こころの辞典2001-2100

2001
離人症
少なくとも、脱相貌化と自我障害という異なる系統があると考えられる。

2002
学校や病院を抑圧の装置と考えることができる。精神療法でいう、枠付けである。治療構造である。その枠・構造を内在化することで、人格は社会化し成熟してゆくと考えられる。
問題は、集団が相手だという点である。ある程度の抑圧が、ある人にとっては強すぎるし、ある人にとっては弱すぎる。人によって抑圧の強弱をかえることは技術として難しい。結果として弱い人は耐え忍ぶ場所になり、強い人にはやりたい放題の場所になる。管理する側にセンスがあるかどうかである。
海道病院の場合、患者のわがままには大きな幅があるので難しい。
学校の場合は、おおむねが標準的な範囲に収まるが、飛び抜けた子供がまれに見られるだろう。そのような場合には、排除するしか方法がない。そんな子供も抱え込んで集団を運営することは実際には難しいだろう。
どの程度の抑圧がなぜ教育的で治療的なのか、自覚すること。
集団を構成するときの条件付けが大切。どんな人でも受け入れて運営してゆくほどの技術はたいていの場合に、ない。

2003
「せめて普通の病院になろう」の間違い
しかし、偏差値40の子供に、「せめて偏差値50になろう。それで普通なんだからできるはずだ」と説得するのは間違っている。病院でも同じではないか。

2004
茅ヶ崎中央病院の場合のように、系列内に多くの施設を抱えているとき、患者さんを次にどちらに移すかの判断を誰がするか、そのための情報はどのように整えるか、そうした問題が発生する。
さらにそのシステムを地域医療全体に広げられる可能性がある。その場合、先行して開発していれば、自分達にある程度利益を誘導できる。患者さんの利益を考えて、どのように決定するかのシステムの内容を知っていれば、それにあわせて、自分達の施設の内容を整えることができる。それは違法ではなく、あくまでも患者の利益のためであり、情報を握っているものが勝つというだけのことだ。マイクロソフト社のようなものである。

2005
アストロセラピー
星を眺める。地球の自分が小さく思える。悩みも小さく思える。生きていることの原初の意味に立ち返ることができる。生きているだけで素晴らしいのだと思える。星を見ることが、うつ病者の認知の偏りを和らげることができる。

2006
どぶ板政治家とどぶ板医者
看護婦が求めているのは、現場の小さな問題をこまめに解決してくれる医者である。有権者が求めるどぶ板政治家と同じ。しかし、病院内の小さな問題も、大きな問題と連動しているのだとなぜ理解できないか。そこに現場の人間の限界がある。

2007
著作計画
精神科医療の問題点
・精神医学教科書
・抜き書きからのメッセージ
・日記からのメッセージ
以上で四冊は書けると思う。この仕事がいま本当に自分のやりたいことではないか。

2008
表面的な事態の一致から、「モラトリアム状態」「アイデンティティの問題」などと片付けていたのでは、実は何も理解したことにはならない。愚かなことであるが、その程度の愚かな人にはちょうどよいおもちゃである。

2009
精神科医が世間の常識や規範を患者に押しつけていたのでは仕事にならない。あるいは、いい仕事はできない。
しかしまた一方で、世間の常識を度外視してばかりいたのでは仕事にならない。竜宮城の管理人になってしまう。
二つの態度の柔軟かつ適切な混合が大切であるが、難しい。

2010
静的了解と発生的了解
例えば、「いま胃が痛いから気分が憂うつ」と理解すれば静的了解。「昔○○があって、そのせいでいま××」と理解すれば発生的了解。
しかし、「向かし○○があって」と語っている人の心の中には、いま現在そのことがある。つまり、「胃の痛み」と同じように「昔の○○」が心にある。これは静的了解といえる。
また、「いま胃が痛い」との事実にしても、胃の痛みと憂うつな気分は同時発生ではないだろう。胃の痛みがあって、次第に憂うつになり、そのことであれこれ考え始め、さらに憂うつな気分になり、といった「発生過程」があったと考えてよいのではないだろうか。これは発生的了解といえる。胃の痛みと憂うつな気分が完全に同時ということはないはずで、かならず時間の流れが生じる。それが幼児体験と現在の症状という程度に離れているか、午前から始まり現在も続く痛みという程度に近接しているかの違いしかない。

2011
概念の明確化
日常言語でいう「憂うつ」から、精神医学的記述としての「憂うつ」へ、概念を洗練し明確化する。
言葉の意味内容に敏感であること。患者の語る言葉の真意がどのあたりにあるのかを繊細に感受すること。自分の使う言葉の意味の輪郭を感じること。
こうした営みの上に精神病理学は建てられる。

2012
「世界」の記事。野田正彰が「戦争と罪責」と題して書いている。第二次大戦中、軍医は中国で人体実験や生身の人体での手術演習を行った。湯浅中尉が反省を出版した。野田によれば、医学会はこうしたことの反省を真剣にしていないし、現在でも同質の過ちを再生産している。それがエイズ事件などにあらわれている。
その当時、軍の命令で執行した軍医達は、何の反省もなく人体実験をした。「させられた」「仕方がなかった」「個人としてはどうしようもなかった」と弁解する。
こうした指摘は、現在の我々にもあてはまる。とくに精神科医療は反省点が多いと感じる。それでも、これで仕方がないと考えたり、自分の力ではどうしようもないのだと考えたり、戦争中と同じ構図である。
精神医療が改善されたときに、懺悔の手記があらわれて、戦時の行為に対する現在の反省と同様なことが行われるのだろう。無自覚な人間だけが丸々と太るのである。

2013
患者に社会規範を押しつけることを自分の仕事だと無意識のうちに思っていないか。錯覚である。
しかしこのあたりの感覚が難しい。中庸の道があるのだ。どちらにも目配りしつつ、進む道があるのだ。中庸といってもいいし、止揚といってもいい。高次の次元で統合・両立させるのである。

2014
意識状態、認知(狂気)、知能、これら三軸くらいを考えて、病態を統一的に検討することはできないか。

2015
ACは結局、微細脳障害である
たとえば、鼻穴が一つしかない人は、酸素不足に敏感になる。通常の人間が平気な程度の酸素不足にも反応して症状を呈する。
家族関係や生育環境の不全、家族機能不全などを言ってはいるが、結局根底には脳の器質的障害があるのだろうと思う。たいていの人間はそこまでの症状は呈さない。むかついたり落ち込んだりしても、ほどほどの程度でおさまるものだ。原因としての環境は同じでも症状が違うとすれば、体質の問題である。
家族がどうしたとか言って納得しようとしていること自体、症状であるとも考えられる。「驚くほどみんな同じことを言う。たとえばドーナツみたいな家族」などというが、それが原因だから同じことを言うのではなくて、症状だから同じことを言うのではないか。
自責を解除して他責でいいのだと決定することによって自分は落ちつく。そのような適応自体が病的である。

2016
価値単線化の病理
極端に言えば、家族ごとの幻想があって、家族ごとの価値体系があってよい。それほど家族のあり方はさまざまである。いろいろな人がいるのだから。それが現実だ。
子どもは親の遺伝子を受け継いでいるのだから、親の流儀はどこかしっくりくるところがあるのではないか。
自分たちの体質にあった価値観を上手に持ち続けることが必要であると思う。
青年期になったら家族から巣立って行けばよい。仲間とつきあい、新しい家族をつくる。そこでは自分なりに満足できる生活スタイルをとればよい。
それをマスコミが中央集権的に統一しようとするのは無理というものだ。商業主義はマスで売った方が儲かるから、家族のあり方の一つのパターンを時代の価値として押しつけようとする。人々は自分に自信がないから、マスコミの宣伝する家族像や人間像をまるまま取り込もうとする。
昔なら他人の家や他人の心の中など知らなくてすんだものが、現代では他人がマスコミに乗って登場し、そうした幻像に応接しなくてはならない。
マスコミの中に登場する家族像など嘘なのだと知ることだ。テレビに出てくる家族は生活していないのだ。家族についての実現不可能な「ねばならない」を押しつけているとすれば、問題は小さくない。

2017
病棟で、看護のレベルが低すぎる。病院全体の機能レベルが低すぎる。人の命をあずかる場所がこれでいいはずがないではないか。たとえば老人が人生の最後を過ごす場所とはとても思えない。自分が人生の終わりにこのような処遇を受けると想像してみるだけで嫌悪が走る。
いまから二十年くらいたって、真の豊かな社会になっていたとしたら、病院こそ大きく変わっているだろう。特に精神科医療は根本的な改善が必要である。
たとえば、触法患者や性格障害者と傷つきやすいタイプの分裂病者を同じ空間に鍵をかけて閉じ込めて処遇するなど、ほとんど犯罪に近い。
たとえば戦時中に軍医が中国人に対して人体実験を行って、人間としての恐怖を感じなかったこと。それと同型のことが精神病院で行われている。もし自分が精神病になってこのような処遇を受けたとしたらどうだろうかと想像力を働かせてみることがないのだろうか。そのような反省を封じ込めてきたのが戦争という状況であったと説明され、罪は免罪される。同じことが精神科医療についても繰り返されるのだろうか。それが反省のなさというものだ。患者の苦しみならば医療関係者はいくらでも我慢できる。他人の苦しみだ。そんなことでいいのだろうか?
どこか不誠実で、ふざけていて、金にまみれている。劣悪である。本気で考えていないのだ。本気になればいますぐにでもいろいろなことがしてあげられる。国が分かっていないからと居直るのはやさしいが、その国というものは結局我々自身である。なぜ本気にならないか。他人事だからだ。
精神的に具合が悪いのだから、個室でケアして欲しい。当たり前である。いじめっ子や変な人、触法患者と一緒の処遇をしないで欲しい。風呂も清潔を保つのに充分な程度であって欲しい。すぐにでもできる工夫がいっぱいある。それをしないのはなぜなのか。
人間はそんな程度のいいもんじゃありません、自分のためなら人を食い物にして平気なものです、そんなことも分かりませんか、といったようなことをいう人たちもまた一定数いる。それも人間の必然であると理解している。厳しい人生を強いられている人はいるのだ。そのような人には愛を伝えるべきだ。この世に生きて、そのような人生観しか持てないのは不幸である。そしてそのことは本人の責任ではない。

2018
社会ではなく、評価を気にする個人が、一元的な価値しか持っていないのだ。
ACについての論考では、画一的な価値観、偏差値で人間を一元的に評価する社会などといった論点が提出されている。確かに、人間という多面的なものをそのように一元的に評価するのは間違いである。しかし、それは評価を受けとめる側の問題でもあるとは考えられないだろうか。一元的で浅薄な評価をされたとして、それがその個人の生きにくさにつながるのだろうか?そのように評価することしか知らない人はかわいそうではあるが、そのような評価をされたからといって、それがどうして生きにくさにつながるのだろうか?結局、評価される側にもそうした一元的な尺度しかないから息苦しくなるのだろう。
社会の側の問題ではなく、受け取る個人の側の問題である。受け取る個人の集合が社会であると考えれば、はじめて社会の問題となるけれども。
そもそも、猿の社会のころから、社会はピラミッド型の構造をとる。縄張りから餌の確保、配偶者選択まで、序列社会が基本である。水平型社会など思考上の幻想であると言ってもよいかも知れない。序列社会は効率が良くて、競争力があり、強いのである。もちろん、水平型社会の良さもあるし、そのような社会構成をとっていた生物が人間の直接の祖先であった可能性も否定はできないだろう。しかしおそらく人間社会の原則は序列社会であった。マウンティングの儀式で優劣を確認しあう社会であった。非常に一元的である。その価値判断の基準がとりあえず偏差値である。時代が変われば金であり、家柄であり、身長であり、体重であり、耳の長さであり、声の大きさであり、などなどいろいろある。
そうしたものはいつでもある。しかし時代の特有の息苦しさは何かという問題は残る。豊かになったため、関心が移動しているということだろう。かつては生物学的に生きるか死ぬかが戦いであった。食料を求めた。現在は満腹した上で、心理的に対人関係の上で満たされたいと願う。
しかしそのようなスキルに欠けた人間が一定数いるということに人々はまだ気付いていない。

2019
一元的価値観を受け入れがたいということは、つまりは家庭にいるときのように、社会でも特にとりえがなくても尊重されたいという無理な要求である。家庭内でなら許されたことも社会では許されない。それだけの簡単なことが受け入れられないほど、未熟なのだ。
逆に、家庭でもいつまでも息子または娘だというだけで尊重される理由はない。生物学的なかわいさをなくしたら、経済的に尊重される理由をなくしたら、いつでもただの家族の一員になる。それで当たり前である。いつまでも特権的な立場にいられるわけではない。いつまでも特権を保持しようとすれば大きな無理が生じる。

2020
一元的な価値観からの敗者復活戦はある。
サブグループを作って、その中でさらに優劣を競う。異なる価値基準のサブグループを複数持っていればよい。
複数の価値基準とは、複数の所属集団のことでもある。
さらにまた、グループ内部で自分が勝たなくても、誰かまたは集団を拡大自我として設定すれば、充分な満足が得られる。たとえばジャイアンツの勝利を自分のことのように喜ぶ。

2021
精神科入院患者は現実把握が悪く、誇大的な傾向がある。入院していると「なぜ退院させないか、わたしは何でもできるのに」と退院を要求する。現実には入院生活以外は不可能である。
精神科医師は現実把握が悪く、誇大的な傾向がある。「精神科医をやめて、内科医になる」と転向をいつも考えている。現実には精神科医以外の仕事はできなくなってしまっている。
精神科看護婦は現実把握が悪く、誇大的な傾向がある。「精神科はやめて、内科に行こう」と転向を考えている。しかし現実には精神科看護以外の仕事はできなくなってしまっている。
精神科患者、精神科医、精神科看護者、これらの人々は他の場所では生きていけない点で共通している。

2022
薬剤抵抗性の結核菌が発見されたと報道されている。仙台の病院での集団感染の原因菌がこれだったという。恐ろしい。免疫力に自信のない人は病院に近づくなということになる。
精神科医療における心理的感染がやはり問題であろうと思う。心理的不潔さは感染する。

2023
カウンセラーが流行である。
しかし世間はカウンセラーとは何をする人なのか、分かってはいない。そうでなければあれほど愚かな人たちに何を期待するのも無駄だと気付いているはずである。むしろ、心理の専門職の人たちこそ、心理的不潔さの感染源であると知る必要がある。マスコミとカウンセラーはおかしなことを広めている可能性がある。
恐ろしいことである。

2024
認知がずれているから認知療法という。
しかし、認知はできていてもなお感情が一致しないということがあるのではないか?そこに大きな問題があるように感じる。認知療法では十分ではないと感じられるのだが、どうだろうか。
分かってはいるのだが、どうしようもないという場合、認知療法では、結局認知が不十分なのだと割り切る。本当には分かっていないからだと考える。本当に分かっていれば行動も感情も変化するはずだと考える。人間は本当にそのようなものであろうか?

2025
この腐った現実の中で、一番上手に腐ってみせることを目標にすることもできる。腐っている証拠である。

2026
カウンセラーの条件
カウンセラーの条件や資格に関して、生まれつきの資質が大切であると強調されてよいのではないか。
要求されているのは技術(テクニック)というよりは才能またはアートではないか。自動車の運転免許証よりはたとえば絵の才能に似ている。絵は誰でも描ける。しかしうまい絵となれば訓練したところで限界がある。生まれつきのものが必要である。
心理学科で四年間または修士課程まで勉強したということが何を意味するだろうか。自動車の免許を取るための学科試験を通った程度のものであろう。そして、カウンセリングは上手な運転とは質的に異なる何かだろう。
分かる人にははっきりと分かる何かである。しかしそれが何であるか、語り、定義するのは難しい。
志して勉強すればなれるものではないと思う。学問の一分野として居場所が与えられている現状もおかしい。学問でも技能でもなく、何かである。

2027
一人の人間として扱われなかった。
人間扱いされなかった。
こうして非難が患者から噴出することがある。多くは言いがかりである。そのような発言が許されていることが何よりの証拠である。被害妄想ではないか?
しかしこのようにいえば、精神科医療の無謬性に固執していることになるだろうか。
簡単にいって、世の中には腹の底まで腐っている奴がいるのだということだ。

2028
精神分裂病ケアには特有の難しさがある。治療者の人柄も問題になる。
例えば主治医としてかかわって、全員に充分なことができるかといえば、相性とか偶然のいきさつなどがあって、必ずしも全員に充分なことができるわけではない。受け持ち人数が多すぎることも原因であるが、それ以上に、医者患者関係も一種の対人関係であり、したがって相性の問題が大きく影響する。すべての人とうまくいかない人もいないだろうが、すべての人とうまくいく人もいないだろう。人柄があり、相性がある。
したがって、治療に際しては、特に回復期治療に関しては、治療チームを組んであたることが非常に大切である。チームの各成員に対していろいろな人間関係が生じる。そのなかから治療に有効な関係を見いだし、それを利用して有効な治療を進めればよい。さらに患者同士の関係の中から治療に有効な関係を利用することも大切である。そのような治療スタイルを取る場合には、医師はチームリーダーである。医師が個人的に面接をして結果を看護に伝えてそれで終わりという昔のスタイルではどうしても限界がある。急性期鎮静目的の医療であればそれで充分であろうが、回復期の場合にはそれでは不十分である。
自分の個人としての限界をわきまえているからこそ、チームであたり、チーム内のさまざまな個性を生かす方向を考えたい。そのような治療スタイルが合理的であると考えられる。

2029
SSTの一つの問題点
あまりにもマニュアル化され、精神科リハビリテーションの中で要となる、治療の中での人間的なふれあいの大切さが見逃された形で普及し始めている。生活技能自体は獲得されうるのだが、保持される期間は短い。
患者の学ぶ動機付けが大切であり、同時に治療者の教えるための動機付けも大切である。
そのうえで、「いまここで」の人間らしくあたたかで親密な関係を確立することが求められる。相互の治療的な信頼関係を築くことがもっとも大切である。
SSTは患者の自信回復に役立つ。動機付け、肯定的評価、具体的技能の獲得、積極的社会参加へ一歩前進、これらのステップを踏むことになる。自信が回復されれば、それを肯定的に援助してくれたスタッフとの信頼関係は深まる。逆に、SST訓練の途上で困難があっても、スタッフとの信頼関係があれば乗り切ることができるかも知れない。
こうした観点から、SSTに際して、患者治療者間の相互の治療的信頼関係を築くことも本質的に必要で重要である。技能獲得と信頼関係樹立が両立するように工夫する必要がある。
犬の訓練に際してさえも、同様のことがいえるだろう。目的、動機付け、訓練手順、効果、これらが明確になっていて、技能獲得されれば、信頼も生まれ、信頼があれば、技能獲得も容易である。

2030
リバーマンの考え。
精神障害者は、自分達にもっとも欠けているのは、友人、仕事、家族の結びつきであると感じている。それは社会的能力やコミュニケーション能力の欠如により生じている。それは自分にとって大切な人に対して感情を表現したり、関心や欲求を伝達することが苦手であることが原因である。
ここからリバーマンのSSTが発想される。引っ込み思案で自分の考えや要求を他人に伝えられない分裂病者が想定されている。
そこで、主に発信機能の改善に取り組むことになる。

自己主張訓練(セルフアサーティブネス)もこうした発想から生じるのだろう。

わたしは、分裂病者に欠けているのは、状況認知能力であるとまず考える。状況認知が欠けているから、状況に即した柔軟な対応ができない。そこに社会的不適応が生じる。対策としては、「良肢位固定」を考える。状況認知を必要としない対応法法を固定して訓練する。
リバーマンのように発信機能を改善すればよいと考えるのは、伝えるべき感情、関心、欲求の内容に自信が持てなくなっている分裂病者の状況を理解していないと思う。状況認知に欠けた感情や欲求を堂々と表明したとしても、病者に不利に働くばかりであろう。
思考障害の結果生じた、「ビーフが食べたい」との要求を声高に続けたら、嫌われてしまう。それが日本の社会である。
あるいは、障害者アイデンティティで生きてゆくには、その方がいいのかもしれない。要求した方が得だ、それが不適切であっても、障害者だということで大目にみてもらえる。そこまで見越して、いいたいことをはっきり伝える練習をしようというのだろうか。

2031
分裂病とは……症状(陽性、陰性)、経過(シュープ、レベルダウン)
・期別分類と症状、治療法……急性期、回復期(院内リハ)、維持期(地域リハ)→図示
・病棟の患者類別……急性期、回復期、社会的入院……それぞれに応じた処遇
・治療……薬物、リハビリ、SST、療育

2032
クリニックの窓口を訪れる患者さんがどんなに重大な決意を持って門をくぐるか、よく知る必要がある。精神科の医者に「異常だ、病気だ」と認定されることが一人の人間にとってどれほど重大なことであるか、知る必要がある。
その点では、クリニックではない、民間療法や心理相談所、さらには祈祷所を訪れることがあるのも納得できる。
精神科医は恐い。薬などで強制的に治療されるかもしれないし、禁治産など法律的にも何かひどい結果になるかもしれない。なによりも強制入院させられる危険もある。

2033
日本の飲み屋は文化の中に定着したカウンセリングでありリラクゼーションである。
受容的な女性、制度の中で退行が許される場所、夜、暗いところ、金を払っての匿名性、さらにはアルコールという薬物の使用までセットになっている。
受容的カウンセリングでは不十分で薬物を併用することが必要だと知っている。心理療法家もデパスを使う必要があるわけだ。
こうした文化の中でカウンセリングをするには、やはり飲み屋が手本になる。夜開業、診察室というよりは応接室のセットで、しかしある程度の退行や打ち明け話が許されるところ、匿名性が確保できる場所(自費診療にすれば匿名で大丈夫)、カウンセリングは受容で、薬物をセットにする。ただ話だけではなくて何かの「芸」が必要。たとえば手相とかそんなもの。手相ではひどいから、自立訓練法や精神分析、テグ、アロマセラピーなど。

2034
陰性症状原発で、幻覚妄想は二次的なものだとの解釈。
薬剤で消失する類の幻覚妄想は二次性のものに過ぎないのではないか。拘禁反応に似て、分裂病陰性症状がつくり出す一種の「内的拘禁反応」の結果なのではないか。
薬剤で消えない幻覚妄想状態は別の病態であろう(薬剤の何という無力)。
だとすれば、幻覚妄想を標的として神経遮断薬を投与し、結果として「幻覚妄想は消失し、自傷他害のおそれはなく、措置症状は消退した」と報告することの意味もかなり割り引きされるだろう。
陽性症状がなければ自傷他害のおそれはなく、社会の中で生きていける。この点を治療目標にしている。現状では仕方がない。それ以上の治療ができないのだから。

こうして考えてくると、いわゆる「社会的入院」は本当に社会的入院なのか、疑問もある。治っていない。社会の中でストレスにさらされれば、また陽性症状が再燃するだろう。そのような人たちならば、社会的入院というべきではないだろう。

社会的入院」と新たにレッテルを貼って、病院医療から追放し、結果として医療費を削減する。財政的要請に応えるための人権擁護的・人道的な装いとして社会的入院の概念が使用されているだけではないか。こういった論さえ可能であるように思われる。

2035
受容の意味
原疾患があり、そのせいで周囲に理解されず辛い思いをして、不安が高まる。不安のせいで原症状が修飾される。その場合、まず受容して、不安を取り除く。そうすれば原疾患による困難だけになる。そこから治療が始まる。
受容が原疾患に対して治療的であるわけではないと思う。しかし大切なことである。どんな場合にも、理解されず不安が高まり、症状に神経症成分の混入がみられるからだ。
風邪ひきならば、常識的で日常的な体験の範囲内である。精神病の場合のような孤独は経験しなくていい。

2036
分裂病の発生
何か異様なこと(言葉では言えない、世界の変容感)
 → 反応としての陽性症状(たとえば妄想、それは自分を落ちつけるための解釈といえる面がある。たとえば二階から飛び降りた。その行動をうまく説明することができない。推定すれば、させられから妄想的確信までいろいろ考えられる。)
また例えば、内的拘禁反応と考えることもできるのではないか。ある種の認知障害が内的拘禁反応をもたらす。

2037
分裂病における分裂の意味を、思考と感情の分裂と解釈している本もある。それでも良いのだろうか。
連合の解体という点では、思考と感情の分裂もその一つではある。思考と感情の解離については防衛機制の一つとして用語がある。DISSOCIATION(?).
分裂の内容についてはやはり概念の連合の解体という意味であり、それはたとえば風景構成法での、個々のアイテムの無関連に配置された状態として表現される。

2038
陽性症状と陰性症状(北村俊則)
・陽性症状。通常はないはずのものがある症状。現実検討の障害によると考えられる。
?幻覚
?妄想
?思考形式の障害
?著しく奇異な行動
陽性症状の中でも、特に分裂病の診断価値が高いものとして、シュナイダーが一級症状を抽出した。
?幻覚の中でも、会話性幻声、患者の思考や行為にコメントするする幻声
?妄想の中でも、妄想知覚
?作為体験
このほかの陽性症状は特異性が低い。躁うつ病でもみられたりする。

陰性症状。通常あるはずのものがない症状。
?感情平板化
?思考の貧困
?快感消失・非社交性
?意欲の消失
?注意の障害
ブロイラーの4A。感情平板化、思考障害(連合弛緩・支離滅裂)、両価性、自閉(「現実との生ける接触」の消失、現実検討消失)。

2039
統計数字
1987年、精神障害
一日の入院32.7万人、外来8.7万人。
1990年、入院33.9万人、外来11.5万人。外来が増加。
分裂病の入院患者は漸増しているが20万人。
1984年、精神障害総患者数は100.1万人、分裂病は41.6万人。分裂病の半数は入院し、半数は外来治療していることになる。国民の1%が精神障害で、0.4%が分裂病で治療を受けている。
総患者数に占める分裂病患者数は減少の傾向にあり、老年期と器質性の精神障害躁うつ病が増加している。

1992年度の国民医療費は23兆4784億円。前年度7.6%増。精神医療費は1兆3515億円。前年度2.3%増。精神医療費が国民医療費に占める割合は、5.8%である。
1992年の精神医療費の中で分裂病の診療点数は、56%。入院医療費でも、分裂病が60%。外来医療費では26%、神経症躁うつ病とほぼ同じ。患者数の分布と同じ。

1991年の精神病院数は1046。精神病床数は36万床。993機関は私立。精神病床の平均在院日数は452日。長期入院のため患者は高齢化している。
近年の地域医療計画の見直しと社会復帰対策の充実により、精神病床数は頭打ち、平均在院日数はしだいに減少する傾向にある。分裂病入院患者数も、44歳以下では減少または横ばい。

1992年の任意入院60.3%、医療保護入院34.1%、措置入院2.4%、その他3.2%。任意が年々増加、措置は1970年をピークに減少。

2040
愚かな精神科医
経験からいって、精神科医の人間理解が深いとは考えられない。人格や性格についての理論がある分だけ、先入観をもって人を見ているところがある。類型化しすぎて、その人独自の側面を捨象してしまう傾向がある。
類型化してレッテルを貼れば、自分は優位に立ったような気がするのだろう。無理もないことであるが、そのような態度は相手には容易に見破られてしまい、信用されなくなる。
的外れの浅薄な理解を押しつけられるほど嫌なことはないだろう。特に相手は精神的にダメージを受けて医師の前に立っているのである。そんな場合の医師の立場は非常に困難であるはずだ。浅薄な理解ではいけない。しかし深い理解に至るまでと考えて慎重すぎたのでは当座の役に立たない。背反する要求をなんとか両立させる必要がある。深く分かるわけはないけれども、とりあえず安心して帰っていただく。このような難しい要求に応えるのが仕事である。まじめに考えれば至難の業である。
ところが実際には、いかれた医者がいいかげんなことをやっている。浅薄な理解を押しつけて類型化していい気になっている。患者はそれでも薬がほしいからやってくる。それだけのことである。
精神医学を学んで人間理解が深くならないのはどうしてなのだろう。根本的な問題があるように思う。精神医学は人間理解ではなく、病気の理解であると居直るだろうか?
あるいは、精神医学は患者を劣位におとしめるための理解の仕方の体系であるといってよいかもしれない。
患者は精神科医を信用しなくなる。それは当然のことであると思う。
精神科医の前では精神の尊厳などないのである。

鍵があるから閉じこめられる。薬がほしいから、または生活保護を持続するために通院を続ける。それだけだ。それだけだと分かったら、精神科医は心について何かを知っているようなそぶりはやめるのが正しい。

他人を攻撃するために診断をレッテルのように張り付けて反省しない人がいる。黒宮さんが以前いた医者を分裂病だと診断していたのだという。それは何を意味するだろうか。そのような空気が精神科医の社会を窒息させるのだ。斉藤さんは人格の問題があり、かつうつ病であり、鈴木さんはサディストで手がつけられないという。さらには複数の女性に対して人格障害とレッテルを貼って言って回る水上さん。

2041
病院でわたしに何が見えているのかを緻密に記録する。それはおもしろい記録になるだろうと思う。是非挑んでみるべきだ。

2042
分裂病と感情障害のComobidityについて
1)病前性格論や木村の時間構造論、中井の兆候空間優位性、微分回路モデル、笠原の出立と合体などの話は一様に分裂病躁うつ病を対極的なものとみている。だとすれば、中間項を立てて、連続体としてみるという立場も成立しそうである。遺伝研究からも、全く無関係のものでもないといわれる。脳の脆弱性としては共通の基盤を考えてもよいともいえるのだろうか。
2)しかしそうだろうか?脳の病気の二大カテゴリーが実は一連の対極的なものだなんて、可能性は低いと思う。背景病理としてはもちろん別のもので、前景症状としては混じり合うこともある。これが現在の私の理解である。そして問題は、背景病理として、Comobidityはあるのかという問いである。
背景病理としての分裂病躁うつ病は、次元をことにする全く無関係で別々の病理であると思う。ちょうど、高血圧と風邪くらいの関係ではないか。だとすれば、時間的に共存することもあるだろう。
しかし、背景病理を考えるときに参考にするのは生活史や病前性格、家族歴などであり、それらを考えるとき暗黙のうちに分裂病躁うつ病を対極的なものとして想定していることに気付く。クローの連続体説にも意義があるのだろうと思ってしまう。

私が考えるように、分裂病については時間遅延型の説明、躁うつ病についてはMAD細胞型による説明とするならば、両者は混在してもよいはずである。
たいていの場合、分裂病があれば、反応性のうつ状態にはなるだろうと考えられる。うつ状態があっても、分裂病状態には容易にはならないだろうと考えられる。このあたりのことから、まず分裂病の可能性を考えて、否定的ならつぎには躁うつ病の可能性、と順位付けができている。
→背景病理としても分裂病躁うつ病の混在は可能であるとするのが合理的ではないかと思われる。
これは結局、循環気質と分裂気質が混在可能であるかとの問いになるだろう。

なお、前景症状のレベルでの両症状の混在は、当然可能であり、それをCoocurrence:併存と呼ぶ。

Comobidityに関しても、前景症状と背景病理に整理して、それぞれのレベルで立体的な把握を心がけることは有益である。

分裂病で躁うつ症状を呈している場合と、躁うつ病分裂病症状を呈している場合とは、対称的ではない。
分裂病の場合には、前駆期の躁うつ症状、急性期が終わったときの疲弊期のうつ状態(post psychotic depression、寛解後疲弊病相)、躁うつ病像を呈する分裂病などがあげられる。
それに対して、躁うつ病の場合には、躁病時の妄想・興奮とうつ病時の迫害妄想などがあげられる。分裂病を基盤とした躁うつ症状とは非対称的である。

2043
幻声と注察感は知覚異常ではなく、自我障害であると考えることができる。
要素的幻聴は、側頭様症状と考える。自我障害も側頭葉症状と考えられるのではあるけれど。
また、幻声と注察感は妄想とみることもできる。確かに感覚として聞こえているという証拠は一つもない。

2044
クレペリン躁うつ病でも残遺状態や欠陥を呈することがあることを認めている。(→これは一体どういうことなのだろうか?)
ブロイラーは、分裂病の否定の後に、躁うつ病の診断がつけられるとしている。

2045
Comobidity
・大うつ病とパニックの合併は重症で抗うつ薬への反応が悪い。自殺率も高い。したがって、パニックの背後にうつ病がないか、入念に診察する必要がある。
・大うつ病強迫性障害パニック障害には共通の病因や病態があると推定される。
躁うつ病とアルコール症が合併した場合、アルコール症のためにコンプライアンスが低下するので経過が悪い。
・複数の精神障害を持つ人が病院を受診しやすい傾向がある。Berksonバイアスという。
人格障害は合併率が高い。それは診断基準の近似のせいだといわれる。あえて分類する必要があるのか?
・疾患エピソードに限ってみられる行動や性格傾向は人格障害を診断する際考慮に入れない。大うつ病の場合、二軸診断に影響を与える。state effectと呼ばれる。双極性障害の70%に人格障害がみられるとする報告はこのせいだろう。
転換性障害強迫症状、解離性遁走、病的賭博、窃盗癖などの基底にうつ病がないか、見逃さないようにする。ヒステリー症状や強迫症状が、うつに対する防衛になっている場合がある。うつ病の治療が優先されるべきである。
パニック障害にうつが続発する場合。二次的意気消沈(secondary demoralization)なのか、内因性うつ病の合併なのか、見極める。それによって治療が異なる。二次的意気消沈なら症状に立ち向かうよう押す。内因性うつならば、無理をせず休養させる。
・Affective Spectrum Disorder…大うつ病、神経性大食症、パニック障害強迫性障害注意欠陥多動性障害、カタプレキシー、片頭痛過敏性腸症候群
・Obsessive-Compulsive Spectrum Disorder…強迫性障害、心気症、身体醜形障害、神経性無食欲症、抜毛症、病的賭博、クレプトマニア、アルコールなど物質依存。
・depressive equivalent…大うつ病、パニック、強迫性障害、神経性大食症、ヒステリー(解離性遁走、転換症状)、病的賭博、クレプトマニア、心身症
・「一人の患者には一つの病気:one patient-one illness」が原則であった。

2046
クレペリンパラダイム
neo-Kraepelinian paradigm
器質的疾患から、内因性精神病、神経症という、理念的診断における層構造。
クレペリンの著作に暗黙に含まれており、ヤスパースが明確にした。

2047
「クリニックは、レッテルを貼るところではなく、苦しみを少しでも和らげる場所であることを伝える。
患者・治療者の人間的交流が可能であることが患者にとって救いになる。
家族、学校、職場、社会とはやや異なった規範で接してくれるところだと知ってもらう。そのためには、精神科医自身がそうした社会の規範を相対化している必要がある。少なくとも一時的にでも、社会の常識的規範から自由であること。」

2048
「大安を退院日に選ぶ人も多い。」
家族は自分の子を「おかしい」とは思いたくない。無意識のメカニズムが働いてしまう。
一方、患者は最悪の事態を現実的な可能性として思い込んでしまう。

2049
「患者は自分の殻に閉じこもり、他者に助力を乞うことをしない。しかしそれでも、どこかで救いを求めている。それを直接的な形で表明することができない。その直接的な表明を妨げているものがどこかにあると考える。」
求めないのではなく、求めていると表明することができないでいると解釈する。

2050
「患者自身が苦悩を言葉に置き換えることができるような場を治療者が提供する。心の混沌に秩序がもたらされる。言葉への信頼。」
一種のロゴセラピー。

2051
「薬の副作用にしても、あらかじめ予告された事柄であれば、人はある程度受け入れることができる。予告は心の準備を促し、それが出現したときの驚愕と不安をある程度和らげる作用がある。」

2052
離人体験を詳細に語る。語る部分では苦しみを詳細に体験している。その部分には離人はない。
また、こう考えてもいい。離人と正常の間を短時間のうちに往復している。だからこそ、離人の感覚が苦しみとして感じられる。
人間の感覚は差異を抽出しているのであって、どんな感覚も長時間続けば鈍麻して感じられなくなってしまう。強烈に苦しいというからには、正常状態との落差を感じとっているのだ。ということはやはり短時間のうちに変動しているはずである。

2053
離人症状も分裂病の基底障害に対する反応であると考えることもできるだろう。」

2054
「強迫行為の背後に離人体験があるとの見解がある。」

2055
離人も強迫も、自己の二重化がある。」
離人症者は言葉で埋めようとする。強迫症者は繰り返しの確認行為で埋めようとしている。」
「全体を一挙に与えられないために、断片によって全体を構成し直さなければならない人たち」

2056
精神分裂病の発症は、自分の中に出来した事態を名指すことができないことだった。何かが起こった、どこかが違う、という形でしか表現できず、意味のない世界に陥ってゆくことだった。だからこそ、言葉によって妄想や幻聴を創出して、彼らなりの確かな秩序を打ち立てようと試みる。」
ややロマン的。こんな言葉をいくら重ねても進歩にはならないだろう。

2057
分裂病の軽症化
・「自閉」度の軽さ。日常世界との「風通し」をまだ残している。
・「現代社会が、かつてのような一元的で強固な価値体系をもち得なくなったことが背景にあると指摘する識者が多い。」→そうか?もしそうだとしても、それは「夢の内容」を決定しているだけだろう。「夢を見るかみないか」は別の生物学的な次元の問題であろう。かつてのような体系化した妄想から、境界例でみられるような症状へと変化した、それは内容の問題だ。「袋にあいている穴」に変わりはない。穴からこぼれてくる内容は変化がある。
・社会に背を向けて内面に沈潜しようとしてもランダムでおびただしい情報がマスメディアを通して侵入し、一人の人間に静かな自閉を許さない。
・積み重ねがない。空虚である。アンヘドニア(無快楽)。これが境界型人格障害につながる。一人でいることができない。他者にしがみつく。自閉とは対極的である。
・不動で確かな拠り所を自己の内面に築くことができない。
・自己同一性の不確かさを役割の背後に隠すことができない。
・境界型……未熟で激しい衝動的反応。スプリッティングをおこし、安定のないままに変転する、固まらないままの性格。
・高速情報消費社会。時間をかけて彫琢を施し、結晶化させてゆく病理に出会いにくくなっている。

2058
笠原の「外来分裂病
?自発的に通院
?診察室で整然としている
?体験陳述力がある
?急性期消退後にかなり長い「無為・退行の時期」をもつ
?家族のサポートが得られる
?社会適応のために現実的努力を続ける

2059
内因性若年無力性不全症候群(グラッツェルとフーバー)
体感異常、離人体験、思考障害を三徴とする。

2060
分裂病性妄想の判定基準として、集団規範を持ち出すのは正しいか?
・集団性の異常と考えれば、事実ではなく集団規範への従順という観点で判定すべきである。
・しかし、外的現実との照合という観点でみれば、あくまでもその人が体験した現実とのズレが問題になるだろう。この場合は集団規範ではなく、体験した事実が判定基準となる。
・人間は社会的動物である。しかしそれでは、社会を構成しない人間において、分裂病は成立するだろうか?言語もなく、他人もいない世界で、分裂病状態は成立するだろうか?
・国家、都市、会社、家族が成立するごとに、それらに所属する「個」が問われる。アイデンティティが問われる。
・都市集団とその規範(秩序)の成立なしには分裂病概念も成立しなかったという指摘。→あまりにロマン的。分裂病はそれ自体、生物学的な疾患であると考えてよいだろう。

2061
「タテの価値体系が崩壊し、ヨコ同士の「差異」によってしか、自己形成できなくなったのが現代。」
「個を集団の中に閉じ込めず、それぞれの個に多様な生き方を許す」
これらが軽症化の背景にあるとする。
妄想構想力が減弱しているのだろう。体系化には知力を必要とする。体系的思考の習慣が必要である。現代のマスコミはそのような教化をしていない。きれぎれのイメージがあるだけである。そしてテレビは行動化を促進している。

→「タテの価値体系の崩壊」とはつまり、規範の崩壊・弱体化。この点で、イントラサイキックからインターパーソナルへの変化と同等な内容の指摘ではないだろうか。
つまり、イントラサイキック・重症から、インターパーソナル・軽症へと病像が変化している。その背景には社会の価値規範の拡散がある。
→しかしながら、こうした社会情勢が、なぜ症状の軽症化につながるのか、いまひとつ論理の脈絡がはっきりしない。なんとなくは理解できるけれど。
つまりは、社会が受け入れれば、症状も症状ではなくなるといった程度のことなのか。それならば、軽症部分は社会の中で正常として組み込まれ、重症例だけが残るはずではないか?
重症例は、脳の破壊と社会の拒絶の両者が重なった部分に生じるというのか。

典型的な例でいえば、同性愛者の苦悩。新宿ではそれ自体はあまり問題にならない。田舎だったらそれ自体で悩むだろう。しかしそういったことと、重症、軽症が関連しているものだろうか?

2062
経済が問題であったときは労働組合が組織票を動員できた。現代は精神が問題であり、宗教団体が組織票を動員している。

2063
分裂病の多い民族……アイルランド共和国クロアチア
少ない民族……北米フッタライト、トンガ、(台湾?)……共同主義的、階層的に構造化、保守的信仰、自分達の生活方針に自信、豊かな土地で競争がない。
途上国の方が経過がよい。合衆国やデンマークは不良。

2064
電話帳広告で。心理相談では以下のものが解決できなければならない。デパス投与以外に有効な治療ができるか?
ストレス、緊張、あがり、手のふるえ、赤面、吃音、不安と恐れ、多汗、性格改善、対人恐怖・視線恐怖、不眠、肥満、自律神経失調症、集中力欠如、学業不振、勉強嫌い、夜尿、チック、不登校、家族間の問題、書字の震え、声の震え、顔のこわばり、電車恐怖、自己臭、過食、拒食、性的困難、孤独、留守番恐怖、トラウマ修正、ノイローゼ、心身症、夫婦関係。

2065
ひきこもりの原因について
・幻聴(P)
・被害妄想(P)
・N
・廃用性能力障害
・うつ
・教育・経験の欠損
・金がない
・友人がいない
・薬の副作用でだるい

2066
分裂病の経過

前駆期
急性期
急性期後疲弊期
回復期
維持期

2067
症状の区別

陽性症状
陰性症状
廃用性能力障害
教育・経験の欠損
薬剤の副作用

2068
精神療法
陽性症状の時期には支持的(受容的)精神療法。病理によってはサイコドラマ、エンカウンターグループなど。
陰性症状に対しては難しい。ある程度指示的・教育的対応になる。どの程度か、難しい。適切なストレス量の設定が大切である。ストレスが少なすぎると退屈で、多すぎると症状が再発する。その中間にコントロールする。
スタッフ間で個性の差による対応の差が出ることは避けられないし、ある程度幅のある対応は良い面もある。いろんな人がいて、その中でどのような個性が治療的なのか、考えることができる。看護の中で個性が生きる。
スタッフの中で治療的な関わり合いができる人を、「Nurse as a madicine」として「処方」できる。それが劇薬であったら、「副作用止め」として別の職員を処方することもできる。

2069
イントラサイキックとインターパーソナル
倫理規範が明確な社会では、イントラサイキックな病理が中心になる。逆に言えば、そのような社会にあっては倫理規範に従っていれば、目の前の人とのつきあい方に困ることはなかったはずである。共通の規範に従っていれば、お互いの関係はうまくいっていたはずであろう。
共有する倫理規範が崩れた後では、他人がどのような内的規範を有しているか、推定し手探りしながらのつきあいになる。ここではインターパーソナルな病理が中心になる。推定の根拠はとりあえず外面的な特徴によるだろう。そこでルックスが過剰なほどに問題になる。
規範は全くないのではない。全国民には及ばないが部分グループを支配するには充分な規範がある。その人はどのような規範集団に属しているのかを確認することが必要である。確認しなければつきあい方のモードを決定できない。
規範の面から見たサブグループを同定する必要がある。このあたりの困難があるので、インターパーソナルな病理が発生する。
つきあい方の規範が決まっていれば、インターパーソナルな病理からは免れられる。

2070
援助交際はなぜ悪いかについて。
こんなことも説明できない大人でいいはずがない。説明できないのなら、よいと認めればよい。
倫理の根源を各人が選択し、その上で国家を形成したらよい。

各国の憲法は信教の自由や思想良心の自由を保障しているが、それこそが倫理の根源であり、国家形成の根源ではないか。それを自由にしておいてなお国家を形成することなどどうして可能であろうか。

倫理などない社会に生きているのだ。神がなければすべてが許される。

2071
エピネフリンハロペリドールの併用で降圧が起こる理由
エピネフリン使用時にハロペリドールを併用すると、エピネフリンの作用を逆転させ、血圧降下を起こすことがある。エピネフリンは血管に対して血管収縮作用(昇圧、α作用)と血管拡張作用(降圧、β作用)の相反する二つの作用を有している。用量が多いと、α作用が優位のため、全体として昇圧の方向に作用が発現する。
ハロペリドールをはじめとするメジャーはαアドレナリン受容体遮断作用がある。併用した場合にはβ作用の優位となり、降圧が起こる。

2072
電話カウンセリングでは「催眠術」が使えない。
場所の設定や香りや音楽やそんな環境要因が大切。立派な背広を着ていたり、応接セットが立派だったり、受付の女性がきれいだったり。診察室で医者を完全に独占しているいい気分。
そんな「催眠術」が大事。さらには飲み屋ならお酒を出して、クリニックなら安定剤を使う。電話ではそんなこともできなくなる。
結局、日本のヒーリングは飲み屋にあると思う。カウンセリングをして、お酒という薬物をきちんと使っている。頭がいい。脱帽である。

電話で、言葉だけを頼りに精神療法など、大変に困難な仕事である。

2073
内因性と初潮
「目覚まし時計がひとりでに鳴るように」内因性疾患が発現する。たとえば初潮が自然に始まるようなものだとの言い方である。
現在は「ストレス脆弱性モデル」の時代であるから、個体の内部の問題は半分で、生活上のストレスが半分だということになる。それは双子法の一致率が50%という数字によく象徴されている。
つまり、「内因性」成分は50%であるということだ。それはひとりでに、目覚まし時計のように、初潮のように、形成される。

2074
患者の個々の内的価値システムを発見することが大切。
精神発達遅滞の30歳の患者さんが退院する。退院後は作業所に通う。しかし、作業所の近くでつばを吐いて歩いたり、女の子のかばんに手を触れてみたり、「問題行動」が多いので、今後も対処は困難であると予想される。
してはいけないこととしたらほめられることをきちんと区別して教え込みたい。どうすればできるか。
して欲しいことは「毎日作業所に通う、あいさつをする」など。
して欲しくないことは「つばを吐かないこと、他人のものに手を触れないこと」など。
しつけるには、報酬と罰を用いるのが普通である。彼にとっての報酬と罰を吟味する必要がある。
たとえば病棟で、問題があると注射をしたり、保護室を使ったりする。それがお仕置きと解釈されていることが多い。罰である。こちらは治療のつもりであるが、ここで意味付けのずれが発生している。
たとえば退屈を解消するために、すこしあれこれ文句をつけて、医者の前に出る。医者としばらく話す時間を持つ。それは患者にとっての報酬といえる。医者にすれば業務であり、罰とも報酬とも思ってはいないはずである。しかし騒ぐことによって「面接という報酬」が与えられる。
たとえば彼がつばを吐くことにどのように対処したら、彼にとっての本当の罰になるのか、考える必要がある。また逆に、作業所できちんと頑張った報酬としては何が適切なのか、考える必要がある。

2075
平等教育をすると、男がついていけなくなる。女よりも発達が遅いし、社会的機能が劣るので、教室では生き生きとできなくなる。このような指摘があることも踏まえて教育を考える必要がある。

2076
SSTに先立つ診断作業
対人技能の構成要素……どこに欠損があるか診断して納得してもらう→動機付け→対応策を授けるまたは一緒に考える
●受信
・相手に注意を向ける
・相手から与えられた手がかりを読みとる
・表情を読みとる
・うなずく等の非言語的行動を読みとる
●処理
・対人場面の理解
・話の文脈の理解
(まとめると状況認知)
・社会的習慣の理解
・問題解決の見通しを立てる
●発信(表現)
・ことば:声の大きさ、声の高さ、話の速さ
・行動:心理的距離の取り方、物理的距離の取り方、視線の向け方、表情
・考えを正確に表現する、感情を適切に表現する
・話題を変更する
・あいづち、うなずき、応答のタイミング、ほめる、質問するなどの技法
・会話を終わらせる

例えば、職場で困難があって、もう行きたくないという場合、どこに困難があるか、調べる。結果として、あいさつができない、指示を受けることができない、休み時間の付き合いができないなど、問題点が明らかになる。それが陰性症状によるもので、適切で柔軟な対応は困難だということになれば、「良肢位で固定」するのが現実的対応である。

状況認知障害が中心と見れば、良肢位固定が大切。
発信機能障害が中心と見れば、リバーマンのような発信技能改善が大切。その延長として主張訓練がある。

2077
SSTの流れ
・まず多段階の目的があることを認識する
・診断、動機付け、教示
・ロールプレイとモデリング、ポジティブフィードバック(強化)
・一般場面での宿題(般化)

・他段階の目的とは、
治療者との信頼関係促進
引きこもりの改善、気分転換、病気に対する能動的・自主的かかわり方
生活技能獲得‥‥受診機能、処理機能、発信機能
(リバーマンは発信技能の改善を強調している)

2078
院内リハのためには地域の受け皿が不可欠である。
院内リハビリテーションの前提として、地域での生活の見通しがなければ、ただの練習のための練習になってしまう。たとえば無駄なSST。動機づけができないのだ。
まず第一歩は、精神病院が地域密着型・地域参加型の「非難所」になることだ。自己完結型の治療構造を解体することだ。
自己完結型精神病院にはリハビリは成立し得ない。社会の受け皿があるから、リハビリの動機づけができる。社会復帰を前提に考えるから、院内適応の弊害が明確になる。自己完結型精神病院においては、院内適応して陰性症状が固定している患者が「問題のない」患者となる。
病院精神医療にいかにしてリハビリテーション・モデルの活動を広げることができるか。

2079
リハで、ストレスをかけすぎると陽性症状再燃の危険がある。ストレスが少なすぎると、陰性症状悪化の危険がある。だから難しい。私流にいえば、ドーパミン過剰の危機と、レセプター増加の危機である。
伊藤哲寛は過少刺激を「安定と適応を促す」方向と考え、過剰刺激を「変化と成長を促す」方向と考えた。これは違う方向のベクトルであり、「変化と成長」のベクトルは精神療法的接近に近く、「安定と適応」のベクトルは保護と休養、さらには福祉的援助に近い。これら二つのベクトルを統合したものとして、リハビリテーションがある。
これを私流にいえば、ドーパミンを抑える方向と、レセプターを減少させる方向と解釈できる。ドーパミンとレセプターはそれぞれ独立のベクトルを形成している。しかしこれをストレス量の観点でみれば、一元的に解釈できる。別方向のベクトルとは考えられない。私流にいえば、伊藤の平面図は不適切である。
伊藤も文章としては、過剰刺激と過少刺激として、一元的な表現をしている。

「安定と適応」=ドーパミン減少=刺激過少(=レセプター増加の危機=陰性症状の危機)
「変化と成長」=レセプター減少=刺激過剰(=ドーパミン増加の危機=陽性症状の危機)

2080
院内でのリハビリテーションを実際に生かす社会の場がなければリハは有効にならない。SSTで学んだことを般化する場を持たなければ有効ではない。長期収容を前提として、なおSSTを行うなら、矛盾している。

2081
デイケアも「ソフトな収容」に過ぎない面がある。
厄介払いのお先棒をかついでいるだけだ。

2082
家に泥棒が入った。どうするか。
・「事情を聞くととても可哀想だ。真面目に働いていた父親の商売が、貿易の自由化によって、立ちゆかなくなったという。何とかして役に立ちたいと思って、お金をあげた。」この態度は人間としてとても立派である。
・しかしそんなことになるそもそもの原因は何かと考えれば、もっと根本的な解決を考えなければならないだろう。
精神障害者の場合も同様。一人一人を現状の仕組みの範囲内で何とかすることも大切である。しかしまた、理想的な仕組みはできないか考えることも大切である。

2083
医療、保健、福祉を統合する包括的リハビリテーション

2084
精神病院に限らず、施設への長期収容は、一般にリハビリテーションにふさわしくない構造や雰囲気をつくり出す宿命をもつ。
メディカル・モデルからリハビリテーション・モデルへの転換。

2085
ドイツと日本は戦争後の経済復興優先で、精神医療改革が遅れた。
アメリカは経済効率を優先して性急な病院解体・地域システムへの移行を進めた。患者の多くは自分の力だけでは社会資源を有効に活用できず、ホームレスになった。ホームレスの33%が精神病者。都会の刑務所の31%が精神疾患をもったホームレス。刑務所入所者の精神疾患有病率は、一般人口の二倍から三倍。低水準のナーシングホームへの患者移動は、再施設化または施設移動にすぎない。本質的には何も解決されていない。
当然である。病気は治っていない。ノーマリゼーションが進んだ社会の中で暮らせば「病気が治る」というのなら問題はない。障害が固定したままで、いかに生きられるか、そう考えたとき、社会が彼らを受け入れられるか、疑問がある。精神病院でも、彼らを受け入れてなどいないのが現状ではないか。

2086
イギリスでレフの研究。慢性期患者が地域ケアに移行して、言語的・非言語的行動が改善され、陰性症状も改善、患者の満足度も年を経るごとに高まる。

2087
ホームレス対策。
積極的訪問サービス、ケースマネジメント、危機介入。
訪問サービスは嫌がられても、ある程度強制的にやらないと効果がない面もある。しかしそれでは患者の自己決定を奪っている。

2088
「集中精神科リハビリテーション治療プログラム」
リハビリは治療である、時には集中プログラムもある、そのくらいの専門性を開拓したいものだ。

2089
イギリスでは良質なケアを長期的に維持するためのシステム作りを重視。
アメリカでは環境や社会的援助をあまり重視せず、精神障害者が当事者として最小限の援助で自立できるように生活能力を高める技術の開発に力を入れている。
精神障害者を市民・消費者としてとらえる市民意識、当事者の自立と権利の保証、ケースマネジメントやピアカウンセリングの導入などは地域支援システムを構築するうえで欠かせない。

自助の社会。チャンスは与えるが、自己責任も大きい。

環境を整えることと能力を伸ばすこととは相反する面もあるので難しい。

2090
「精神病院から社会復帰施設へ、さらに地域社会へ」

2091
「生活圏の中に」医療、保健、福祉サービスが包括的・多次元的に供給されること。
「僻地に」「収容型の」精神病院があっても進歩しない。外来と地域医療重視の病院へと転換しなければならない。生活圏に沿った医療圏の設定が大切。

2092
野田の指摘。
?地域ケアを重要と考えない医師がまだ多い
?ネットワークづくりという発想に欠ける
?病院間の縄張り意識が強く、患者の生活圏でのケアの重要性の認識が薄い
?ケースマネジメントという考え方が薄い、biopsychosocialの3面で統合的・連続的ケアを受けている患者が少ない

2093
精神病院の敷地内にグループホーム授産施設地域生活支援センターが設置される現状は、地域リハビリテーションの理念と相いれない。精神病院が精神障害者の生活支援機能をも取り込んでしまうことは避けるべきである。

2094
ケースマネジメント、ケアマネジメントはサービス・コーディネーションと呼んだ方がよいとの考え方もある。医療保険会社はマネージドケア。経済効果ばかりが追究されている。患者のプライバシーが危機にさらされている。最悪の場合には自分と異なる価値観や生活習慣をもつ人に自尊心を明け渡さざるを得なくなる。もうケースマネジメントシステムはいやだとの意見も多い。
メンバーは困ったときだけ専門家に手助けしてほしいと思っている。

ケースマネジメントや訪問サービスを熱心にすればするほど、当事者の自己決定や選択の自由を制限するというジレンマがある。患者の自主性を損なわず、必要なときに適切で迅速なサービスを提供する。

病状が悪化したり危機的状態に陥ったときに、資源を積極的に利用し専門家の援助を求めようとする患者群。反対にいっそう孤立して支援を求めようとしなくなる患者群。二群がある。

2095
当事者がピアスペシャリストとしてケースマネジメントチームの一員に加わった方が、専門家のみ、または専門家にボランティアが加わったチームよりも結果が良かった。

2096
かつては労働にとらわれない多様な価値観をもって、地域にとどまることが重要な課題であった。現在では地域に住む精神障害者の七割が雇用就労を希望している。共同作業所は福祉的就労の場にすぎない。
職業リハビリテーション体制の確立が急がれる。

being から doing さらに working へ。はじめはbeingの価値確認が大切であった。しかしそれが終わったら、doing さらに working へと進む。

2097
「困ったときだけ助けてほしい」
患者のプライド。治療者のパターナリズム

2098
保護者は、病者を抱えた苦しみに加えて、社会を守る義務を負わされている。「義務としての愛情」が法で規定されているとも考えられる。
保護者規定の廃止、公的後見制度の導入が望ましい。

2099
「生活環境を重視するコミュニティ」を志向する地域では、精神障害者施設を排除する。
「交流型コミュニティ」でボランティアなどをからめつつ、当事者中心で広める。

2100
精神障害者の社会復帰を阻んでいるのは何か。
リハビリシステムや社会資源の不足ではなく、社会のコミュニケーションシステムの欠如が問題なのではないか。すべての人の対話的関係の回復が必要である。地域リハビリテーションの原理につながる。

例えば、病院に欠けているのも、そのような「対話的関係」のシステムである。