ピカソ的変換装置

Jun 1, 2006
ピカソ的変換装置

たとえばピカソの絵を見れば、何となくピカソらしい。モネはモネらしい。なぜだろう。

ピカソ的変換装置」を考える。これに鳩を代入すれば、ピカソの鳩が出力されて、作品として鑑賞できる。わたしたちは現実の鳩を知っているから、現実の鳩とピカソの鳩を頭の中で引き算をして操作する「運動」を、「ピカソ的変換装置」として考えることができる。
モネの場合には、モネの睡蓮=「モネ的変換装置」に(現実の睡蓮)を適用したもの、と考えることができる。
では、現実にピカソの鳩やモネの睡蓮を鑑賞する代わりに、「ピカソ的変換装置」や「モネ的変換装置」を「鑑賞」することができるはずではないか。そこに感動することはできないのかという問題がある。
ここで感動の位相が変位している。

物理学ではケプラーガリレオニュートンと時代は進んで、無数の現実の観測数値から、いくつかの数式へと純化された。
「何時何分、土星はここ!」「おお!」
と何度も言う代わりに、数式を提示して、その美しさに感嘆すればよい。もう現実の土星を見る必要はない。
無論、土星を愛するなら愛してもよい。
同じことが絵画や芸術一般に言える可能性がある。これは昔から指摘されていることだ。

事情は同じではないが、一言挿入しておくとして、たとえば音楽で、実際の演奏と、楽譜を比較してもいい。一般には実際の演奏によって音楽を鑑賞する。しかし能力があれば、バッハやモーツァルトの楽譜を眺めつつ、時間をかけて楽譜音楽そのものを楽しむことができる。バッハは楽器の指定をしていない楽譜さえあり、まるで演奏されることを想定せず、楽譜として読まれることを想定していたのではないかと思われるものまである。専門家ではないし、わたしには「楽譜そのものを楽しむ能力」はないので、そのように音楽関係の人から聞いているとしかいえないけれど。
話によれば、絶対音感が保たれていれば、そばにピアノがあることさえ必要ではない。楽譜を開いて、しばし楽しむことができる。そうでない場合には、とりあえずピアノを弾く。そして音楽の輪郭を再現するのだという。

またさらにもう一言挿入するとして、楽譜は、音楽家のコンセプトそのものではない。楽譜を読む人間は楽譜を手がかりとして作曲家の原初のコンセプトそのものにさかのぼりたいのだ。心に閃光が走ったその瞬間をつかみたいのだ。
楽家の原初のコンセプト → 楽譜 →現実の演奏
この系列で連なることになる。
まったく違う話だったので、ここまでとする。

元に戻って、絵画について極端に言えば、「モネの睡蓮」は、「現実の睡蓮」に「モネ的変換装置」を適用したものであり、何に感動しているのか、純化できる可能性がある。「現実の睡蓮」を愛するならそれでいいし、「モネ的変換装置」を愛するならそれでもいい。「モネの睡蓮」を愛するなら、上記の操作の結果を愛していると自覚した方がいい。
ただ、現時点では「ピカソ的変換装置」を具体的に示すことは難しい。しかしそれが分かれば、ピカソの作品を1000点も見ないでも、ピカソ的なものを把握できる。鳩を見てピカソ的に出力することが可能になる。
いま世間で言われている盗作問題はそのようなことを前提として含んでいる。

絵画のことは詳しくないが、文学や思想に関しては、盗作でないものなどないだろう。意識しているか、無意識の影響を受けているかの違いだけである。他人に通じる言葉を語るということがすでに「盗作」を意味している。全く通じない言葉を話す人たちもいて、他人に理解されず、精神科医に「病気だ」と認定される。

さかのぼれば、どんなものでも存在し、どんなものの中にも、潜在する多様な要素を指摘することが不可能ではない。抽象化の程度の違いであり、象徴作用の程度の違いである。たとえば、インド古代思想の中にどれだけの潜在的可能性があるか、指摘することが、それ自体新しい思想にさえなり、そのことがすでにインド古代思想に内在していると循環論を構成することさえもできる。あまりおもしろくないのでやらないが。
ただ現代人の口に合うように調整しているだけだ。

たとえば、大伴家持を消去した日本文学史を学び、大伴家持を消去した日本短歌世界を学んだとする。たぶん、その人は、自然に、大伴家持的短歌を「創作」するだろう。そしてあとになって、それは「現代日本語が内蔵する資産」から自然に産生されるものであることを知るだろう。必然的に大伴家持をなぞってしまう。言葉とは、また、文化とは、そのようなものではないか。「なぞってしまう」ときの具体的な言葉が、そのときどきの言葉である。抽象化と象徴化の程度の違いがあるだけだろう。

たとえば、「花が散った」をわざわざ「花の存在が消滅した」と言い換え、さらに「花の不在が発生した」と言い換える。「結局同じだろう」という人たちと「その違いは大きい」と言う人たちがいて、お互いを「嘘つき」だとか「理解していない」と言うのだろう。

結局、深く理解する者は語ることをやめる。
世の中はいつまでも同じことを繰り返す。