本物は曇っていない。オーラがある。

本物は曇っていない。オーラがある。

映画と音楽については、再生したものではやはり本物のオーラがなくなるということを感じる。演奏会で本物の音楽を聴いた時は、曇ったガラスが一瞬で晴れたような気分になる。脳の本来の解像度に見合った情報が流れている感じだ。

また、実物の放つオーラということも考える。たとえば、奈良のお寺の仏像などはかなり時間が経過している。その間に世界で起きたことの電磁波の受像器でもある。仏像の表面細胞は、そうした電磁波を浴びていたに違いない。非常に微弱であるにしても、やはり電磁波を浴びてその影響はゼロにはならない。したがってすべては記録されていることになる。そうだとすれば、それをオーラとして感じる人がいてもいいだろうという気もする。かなりの飛躍があるけれども。オーラというものが何であるかも伝えられないけれども。

映画を見ていても「運動と感覚と世界の三点をつなぐループ」ができない。何を思っても何を運動しても、世界は変化しない。だから現実世界を自分なりに学習することが難しい。

また、お話に出てきた行動を自分の環境に合わせて微調整することが難しいだろう。現実に対応するためにはまず親の対応方法を学ぶのが確実である。遠い世界のお話を適用してもうまくいかないことも多いだろう。
自分がこう動けば世界や人間はこのように反応する。こう感じた時にはこのように運動する、その結果はこうだった。そのような反応ループをかなりため込んで修正しつつ生きている。そのループが映画ではできない。

最近の子どもたちに多い脳機能の異常、たとえばADHD注意欠陥多動性障害などはテレビと食事が問題かと言われたりする。兄弟で違ったりするから、教育の問題ではなくて脳の問題と思うが、確かにテレビは怪しいなと思う。過剰な視覚聴覚刺激となり、母親との時間がテレビとの時間になってしまうのだろう。
イルカの画面でエンヤの歌などを流しているけれど、とても怪しいと思う。
人間の脳の解像度とずれているのではないかと思う。視覚情報としては粗雑、テンポは多分速すぎる。
触覚も嗅覚もなく視覚聴覚だけを刺激され、人間の脳と本来の設計から少しずれて、ちょうどパソコンで小さな画面を見続けているような状態かなと予想する。

能動的な運動をすると感覚世界が変化することを、やがて忘れるだろう。あなたには関係なく世界は進行しますよと言われ続けているようだ。あなたはテレビの前にただ座って、笑ったり文句をつけたりする人でしかないです、無価値ですと言われ続けているような。

世界と人間に対する根本的な受動感を植え付けていないかと疑う。