ファンタジーとファンタジーが出会う時

May 28, 2006

ファンタジーとファンタジーが出会う時

前回は学習理論的な部分だった。今回はその先の、精神病理学的な部分を述べる。

一度限りの強い学習が愛について起こる時、それを初恋と呼ぶとした。強い学習体験のとき、体験の総体は完全に現実的であるか、あるいはかなり幻想が入り込んでいるか、個人によって違いがあるだろう。総じて言えば、現代の人間の場合、かなりファンタジーが入り込んでいると考えられる。初恋においてファンタジーが占める割合は文句なく高いのではないか。

そして現代日本においては、初恋のファンタジーは多様で多彩である。反対に、画一的な社会でならば、ファンタジーも一致度は高い。ある種の宗教的集団を考えてもいいし、ある種の趣味、趣向の集団を考えてもいい。日本の内部でも、そのような状況・集団は多々ある。その内部でならばファンタジーを共有する可能性を信じることもできる。所詮ファンタジーでしかないが、当人にはそのファンタジーしか思いつかないのだから、他の可能性を考えようもない。
たとえばプロ野球ファンとかブランド好きとか自己規定して安住できる人ならば、その先はあまり難しくない。価値の次元が単純だからだ。しかしやや複雑なアイデンティティを持つ人にとっては、初恋のファンタジーを満たす恋愛対象に行き着くことは難しいだろう。

また日本では地域的な流動性も高い。たとえば長崎で初恋のファンタジーを学習した人が、埼玉で仕事をしていてそのファンタジーを満たしてくれる対象と出会う確率はあまり高くないと考えられる。関西女性はきついと評する関東女性を知っているし、関東女性はきついと非難する関西女性を知っている。むしろネット社会の中などで輪切りにされた内部での方が、対象選択しやすいだろう。

日本の昔の田舎のように、流動性が低く、ファンタジーの一致度も高い状況では、大人たちのセッティングもかなり有効で、お見合いも有効である。しかし現代では、お見合いおばさんがいたとしても、初恋のファンタジーまで見抜いて仲人口をきくことも難しい。

自分の脳が創りだしたファンタジーを対象として愛を学習したとすれば、その後の人生で出会う現実の人間との愛は異和感を伴うものにならざるを得ない。
そしてある日、ファンタジーとファンタジーが出会い、「やっと本当の愛に出会った」と語る。

言い換えれば、初恋の原初的なファンタジーを満たす恋愛対象を見つけたということだろう。
幸せとも不幸せとも、言い難い。

以上の事情を勘案してもなお、愛はひとつでかわらないものだと言うことができる。