高橋治著「風の盆恋歌」

2005-12月10日
高橋治著「風の盆恋歌
人はこの世界への異和感を感じることがあるだろう。自分が投げこまれている世界が居心地が悪いと感じることがあるだろう。なぜか。
多分、人の脳はオートフォーカスビデオに似ている。常に焦点距離をずらしながら、最適点を求め続けている。ぴったりと焦点があった瞬間に、さらに前後1ミリずつ焦点をずらして、世界を見失わないように、せわしなく動き続けている。そのような脳が生き残ったのだ。焦点を固定してしまえば、新しい適応が出来ない。
だから人は常にこの世界と社会に異和感を抱き続ける。感じない人は安心であるが、変化には対応できない。人間の脳は1ミリずつ焦点をずらすように宿命づけられている。
1ミリなら異和感であるが、1.5ミリだとかなりきつい。2ミリだと耐え難い。3ミリで元に戻れなくなる。
朝目覚める時、意識の焦点は夢に合っている。現実に合わせ直すために一瞬を要する。そこがきつい。うつを自覚する瞬間である。
うつとうつつのすきまが0.5ミリだ。

高橋治著「風の盆恋歌新潮文庫。その86ページから引用。

「(略)
でもね、私には、身についてしまって、どうしても捨てられない考え方があるのよ。……それはね、いつも、自分はここにいていい人間なのかと考えてしまうことなの。間違った場所に立っているのではないか。ほかに自分の本当の居場所があるのではないか。……中出のこともそうなの。そんなに求めてくれるものなら、私はそこを居場所にきめてもいいんじゃないか。……そう考えたのよ。」
「君は……不幸だったのか」
「いいえ、とっても幸せでした。……中出は勿体ないくらい大事にしてくれたわ。仮に、あなたとの二十年があったとしても、こんなにやすらぎに満ちた日々が送れたかどうか……。でも、八尾には連れていってほしいのよ。あなたに差し上げるものはもうなんにも残っていません。出来ることは、……小さな箱に、この胸の中にあるものを入れて、きれいなリボンをかけて……」
語尾が泣き声の中に消えた。
(略)
「もう、僕たちは遅すぎる。だから、なにも戻っては来ない。」
「そんなこといってません。いいのよ、なにも取り戻せなくても。ただね、わたしの一生で、一回きり、私は自分がいていい場所かどうかも考えずに、自分で選ぼうとしたのよ。それを、あなたは気づいていながら通り過ぎたわ。……ですから、今度だけは……。
(略)
私の血が言わせることだと思ってくださって。」

ここでは「居心地の悪さ」が、意識の能動性の放棄につながっている。なぜなのだろう。ここから深層心理への通路がひろがる。ある種の人にとって被動性はなぜか心地よい。
「私は自分がいていい場所かどうかも考えずに」とは「現実に焦点を合わせることなく」の意味であると曲解することができ、「自分で選ぼうとした」とは「現実よりも自分の意識の中にあるファンタジーに焦点を合わせようとした」と誤推することもできる。
運命は厚い壁だ。人はその前でうずくまることしかできない。戦いを放棄した時、ただ世界を感受するだけの感覚器になる。そこから新しい視界が開ける。

ただ祈りのように感覚器になる。