カトリック的クリスマス compassion

ある人から手紙。その一節。
「神が一人子イエスをこの世につかわした。それはわたしたちを正しく導くためではない。弱いわたしたちとともに泣き、間違うわたしたちとともに苦しむためである。」

passion という単語は最近では強い感情、特に passionate night などと刺激的な方面によく使う。昔はマタイの passion といえば聖書に描かれている受難のことであった。Passion play ならばキリスト受難劇である。バッハのマタイ受難曲はMatthaeus-Passion (ドイツ語を出すのが面倒なので略式)、またはラテン語式で Passio secundum Matthaeum と表記されている。
compassion はcom=ともに、passion=苦しむ で、哀れみ、同情、共感などとなる。

極端な言い方をすれば、イエスは戒律を授けるために来たのではなく、compassion をするために来た。だからわたしたちも隣人に対して、compassion したいと思う。

戒律は道路の信号のようなものだ。概ねは正しい。しかし赤信号でも道を渡るべき時があるし、青信号でも渡ってはいけないことがある。それが柔軟で深い状況判断である。その判断の内容を示すなら、compassionである。

隣人とpassionをともにする、クリスマス。