語りえぬもの

精神は自分を語る時に
引用のことばで語るしかない
そこに無力感を感じる
独自の言葉は原理的に誰にも通じないはずのものだ
引用で語られる言葉の他に
精神の実質はあるのかといわれれば
そんなのものはないとみんなが言っている
語られたことだけが精神なのだという

そうかもしれない
しかし
このかすかな違和感を思えばそうではないの
かもしれない
確かに何か語りきれない余剰があるのかもしれない
それを語ろうとするとき常に
引用の沼に回収されてしまう

その余剰の感覚、
語りつくせぬものは結局錯覚かもしれない
諸家の指摘の通り

そうだとして
その錯覚の感覚さえ語りえないものなのだろうか?
技術があれば
語ることができるのか

よく分からない

たとえば作曲家が
音符にかけないが確かに響きがあるのだなどと言っているとしたら
どうかしていると思う
画家が頭の中にだけあるいい色があるのだと言っているとしたら
どうかしていると思う
しかし文章化が
何か違う、これではないと言っているとき
そういうこともあるだろうと
思うのだ

たぶん間違っているだろう