「裁判で真実を明らかにする」というナイーヴな誤解

「裁判で真実を明らかにする」というナイーヴな誤解

裁判が恨みを晴らす場になっている面があり、ただ単に苦しめたいだけ。長期の裁判は実質、相手を苦しめるためには役に立っている。しかし一方、もし相手が不誠実であれば、弁護士に任せたままで何も気にしないで生きているので、何年かかろうと、あまり苦しみを感じない。

所詮、素人の裁判官に正しい判断ができるわけはなく、原告、被告が理屈をこねて、どちらが裁判官に正しいという印象を与えるかで決まります。米国の裁判映画と同じように、どのような印象を与えるかで決まるので、裁判とは真理を明らかにする場ではない

裁判は原告、被告双方の言い分を裁判官が聞いて、どちらの言い分に理があるか判断します(正しいかどうかではありません)。色々理屈をこねくり回して相手を言い負かし、裁判官を納得させた方が勝つのです。ですから相手方の言い分を逐一つぶさないといけません。

裁判官が重視するものはどんなに古くても東大や京大などの教授が監修した本なので、引用は、そういうものから重点的に集めます。また教授などの肩書に弱いです。