りかかった災難は、恐ろしく不公平な出来事なのだと誰かに言ってもらいたい。頭脳と精神を強く保つための助けを必要としている。
・自分のせいではない苦痛に苛まれている人に、神は強さと勇気を与えてくれる。
・本能をコントロールすることができる。人間であるということの本質。
●こういえば、一般人は喜ぶだろうか。

3579
生きる感覚、生きる規範の違う人間がいる。何種類くらいいるものだろうか。

3580
現代社会を効率優先主義だと非難してみても、空しい。それはすっぱいブドウである。
「効率のレベル」が多様にある。

マスコミのばかげた騒ぎにつきあうことは空しい。知識人や文化人といわれる人の提示している知識や文化とはいかなるものであるか。テレビに映る馬鹿騒ぎとかわらない。

ではわたしはこの世で何をなすか。この問いは残る。

3581
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・どんな不幸な子供時代を過ごしたとしても、全ての成人は自分の人生を選んでいく自由を持っていると主張したい。
●過去が現在を縛る説への反発。これも耳障りはいい。しかしどうだろうか?
・創造し支配する神と、苦悩する神と。
・「わたしたちこそ、わたしたちの人生について神に責任を負っているのだ」「神に仕えるために、神の命令に従うために、わたしたちはこの地上に生きている」
●人はなぜ神という「装置」を必要とするのか。順位性社会を営むにあたって、現世の最高順位のさらに上にあるものを想定したくなる。それはありそうなことではないか?
・ヨブが本当に求めていたのは、神学ではなく、慰めの言葉だった。
●これは大切。医者の心構え。これをメディカルマインドの三本柱の一つとしていいくらいだ。もう二つは科学の心と倫理の心。慰めと科学と倫理。
●科学は真実を求める。科学は方法である。慰めは患者に向けられ、倫理は自分に向けられる。
・ヨブは助言ではなく同情を必要としていた。苦しみを分かち持ってくれる愛情。誰かが自分の痛みを分かってくれているという実感。
●利害関係のあるときには難しい。また、直接被害を受ける側になると、難しい。
・悲しみに打ちひしがれている人に向かって、何を言えばいいかは難しい問題であるが、何を言ってはいけないかは、少しは簡単だ。
●悲しみをストレートに表現するということは、周囲の人にとっては、迷惑なことがある。みんな面倒くさいのである。それでも悲しみを分かち合うとすれば、同情心が深いか、同情を見せないとすれば村八分になりそうな雲行きだと察知したときである。権力関係がここにある。

3582
垂直に掘られた海中トンネルのようなものを想像してみる。深い方が悲しみ、浅い方が喜びとする。まわりの景色は過去と未来である。やはり深いところには悲しみがあり、浅いところには喜びがある。
さて、いまが悲しいとしたら、海底深く沈んでしまい、まわりを見渡しても、過去と未来の悲しい部分だけが見える。これがうつの際の、うつ場面選択想起である。逆に、いまが楽しければ、過去と未来の楽しい部分だけが見える。
楽しい場面が見えた方が気持ちは楽であるが、どちらも歪んだ認知である。
垂直に掘られた現在というトンネルから抜けて、自分と現在・過去・未来を眺望する視点が必要である。

人間の記憶は「気分」をキーワードに整理されて格納されている。だから、ある気分の時に過去の似た気分の時の記憶が再生される傾向がある。それは、そのようにして、その気分の時の行動パターンを再生するためである。いちいち考えなくても、似た気分の時の行動や思考が再生されるから便利である。

3583
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・責めないで抱きしめてくれる友が必要。
●この人は責められたのだろうか。彼は神と自分を責める。まわりの人の一部は彼を責める。まさに二重、三重の不幸である。
・そばにいて、耳を傾けること。
・「まったくひどい話だ。どうやって耐えたらいいか、想像もつかない。」そして無言のままそばにいる。
・1)全てのことには原因がある。2)起こったことの原因はわたしにある。この二つの傾向が人間にはあり、結局、悪いことの責任は自分にあると考えがちである。
・赤ん坊の場合、何かを望めがかなえられる。全能感。この傾向から抜け出せない人がいる。
●社会という、人間にとっての現実を行き始める必要がある。社会化。それはつまり、取引をするということだ。何かを我慢して、何かの利益を手に入れること。我慢はしないで利益を手に入れようとするのは社会化ができていない子供である。
・自分の病気や孤独を盾に取ったり、子供の持っている後ろめたさに働きかけて、子供の注意を何としても自分に向けようとすることもある。
・子供たちの幸せのために自分を犠牲にしてきたと言いたてて、一生かかっても償いきれないほどの負い目を子供に与えるユダヤ人の母が、文学作品の中に、お決まりの母親像として登場する。ユダヤ人の母は電球を取り替えない。「わたしのことは心配しないで、行って楽しんでいらっしゃい。わたしはこのまま、真っ暗ななかに座っていてだいじょうぶですから。」

3584
竹内君
・君にとって他者とは何か。夢の中に、君にとっての重要人物が登場して物語が進行するまで。
・この世で欲しいものはもうないという。君は何を与えたか、考えてほしい。大切な人に、何を与えたか。この世界に何を与えたか。
・誰かを幸せにしようではないか。まわりの人たちを幸せにしよう。愛する人を幸せにすることで、人はどれだけ幸せになれるか、試してみないか?
・この世界を十分に味わったか?
・父と母。思い出は辛いかもしれない。しかし、人間の記憶は、現在の気分をキーワードにして再生される。現在を幸せにしよう。
・弟と母。君の家は二子山部屋と同じだ。跡継ぎとしての自分。しかし自分より優秀な弟。まず第一に、君は実際自由だということを思いだしてはとうか。
・どの治療者も君を投げ出した。父母も君を投げ出したかもしれない。しかし少なくともわたしは投げ出さない。君が人生をよりよいものにしようとする限り、そばにいて協力する。
・しかしわたしが生きるのではない。君の人生は君が生きる。わたしが君の山に登っても意味がない。方法も君の方法でやるしかない。わたしはわたしの方法を紹介することもしない。そんなのは素人療法である。君が、本来の君の生き方を十分に生きられるように、援助する。それまでわたしは君を見捨てない。
・人は他人のことは分からないと言う。厳密な意味ではそうだろう。そこに君の絶望の表現がある。しかしそれでも、わたしは君のそばにいて、君の話に耳を傾けたい。真の意味での対話を試みたい。時間はかかるだろうが、君を批判したり診断したりするのではなく、君を理解するために、君のそばにいて耳を傾けたい。

3585
空想的(誇大的)自我と現実自我の落差
それが彼女の課題

なぜ現実をあるがままに受け入れられないか
あるがままの現実はつまらない。つまらなすぎる。これが理由?しかしそう感じているとすれば、ある種の鈍感さ、盲目があると思う。

良い現実ならば受け入れられる。しかし悪い現実ならば、空想との間で、どちらを採るか、選択の余地が生じるのではないか。一種の「利得」である。

3586
内科医師も抗不安薬抗うつ剤を使う。しかし効き目が違うように思う。
つまりは心理療法部分の違いであろう。医者も心構えが違う。
患者としても、心療内科に来れば、それなりの「覚悟」ができるのではないか?

3587
学校では落ちこぼれ、家では王様。あるいは、心身症を出していれば、落ちこぼれから特別扱いの人間に昇格できる。
家ではぬるま湯、社会は冷たい水。
これでは社会に出ていけないはずである。

空想的なことばかり言っている子どももいる。
プロスポーツ選手になるとか、音楽関係をやりたいとか。現実を経験していない。だから現実がわからず空想が肥大する。だからこそ、現実に触れればとても大きく傷つく。
現実を分からせるのが親の役目である。
親は子の現実機能を育てないといけない。

子育ては、子を引っ張るのではなく、子が自分で伸びようとするのを見守ることである。双葉を引っ張ってはいけない。

3588
「くよくよするなといわれてもくよくよしてしまう人のために」北西憲二
・価値規範が明確でない現代では、他人の思惑を推定し先取りすることで価値規範とする。推定には曖昧さがつきまとう。そこで対人恐怖他の病理が多発する。他人が望んでいるであろう自分の姿に合わせる。
・どうしようもない問題はない。「ねばならない」に縛られているからそう思うのである。とらわれから逃れて、あるがままを受け入れればよい。
・子どもは、他人の期待に応える生き方をしている。できる子、いい子、など。生活感覚が欠けている。現実が欠落しているので、空想が肥大する。肥大した空想は現実とぶつかると、傷つきが大きく、落ち込んでしまう。あるいは「キレル」。自分に対するイメージの振れ幅が激しい。合わせなくてはいけないと思っているものは、実は張りぼてのような中味のないものである。実体のないものに自分を合わせていこうとしている。些細なことで落ち込み、傷つき、怒り、不安になる。
●現実を生き、知り、受け入れ、いいものだと思うことが処方箋。
●現実よりも、空想を生きた方がいいと判断している。なぜか?さほど苦しい現実でもないのに。

3589
精神医療の現場での絶望。
治らない。
話が通じない。曲解される。被害的に受け取られる。
性格障害者に嫌な思いをさせられる。

どうしようもない。

3590
マスコミで流れる断片的な情報。部分から全体を空想的に組み立てる癖のある人、論理力の弱い人などは、すぐに妄想的、誇大的、被害的、完璧主義的になり、現実とは関係のない世界を作り上げる。
このような精神的状況を助長しているのが、マスコミである。虚像を売る産業である。人々は自分の体験から物事を考えることをやめる。権威ある人が何かをいえば、それを信じる。ただそれだけ。権威ある人であるマスコミはすべてを説明してくれないから、また、商売のために活動しているから、人々は踊らされる。

3591
登校拒否時を「安易に」休ませる態度。
患者の弁護士としての立場。社会正義の立場。社会維持を大切と考える立場。
個人で開業しているのだから、このあたりに関しても自由でありたい。
弁護士の立場。これは採らない。患者の利益のために、詭弁に近い論理構成までして、ことにあたるのはわたしは好まない。しかし、患者の状態を見誤っていたとしたら、その上に立ち判断は患者を苦しめる場合がある。だから、必ずもう一人の専門医の判断を仰ぐようにする。
社会の利益や社会正義を優先する立場。しかしこれも好まない。わたしは警察でもない。
公正を代表しようとも思わない。
その場その場でベストの選択をする。その際に、単純で誰にも共有できる判断基準があるとは限らない。

NTTでの経験からいえば、やはり社会にも会社にも寄生虫はいる。

子どもを甘やかす結果になるのか?保健室登校を認めるのは、かえって学校軽視につながるのではないか?そのような疑問はもっともである。

3592
好かれる人と嫌われる人。
好かれる人は、保険料を払って暮らしているようなものだ。保険料は負担になるが、安心はできる。共同体的存在。
嫌われる人は、保険料を払わなくてもいい。その代わり、危機にはとても辛い思いをする。

3593
心療内科治療の類型。

病態水準として神経症型。その類型として、以下のタイプがある。
まず心理が原因になるものと結果になるものがある。
1 心因型。心因を軽減する。
2 心配が現実の困難を何倍にもしているタイプ。心配を取り除いて、正味の困難にまで縮小する。
3 性格因型。

病態水準として精神病型。
4 分裂病型。
5 うつ病型。
6 未分化型。

子どもの場合には発達途上の特有の病態を見せる。

3594
典型的性格障害。自分で必要な努力をしないのに、結果だけは求め、得られないとなると他罰的になる。

このタイプの人は心因論他責型として説明されることを好む。
器質性と診断されるのは辛い。心因としても、自分の性格が悪いと診断されるのは辛い。自分は悪くなくて、誰かに責任があり、自分はむしろ被害者であると診断してくれれば嬉しいに決まっている。そのように図々しいことを求めてなお反省もしないのが、このタイプの性格障害である。

地道に努力しないで、それでも幸せにしろと人に要求する。

3595
心療内科では話は通じる。しかし、結局マイルドな精神病なのかもしれない。

3596
感情と記憶
・両者とも海馬に関係している。
・出来事の記憶は、感情というマーカーがつけられて、整理収納される。再生しようとして検索するときは、感情がキーワードになる。また例えば、香りや光などの類似が手がかりになることもある。
・例えていえば、ビルのようなもの。各階はそれぞれの感情に相当する(喜怒哀楽)。記憶は感情をつけて整理され、その感情の階に収納される。その階で降りると、まわりの景色はその感情に分類されたものばかりが集められている。
・そこで、うつの気分の場合にはうつの場面が選択的に想起される。
・分類の細かさには個人差がある。若い人は、ムカック、キレル、カワイイ、程度で分類される。これでは現代生活を生きる体験を整理するのには足りないだろう。不安や葛藤の処理がうまくできないだろう。
・情動はなぜ必要か。新たに類似の場面にぶつかったときに、過去の行動パターンを呼び起こすマーカーとして有効である。検索のキーワードである。キーワードが少ないと検索がうまくいかず、混乱する。葛藤処理がうまくいかなくなる。
・健康な自我は、ビルのエレベーターをある程度自由に行き来できる。病的状態では、身動きがとれなくなる。その階(その感情)に固定されてしまい、同じ景色しか見えなくなる。
・別の景色・別の階に行く方法が、自律訓練法である。また、一つの階しか見えなかったものが、いくつかの階が同時に見えるようになる、それが自律訓練法で達成されるもう一つの目標である。
・とらわれがある。一つの感情状態に縛られてしまう。スムースに移動ができない。一種の視野狭窄。これを解除するのが成長である。治療である。
・現在を変えれば、過去も未来も変わる。これは希望のもてる理論である。そして実際にそうだと思う。

3597
分裂病者は、自分の病気を正確に認識していない。さらに薬を拒む。なぜだろうか。
病識欠如は昔から指摘されている。病識形成に関係した部分を病気は侵しているのだと推定できる。現実把握の仕方の障害。自然な論理の障害。
薬に関しては何が言われているだろうか?
単なる薬嫌いとも思えない。眠気や怠さがいやだからとも思えない。リーゼさえいやだという。神経症やパニックの人たちは薬をありがたがる。分裂病者の拒薬にはもっと深い理由がありそうである。

独特の頑固さ、話の通じにくさがこの頃は目立つ。

3598
たとえば音楽を要約することはできない。音楽は体験である。時間の流れに沿って、体験する。
物語は体験を与える。二つか三つの認識に要約することはできない。

3599
「わたしが守らないとあの子はだめになる。」
その裏側にあるメッセージは、
「いつまでも保護を求める子でいてほしい。そうすればわたしの役目があってとても満足。求められるわたしでいられる。」

親子の中にある共依存

3600
「なぜわたしだけが苦しむのか」 H.S.クシュナー
・説教するのではなく、「君の力になりたい」と伝える。
・痛みを感じたときに怒りを感じるというのは、本能的な反応のようだ。
・怒りの処理。愛する者を怒ってはいけない、神に対して怒りを抱いてはいけない、そんな風にしていると、怒りの処理ができなくなる。その結果人生を壊していく場合がある。神を怒るよりも、状況に対して怒るようにすればよい。
・嫉妬。大人になっても、自分が人よりも多く愛されているという確証を求め続ける人がいる。親の愛の獲得合戦の延長。
・神はわたしよりあの人を愛しているのだと思う。
●運のいい人、幸せな人に対して、嫉妬する。
・祈りによって奇跡的に癒された物語。しかし現実に癒されない子供はどう感じるか?神には癒す力はあるのだが、君のためにはその力を使ってくれない。神を憎めと教えるのに、これ以上のやり方はない。
●不運な人を如何に癒すことができるか。
・憎みあっている二人の店主の話。「神様はあなたの望むものは何でも与える。ただし、あなたの競争相手はあなたの二倍を得ることになる。金でも長生きでも。有名になることでも、素晴らしい子供でも。」彼は少し考えてから、「わたしの片方の目を見えなくして下さい」と答えた。
・祈りは人と人とを結び合わせる。
・宗教儀式は、結婚や死をいかにして隣人と分かち合うかを教えている。たった一人でそれに直面しないですむ。
●その意味で共同体の価値は再認識されるべきだろう。