こころの辞典3061-3100

51
閉所恐怖
claustrophobia
たとえばエレベーター、しかも窓のないエレベーターを恐怖する。窓があればどうして安心できるのかを尋ねると、発作が起こったときに助けを呼べるからだと言う。しかしそれならインターホンがついているではないかと尋ねると、それ以上は分からないと言う。患者には閉じられた空間に孤立することはとてつもない恐怖である。自分ではどうしようもない不安発作が起こったときのために、安全な場所と危険な場所を区別しているらしい。

52
赤面恐怖
erythrophobia
人前で緊張して赤面することを恐れること。赤面は家族のように深く知っている人に対しては起こらず、また、電車で偶然乗り合わせたような全く見知らぬ人の中でも起こりにくい。名前程度は知られているがまだ本性を深くは知られていない、そのような中間的な状況で起こりやすい。たとえば、結婚式で見慣れない親戚や相手方の親戚が集まる場所などで起こりやすい。
赤面によって実際に仕事に支障があったり友人を失ったりするわけではないので、赤面を自分の一面として受け入れられれば(あるがまま)苦痛は半減する。

53
先端恐怖
aichmophobia
ナイフの先端や針の先端を、不合理なまでに極度に恐怖する状態。自分でもおかしいと思うが、恐怖はやまない。

54
対人恐怖
socialphobia,anthrophobia
=社交恐怖、社会不安障害、社交不安障害 SAD social anxiety disorder
日本で症例が多く、研究も盛んな恐怖症であり、対人的な場面で過度に緊張してしまい、仕事がうまく行かないのではないかと恐れたり、友達関係が壊れるのではないかと恐れたりする状態。さらには緊張したらどうしようかと予期して不安状態が続くようになったり(予期不安)、対人場面を回避して生活するようになったりする。若い人に多い。
赤面恐怖のほかに醜形恐怖や自己視線恐怖などが含まれる。後二者は自分の容貌の醜さや自分の視線が他人を不快な思いにさせるのではないかと恐れるもので、加害恐怖、さらには加害妄想と言ってよい面もある。重症例には妄想症と呼ぶべきものもある(思春期妄想症)。

55
単一恐怖
simple phobia
単一物、単一状況への恐怖。たとえば、はさみ、馬、蛇、クモ、細菌などへの恐怖。

56
不安障害
anxiety disorder
不安神経症、パニックディスオーダー、心臓神経症過呼吸症候群、対人恐怖症、空間恐怖症、単一恐怖症、強迫神経症などを不安を共通項としてまとめて考えて、不安障害と呼ぶ。

57
一節性と二節性  →没
シュナイダーの考え方。妄想知覚は(正しい知覚+妄想的意味付け)で、二節性である。妄想着想は妄想的着想のみの一節性である。分裂病に際しての診断価値が高いのは二節性のものであり、従って、妄想知覚が分裂病の一級症状として採用されている。たとえば、妄想追想の場合にも、(正しい記憶+妄想的意味付け)の構造をとるものと、妄想的着想のみのものとがある。日常の臨床においても、仲間と一緒にいて、そのときはそれほど疲れた風でもなかったのに、次の日になってとても疲れたと訴える場合がある。また、友人と一緒に遊んでその日は楽しかったのに、次の日になって、友人に悪いことをしたから謝りたいと言いだし、友人はそんなことは全然ないよなどと言う場合がある。これらは、体験とその意味付けの二節性を有していると解釈できる。

58
逆行健忘と前行健忘
retrograde amnesia and anterograde amnesia
1月1日に怪我をして意識障害が起こり現在2月だとする。事故前のたとえば12月の記憶が失われるのを逆行健忘という。事故後のたとえば1月の記憶が失われるのを前行健忘という。事故の前には記銘の障害は考えられないので、逆行健忘は回想の障害である。事故の後を忘れる前行健忘では記銘と回想の片方または両方の障害の可能性があると考えられる。

59
既視感と未視感
de’ja’ vu and jamais vu
初めて見る情景のはずなのに既に見たことがあるように感じたり、逆に、見たことがあるはずなのに初めて見るもののように感じること。文学作品の中にも描かれているという(トルストイディケンズプルーストなどにあるということだ)。体験の構造にまで言及した表現ではないので、疾患に特異性はないし、そもそもこの体験自体は健康者にも起こり、病的体験とは言えない。
しかし既視感が不思議な感じがすることは確かで、前世で体験したことだとか、個人の意識を超えた記憶がよみがえるのだと考える人たちもいる。
情景そのものが同一なのではなく、情景が喚起する内的体験が同一の構造をとっており、それゆえ軽い錯覚が起こるのだと推定される面もある。
センスス・コムニスの観点から説明できる部分もあるかも知れない。
また、視覚に限らず、体験について既体験感を感じることがある。既視感や既体験感と感じるからには、いま経験していることは自分にとって初めてのものだと分かっているはずだとの意見があるが、はっきりそうとも言えないこともある。初めてだったか、あるいは夢の中で経験したか、とあいまいに思うことがある。
既視感の場面はなにかしら情動を伴うもののようで、個人的な調査の範囲では自分にとって好ましい経験のようであった。
目の前にある情景を一瞬早く記憶に格納して、素早く回想しているとすれば、既視感が成立するだろう。
数多くの人が数多くの既視感を経験していることは確かであるから、既視感成立のメカニズムもまた普遍的で起こりやすいものであるだろう。
未視感に出会うことは少ないようである。分裂病での妄想気分に関連した世界変容感や知覚変容感も未視感と似たような言葉で表現される。「見慣れた道で、実際このあいだまでと同じなのに、でも何かがすっかり変わってしまった。同じだけれど、見たことのない街のようだ。」しかしこれは未視感とは呼ばないようだ。

60
知能
intelligence
知能とは、知能テストで測られる精神機能である。

61
痴呆
dementia
いったん獲得された知能が何らかの原因により永続的に低下した状態を指す。獲得される前に障害があった場合には知的発達遅滞である。永続的ではない一時的な知能低下としては、老年者のうつ状態でみられる仮性痴呆(偽痴呆ともいう:pseudodementia)、ヒステリーでみられるガンザー症候群(Ganser’s syndrome)がある。早発性痴呆は精神分裂病の昔の呼び名である。経過の特性から名付けられた名前であるが、必ずしも痴呆に至らないので使われなくなった。痴呆と言うよりは分裂病性の人格変化であると考えられている。

62
させられ体験
made experience,passivity feeling,gemachtes Erlebnis
=作為体験、影響体験、影響感情、させられ現象
思考や行為の自己能動性または自己所属性が失われ、「他人にさせられる」体験をいう。シュナイダーのいう分裂病の一級症状のひとつである。思考はそもそも初めから自分が考えているものであるが、思考奪取、思考吹入、させられ思考では能動性が失われ思考の主体が他者に移っている。行為では、誰かが私の足を動かす(誰かに私の足が動かされる)、感覚では性器をいじられるなどの症状が見られる。感覚面では体感異常とも分類される。ドイツと日本では重視されるものの、それ以外では重く見られないという。英訳はなんとなく落ち着かない。

63
安定剤
「先生、アイスクリームにも安定剤が入っているんですよ。びっくりしました。でも、よく考えてみたら分かったんです。食べるときに冷たくてびっくりするといけないから、気持ちを落ちつけるために安定剤が入っているんでしょうね。私はアイスクリームが好きでよく食べるから、処方してもらっている安定剤は少し減らしてもいいかも知れません。」「そうですね、考えてみます。」

64
末梢神経名称対照表
性神経 =随意神経 =動物神経

自律神経   =不随意神経  =植物神経
・交感神経  =活発神経(闘争と逃走・狩猟) =NA (α、β)
・副交感神経 =休息神経(睡眠・消化)    =Ach

さて、精神科の困った症状とは、ほとんどが交感神経亢進・副交感神経不活発の状態である。リラックスに欠けているのだ。不安状態とはこれだと言ってもいい。NA upとAch downである。睡眠は不足で、食欲はなくなり、便秘・下痢となる。常に闘争と逃走の状態におかれ、緊張と不安に支配される。
向精神薬はたいていが抗コリン作用を有する。アセチルコリン作用から見れば、これもよくないことだ。
自律訓練法とは、本来不随意な神経系を、随意的にコントロールして、副交感神経優位状態をつくり出すことである。

65
自律訓練法
autogenic training
自律神経はautonomic nerveであるから、自律神経の自律は自分を律するの意味である。一方、自律訓練の自律は自己発生的の意味であり、随意的と言ってもよい。随意的リラックス法、さらに内容を明示するなら随意的筋血管緊張解除法と呼ぶのがよい。ヨガなどの訓練の本質は何かと研究した結果、筋肉と血管の弛緩が本質であるとの結論が得られた。筋肉ならば本来随意的にコントロールできるはずで、それが結局、自律神経系の諸器官の状態を変化させるのだから、血圧、心臓、消化器などの器官はある程度随意的にコントロールできるはずのものである。持続的交感神経緊張状態に対して有効である。つまり、持続的な不安・緊張状態に対処する、薬以外の有効な方法である。

66
環境の奴隷
環境のせいで仕方なかったと考えれば、責任を免れることができる。(環境因説・他責型。)しかしそれは同時に環境の奴隷となっていることだ。人間には環境を選び取る力があるし、未来の環境をつくり出す力もある。
赤ん坊は別だが、ある程度の年齢になれば、いまの自分を決定していると考えているその環境も、自分が半ば選び取ったものである。昨日までの自分の選んだものが、今日の環境である。
環境のいいなりになる人と環境も積極的に選ぶ人の違いは何だろうか。
(たとえばIQの低い人は環境に応じた生き方しかできない。IQが高くてしかも能動的な人は環境にもかかわらず人生を選ぶことができる場合がある。→表現に難あり。)
また、神の愛を感じている人は、現在の境遇自体が神から自分に向けての問いかけであると考えることもできる。困難な環境のなかであなたは何をするのかと神に問いかけられ、生き方をもって神に答える。
人間の連帯の価値を信じている人、人類の未来を信じている人、そのほかそれぞれに環境の奴隷とならずにすむだろう。
環境にもかかわらず良く生きることは常に可能ではないだろうか。

67
生活習慣病
成人病の名称をやめて生活習慣病と呼ぼうと提唱されている。大変よいことである。習慣や行動は変えることができる。思考や感情のパターンを変えるよりは易しいことだ。生活習慣病ならば治せると感じられる。(そして、それら悪い生活習慣がなぜやめられないかを考える場合のポイントが不安である。結局は不安のコントロールの仕方の問題なのだ。)

68
境界型人格障害
不安をコントロールするために対人関係を特に異性関係を利用するパターンの人たち。理想的で空想的、強烈な対人関係で不安を癒そうとし、深い関係を常に求め、しかし常に満たされない。対人関係の始まりでは理想的空想的な人物像を投影するので激しい理想化が起こる。しかし現実の人間は患者の空想のレベルには届かないので時間が経てば失望する。失望の裏には見捨てられる不安が常に伏在している。失望とともに怒りが発生し、自分と他人に向けられる。自分に向けられた怒りは抑うつや自殺企図となる。頻回の自殺企図にもかかわらず実際に死ぬことは少ない。他人に向けられた怒りは、他責、暴力、対人操作などとして表現される。感情は強烈さを求めつつ満たされないので、空しさをどうすることもできない。家族関係は助けにならない。この空しさを満たしてくれるものは、見捨てられる不安を打ち消してくれるほど強烈な新しい人間関係だと空想して、次の行動が始まる。
微かな世間並みの幸せに安定していることはできない。幸福にしろ不幸にしろ強烈さを求め、常に不安定である。安定のなかには刺激はなく、刺激を求めれば変化が不可欠である。変化し続ける強烈な人間関係のなかで幸福にしろ不幸にしろ強い感情を感じているときだけ、生きている実感がする。これは、離人症の人たちが、血が出たときに生きているのだと実感できるとか、激しい痛みが襲ったときにだけ生きていることを実感できると述べることと似ている。
他人を振り回していればそのときだけは他人は注意を払いエネルギーを注いでくれる。それが優しさや愛と感じられる。しかし振り回していないと放って置かれて寂しくなる。見捨てられる不安が再燃する。
治療の枠はずしは彼らの好みの行動パターンである。自分のためにどれだけスペシャルサービスをしてくれるかを試す。「先生は仕事だから私に会っているだけでしょう。本当に私のことを心配してくれるなら‥‥」と言い始める。治療の場所、時間、通常してはいけないこと(性的関係など)の枠を破るよう治療者に対して要求し、自分だけ特別扱いであることを、自分に対する愛情と解釈する。このようなスペシャルサービスはいつまでも続くわけがないから、いつかは見捨てられる。見捨てられそうになる時さらに激しい対人関係のピークを体験する。このときが彼らの本当に生きている瞬間である。この痛みが不安を癒す。痛みは快感でもあり、彼らはこの痛みに飢えていると言えるのかも知れない。しかしこれは吹き出す血を見て生きている実感をつかみなおすパターンに似て不毛である。覚醒剤が身を蝕むようなものだ。
見捨てられることが恐いから、どこまでは安全か確かめておきたくなる。次々にエスカレートしているうちに、見捨てられる地点まで来てしまう。「見捨てないで下さい」と何度も念を押すために、人を振り回し続け、そのせいで見捨てられてしまうのである。構造的悪循環である。
人格発達は、一部分では非常に発達しており、魅力的である。しかし一部分は非常に未発達で、空想と現実を区別できないほど機能低下していることがある。
治療者としては枠はずしを要求されたときの対応が難しい。あまりにも明白に拒絶するとそれは患者にとっては見捨てられたことを意味する。不安は高まり、それを鎮めようとして新しい関係を探す。別の医者に行ってしまえば当方としてはとりあえずそれでお終いになるが、しかしそれでは治療になっていない。逆に、そのときは要求を受け入れてすこしだけ枠をはずしたとしても、要求はエスカレートしていつかは拒絶せざるを得ない時が来る。こうした困難に対処する方法として、治療構造を工夫することがあげられる。たとえば、治療の枠を管理する医者と、精神療法担当者とを分離する方法があり、A-Tスプリットと呼んでいる。この方式であれば、枠はずしを要求してきたときに、精神療法担当者はそういった要求をしてきた心の動きを問題にするだけでよい。実際に枠を守るように決定するのは管理医である。精神療法担当者は患者を見捨てないですむ。

69
A-Tスプリット
境界型人格障害を参照。

70
治療構造
精神療法家の愛や献身が患者を癒す、そのような素朴で幸福な関係もなかにはあるが、未熟な愛が患者をいつまでも患者のままにさせておくことも多いので注意を要する。患者を癒すのは愛でもあり専門知識でもあり治療構造でもあると、成熟した見解を持って治療にあたりたいものである。

71
思考化声と幻声
思考化声では内容は自分に属し、声は他者に属している。幻声では内容も声も他者に属している。通常状態では内容も声も自分に属するものである。自己所属感で分類すればこうなる。体験の自己所属感は体験の能動感と同じである。
誰か他人の声が「聞こえる」ということと「聞かせられる」ということとの差はあるだろうか?思考化声と幻聴はさせられ体験に含めてよい。自我の能動性が障害される状態である。
「聞かせられる」、「見られる」という場合、話す、見るの主体は他人にあり、自分はそれらに受動的にさらされるばかりである。

72
離人と能動感
古くから離人症は自己の能動感の障害と言われてきた。その根拠はどこにあるのだろうか。能動感の障害は典型的にはさせられ体験であるはずではないか。
離人感は、感覚面での能動性の障害と言える。感覚は一見すれば受動的なものであるから、能動的感覚とは何か、吟味が必要である。
(『感覚面での能動性』(?)が、「実感」「いきいきとした感じ」につながっている。? 能動性と感覚の問題は深い。)

73
強迫と能動感
自己所属感で説明すれば、行為や思考・感情は自己に所属しているものの、それが不合理でばかばかしいと思っているわけだから、内容に関しての自己所属感は「薄れて」いるようである。

74
強迫
強迫は繰り返し体験とでも言った方がいいのではないか。漢字の意味が分からない。

75
精神科疾患・診断と治療
A脳の解剖と特性‥‥神経伝達物質
Bこころの解剖と特性‥‥防衛、スーパーエゴ、エゴ、イド。
C診断‥‥診断作業の方法
・前景症状‥‥各種状態像
・病態水準‥‥鑑別
病前性格‥‥典型像
・環境状況‥‥家庭、職場
・検査‥‥心理検査・画像診断・脳波・身体的診察
・背景病理‥‥伝統的診断、外因・内因・心因
・児童
・痴呆
D治療‥‥選択法
・薬
・精神療法・カウンセリング
・社会復帰療法・環境療法(DC)
F制度
・法律
・利用可能な制度・相談窓口

76
頭部外傷後人格障害
頭部外傷後に脳の上位機能が失われることによる症状と、それに伴う下位機能の亢進による症状が現れる。上位機能欠損としては抑制欠如、道徳感情低下、自発性減退などが見られる。下位機能亢進としては本来の性格の先鋭化がおこり、爆発性性格、多幸傾向などが見られる。

77
防衛機制
いろいろな種類があるが、現実の歪曲が激しくなるほど、低次のものとなり、自分や周囲におよぼす害も生まれてくる。?現実Aを存在すると半ば認める。健康型。?現実Aは存在しないと考える。→抑圧型。神経症タイプ。?現実Aは存在しないどころか、現実Bが存在するとして、現実解釈をねじ曲げる。→精神病タイプ。現実検討が損なわれている。
(現実検討の点で言えば、?だって損なわれているはずではないか?)

78
治療者は患者の何を受け入れ、何と連帯するのか?
患者の精神機能は全面的に病的なわけではない。部分的に病的であったり、一時的に病的であったりする。したがってたいていの場合、健康な自我機能は残されていて、治療者が、患者の健康な自我機能と連帯するチャンスは常にある。
病的部分と健康部分とを分けて考えると、健康部分の悩みを受け入れ、健康部分と連帯すればよい。病的部分と健康部分の区別がはっきりしなくなることが精神病の特徴である。区別がはっくりしなくなったとき、区別を再びつけられるよう援助するのが治療者の役割である。病的部分があっても、それを病的と認識できていれば、病識があると言う。病的部分と健康部分の区別をする認知機能は病気におかされていないことになる。

79
空想と夢の意味
現実検討能力を問題とするとき、簡単に言えば、現実と夢・空想・想像を区別する能力を考えている。心の内容と外部現実の区別と言ってもよい。
一般の人に、「夢見る力・空想力・想像力は大変重要なもので、それを否定するようなまたは軽視するような精神医学は浅薄である、患者さんから夢や空想を奪い去るのか、かわいそうすぎる」と非難されたことがある。
空想・夢・非現実と言っても、「自分が国連事務総長だったら‥‥をしてみたいのになあ」という普通の言い方と、「自分は国連事務総長だから‥‥をしてあげますよ」とまじめに言うのとでは意味が違う。当たり前のことである。現実検討能力で問題にしているのは後者である。
一般に言う、夢や空想は、将来の希望であったり、かなわないまでも心に抱き自分を勇気づけるものであったりする。一方、現実検討のことを話す場合の夢・空想は心内のイメージやファンタジーのことであって、幻覚妄想状態のときの心の中にあるものと言ってもよいものである。現実検討能力を現実と妄想を区別する力と言えば分かりやすいが、定義から、妄想は現実とは区別されないものである。現実ではないと判定されたものはイメージとかファンタジーとか呼ぶしかなく、日本語では夢・空想などの言葉を当てている。「心の内容」くらいが穏やかな言い方だろうか。
さて、よく考えてほしいのだが、夢や空想を悪いと言っているのでは決してない。心の中で考えたことがそのまま外部の現実であるかのように思ってしまうところが問題だと指摘しているのである。心の内容と外部の現実を区別できなくなっているとき、精神病状態と呼ぶ。

80
施設によって異なる病像
大学病院と古くからの大病院と街中のクリニック。これらでは出会う病気のタイプも異なり治療も異なるようである。古くからの大病院の入院治療を担当すると、昔からの精神医学教科書が大変役に立つ。クレペリンやシュナイダーの偉さがよく分かる。大学病院の勤務では最近の雑誌報告などがとても役に立つ。街中のクリニックではこれらと少しずつ差がある。古い大病院ではクレペリン以来の精神分裂病躁うつ病神経症、性格障害などといった診断学が充分に役立つ。クレペリン以来の伝統的な精神医学は入院治療を中心に考えているらしいところもあって、入院治療に際して役立つのは当然と言えば当然である。しかし街中のクリニックでは役立たないことがある。なぜか。
街中のクリニックに来る人の中には病気のはじまりの人もいる。病気の始まりの時には、いろいろな病気で共通のこともある。非特異的な症状だけが前景に立ち、たとえば、不眠、食欲不振、集中力欠如、うつ状態などが問題になっている場合、一体どんな病気であるのか、判定に根拠を欠く場合がある。
時間が経って、各病気に特有の症状が明らかになるにつれ、診断は容易になる。この時期には入院治療の必要なことも多く、古くからの診断学が役立つ。

81
ファイナル・コモン・パスウェイ
final common pathway
脳の疾患について病理の性質が多少異なっても、極度に至れば同様の痴呆状態に至るという考え方。最終共通経路。
はじめは共通・自律神経症状や不安症状(たとえば街中のクリニックに初診する。また、神経科ではなく内科などに相談に行く。)→各病態に応じて特有の症状(入院治療)→最後は共通・痴呆や意欲減退状態

82
アルコール幻覚症
alcoholic hallucinosis
アルコール中毒症者にみられる、幻聴を中心とする特有の幻覚状態。本質についての議論は見解が分かれていて、?離脱症状、?潜在していた精神分裂病が顕在化したもの、?独立の器質性精神病、などの考え方がある。「殺される」などの被害的・迫害的な幻聴があり、自殺、自傷、遁走、放火、他害などの問題行動を引き起こすことがある。たとえば自分の腕をノコギリで切るなどの取り返しのつかない悲惨な行動化を引き起こす可能性があることに注意する必要がある。

83
アルコールと薬剤の相互作用
【参照】チトクロームP-450
夜に薬をのんでその上にアルコールを飲んだらいけませんかとの質問がしばしばある。「いけません」が答えであるが、理由は次の通りである。
アルコールが肝臓で代謝・分解されるときには、肝臓にあるチトクロームP-450が必要であるが、P-450は同時に薬剤の代謝にも使われる。先にアルコールを飲んでから薬をのむと、まずアルコールの代謝のためにP-450は使われてしまい、薬の代謝が滞ってしまう。薬の分解が遅れると、強いままの作用がいつまでも残る。そこで薬の効き過ぎが起こる。逆に薬を先にのんだ場合には、薬がP-450を使ってしまうので、アルコールの代謝が遅れる。酔いがいつまでも残ることになる。
また、慢性飲酒の場合には普段から大量のアルコールを処理する必要があるのでP-450が増加している。その状態で薬をのむと、大量のP-450は薬を速やかに分解してしまうので、通常量よりも多い薬剤がないと普通の効き目が現れない。したがってアルコール中毒症者には麻酔薬や精神科の薬が効きにくく、さめやすいことになる。手術を受けるときには注意が必要である。

84
アルコール性肝障害
アルコールを飲んでいてまず心配なのは肝臓であろう。アルコールが原因となる肝障害としては、アルコール性脂肪肝から始まり、アルコール性肝線維症、アルコール性肝炎、アルコール性肝硬変と要注意の病気が並ぶ。そろそろ危ないかなと注意すべき目安としては、
? 清酒で3合以上(純アルコール量にして60グラム以上)を5年以上飲み続けているとき。
? 検診でγ-GTP高値、高脂血症、肝腫大が指摘されたり、手指に震えがみられるとき、顔面の毛細血管が拡張しているときなど。
?禁酒すると?、?が改善するとき。
などがあげられる。

85
アルコールと妊婦
妊娠中の飲酒によって胎児に主として知的発達障害が生じることが、現在では世界的な常識であるとされており、胎児性アルコール症候群と呼ばれている。精神・運動発達遅滞、記憶力低下、情動不安定、多動、注意散漫などが観察される。一日純アルコールにして60cc以上が危険量と言われているが、「子供を望む母親は飲酒を中止すべきである」と勧める専門家が多い。妊娠しそうなときや妊娠が分かったときはアルコールを控えるのが安全らしい。

86
アルコールのフラッシャーとフォーマー・フラッシャー
アルコールの代謝に必要な酵素のひとつであるALDH2が欠損していると、少量の飲酒で顔が真っ赤になる。このような人をフラッシャー(flasher)と呼ぶ。以前はフラッシャーだったが、鍛えて大酒家になった人はフォーマー・フラッシャー(former flasher)と呼ぶ。最近、飲酒と咽頭癌、食道癌の関連が指摘され、ALDH2欠損者に危険が高いという。研究によれば、「酒を飲み始めて最初の数年はすぐ赤くなっていたが、次第に酒に強くなった」という人はフォーマー・フラッシャーであり、消化器癌に注意すべきである。

87
アルコール性痴呆
alcoholic dementia
アルコール中毒症者の10%が痴呆症になるとのデータがある。アルコール中毒症者はビタミンB1欠乏によりウェルニッケ・コルサコフ脳症になり、ニコチン酸欠乏によりペラグラ脳症になり、肝障害にともなって肝性脳症をおこす。これらが広義のアルコール性痴呆に含まれるが、このほかに、栄養障害や肝臓障害がなく痴呆を呈するものがあり、これを狭義のアルコール性痴呆と呼ぶ。記憶障害、判断力低下、感情鈍麻などがみられる。CTでは前頭葉を中心とする脳萎縮所見が確認されている。アルコール中毒症者には特有の判断や認識の甘さ、自己正当化、思考の貧困、感情変化などがみられ、痴呆と言うほどではないものの、単に性格変化とだけ言ってすまされない、器質性の変化を想定させる面もある。これらも前頭葉を中心とする脳萎縮所見と関連しているらしい。脳萎縮は断酒により改善傾向を示すことが特徴である。

88
潜在性肝性脳症
アルコール性肝障害があっても特に異常なく生活している人が、鋭敏な神経機能検査によりはじめて異常が検出される場合がある。患者に自覚症状はなく、周囲の人々もはっきりとは気付かないことがおおい。判断力や決断力の低下がみられ、注意散漫となり、自動車事故や労働災害を起こしやすいという。WAISでは言語性能力は正常、動作性能力(符号、積み木問題)が低下する。CTでは前頭葉中心の萎縮所見がある。欧米では潜在性肝性脳症は顕在性肝性脳症の2〜3倍と推定されている。

89
アルコール精神病
alcoholic psychosis
アルコール依存症を基礎として発病する精神病。アルコール性幻覚症、アルコール性嫉妬妄想、アルコール性ウェルニッケ・コルサコフ脳症、肝性脳症、アルコール性痴呆、離脱症状の一つとして振戦せん妄(離脱せん妄)、などが含まれる。このような状態に至る頃には、家族関係も仕事関係も悪化していることが多い。

90
アルコール性嫉妬妄想
alcoholic jealousy
アルコールは性衝動を高めはするが、アルコール中毒症者ではインポテンスが少なくないため、結果的に性生活は不満足なものとなり、病的嫉妬に結びつくと言われてきた。学問的には、アルコール中毒が、嫉妬妄想にどのくらい直接に結びついているのかについて見解が分かれている。アルコールにより脳が損傷され、全般に妄想に陥りやすい状態が準備される。ここから嫉妬妄想になるか被害妄想になるか、その他の妄想になるか、それは状況が決めることで、アルコール中毒症者の場合、夫婦仲が悪くなる、経済的に行き詰まる、友人からも見放される、インポテンスになるなどの条件の中で嫉妬妄想が形成されるのであろう。このように見てくれば、アルコール中毒症と妄想反応との二段階に考えることにも理由がある。

91
自我障害
離人体験やさせられ体験、自我漏洩症状などを指す。ドイツ精神医学では、自我意識の特性として、?能動性?(同一時間の空間的)単一性?(過去現在未来にわたり一貫している)同一性?外界や他者との間の境界があることがあげられ、それぞれの障害により自我障害が発生する。?の能動性が障害されれば、離人体験やさせられ体験が生じる。?が障害されれば、自我漏洩として思考伝播などがみられる。
自我障害は種々の疾患でみられるが、とくに精神分裂病の症状として重要であり、シュナイダーの精神分裂病の一級症状は主に陽性自我障害を指標としたものである。精神分裂病の本質として自我障害を考える流派はいまもある。

92
自我漏洩症状
egorrohea symptom
「自分の中から何かが漏れる」症状を指す。臭いが漏れるのは自己臭妄想や体臭恐怖、思考が漏れるのが思考伝播、自分の視線が他人に迷惑をかけていると感じられるの自己視線恐怖、自分の醜さが他人に迷惑をかけると感じられるのが醜形恐怖。いずれも自分の中の何かが外に出て他人に迷惑をかけているものである(加害妄想)。さらにそのために他人は自分を嫌い避けていると考えるようになる(忌避妄想)。させられ体験は逆に、自分の外の何かが自分の内に入ってきて自分に迷惑を及ぼすもので、方向が逆である。自我境界の病理として自我障害のひとつと考えられる。思春期妄想症との関連で提唱されたもので、思春期妄想症や重症対人恐怖の場合にしばしば見いだされるとする。臨床場面では確かに青年期の対人恐怖症の場合に自我漏洩症状を伴う場合を経験するので意味があると思われる。精神分裂病境界型人格障害、重症対人恐怖症などと関連がある。

93
思春期妄想症
adolescent paranoia
自我漏洩症状・加害妄想・忌避妄想・重症対人恐怖などを特徴とする、おもに思春期に発生する妄想症。背景病理としては重症神経症の場合もあり、境界型人格障害精神分裂病の場合もある。外来診療で少なからず出会うので、わが国の臨床的疾患単位として意味があると思われる。治療は背景病理に対しての治療を考えればよい。

94
一級症状
first rank symptoms
精神分裂病の診断に際して第一級の重みを持つとしてシュナイダーがまとめたもの。思考化声、問答形式の幻声、自己の行為に随伴して口出しする形の幻声、身体へのさせられ体験、思考奪取やその他の思考領域でのさせられ体験、思考伝播、妄想知覚、感情や衝動や意志の領域に現れるさせられ体験があげられている。これらがみられて、身体的基礎疾患が見あたらないなら、臨床的に控えめに分裂病と診断してよいとされる。

95
思考化声
thought echo ,echo de la pansee,thought spoken out loud
=考想化声、思考反響
自分の考えが、他人の声になって聞こえてくる状態。分裂病の一級症状の一つ。

96
思考吹入
thought insertion
=考想吹入
考えが外から吹き込まれて自分の頭に入ってくること。させられ体験の一つで、分裂病の一級症状の一つである。「考えが入れられるんです」と訴える。

97
思考奪取
thought withdrawal
自分の考えが他人によって抜きとられる体験。分裂病の一級症状の一つ。

98
思考途絶
blocking of thought
思考の進行が中絶し、停止する状態。主観的には思考奪取の結果と感じられる場合もある。

99
問答形式の幻声
単に問答形式と言えば、第三者同士が問答しているものと、二人称者と自分が問答するものとの二種が考えられるが、どちらも精神分裂病の診断にあたって重要であるとされ、シュナイダーによる分裂病の一級症状のひとつである。

100
破瓜病
Hebephrenia
破瓜型分裂病のこと。解体型分裂病とも言う。破瓜とは「処女膜が破れる」意味で、思春期のこと。思春期に多い精神病であるから、こう呼ばれる。分裂病の中でも陰性症状が中心で、自閉や感情鈍麻がみられる。分裂病は破瓜型、緊張型、妄想型などと分類されるが、おのおのの要素をいくらかの割合で持っている場合も多いので、特に典型的な場合以外は下位分類を特定しない医師もいる。

3061
「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店
・「励まさないで受けとめる」ことの大切さ。
・ぎりぎりまで頑張ってきた人にとって、励まされることは、自分を否定されることに等しい。
●なるほど。うつ病のときの説明に使える。
・受けとめる……存在を肯定すること。
・よい子とは、社会と学校と教師と、なによりも親の期待に沿う子供。自分が本当は何を望んでいるか忘れてしまい、自分の本当に望んでいることは、親が望んでいることと同じだと錯覚してしまっている子供。それ以外に考えられなくなっている子供。本当の自分を抑えているという気持ちさえない。
●北口外来に来ている女子大学生に似ている。前回は母親が金沢から上京し、二人とも泣いて話していった。「母は面倒くさいことはお金で解決すると思っている。わたしが望んでいるのは、苦しんでいるのは、そんなことではない。そう言うと、じゃあ、どうすればいいのか。お母さんは分からないから、教えてと言われてしまう。そういうことではない。それを考えて欲しいということなのに。」
●娘の苦しみを受けとめて、共苦する気持ちがない。「時間がないから」とわたしにも語った。では仕事の時間はあっても、娘の大切なことにつきあう時間はないのかということになる。「時間がないから。お金なら何とかする」そんな態度である。
しかし全体としては普通の人である。「一生懸命育ててきて、いまになってそんなことを言われるなんて、もうどうしていいか分からない」という。素直である。
●「わたしが若い頃は、住み込みで働いたものだ。忙しくて厳しかった。あれこれ考えている暇なんてなかった。」「お母さんのそんな話、はじめて聞いた。」など。対話がない。

3062
「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店
・「励まし」は否定の言葉。「受けとめる」は肯定の言葉。
・受けとめられることで、孤独から解放される。
・苦悩に耳を傾け、共感し、共に分かち合おうとしてくれる誰かに出会うことができれば、孤独から解放される。「出会い」によって、他者とつながり、世界とつながる。
・「もともとの問題」が「受けとめる」ことで解決されるわけではない。
・親や教師が子供を指導することや教えることは、つまり否定する方向である。
●うつ傾向の人は、「自分を作り変えたい。もっと別の自分になりたい」などと思う人も多いのではないだろうか?その一方で、他人に「変わらなければならない」などといわれると反抗したくなるのではないか。
もともと「否定」の方向になじんでいて、否定の方向が人生の基本スタンスであるという人もいるのではないか?
●このままの自分を受け入れてもらうことが治癒の一つのステップであることは確かだと思う。しかしそれだけではない。受け入れること(positive concern)が常にall goodとは限らないだろう。その点で著者の論は一面的である。
●ありのままの自分では親に愛されない。だから別の自分を必死で作る。そこに無理が生じて、悩みが深まる。そのような言い方。しかし人は誰しもそのようにして自分を作るのではないだろうか?

3063
医者の仕事にも、死ななければいいという仕事と、もっとよく生きるよう手助けするという仕事とがある。
さくら病院に勤めていても、要するに生命を維持することを仕事だと思っている人と、生活の質を問うことを仕事だと思っている人とがあるようだ。
外来の精神科医の仕事は、今日がダメならもう死ぬということもない。その点では生活の質の問題を扱っていることになるだろう。
取りあえず生きているからそれでいいとする医療になれた人が看護に当たっているようでは、療養病棟として健全に機能するとは考えられない。

3064
「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店
●つまりは「子供と人格として出会うこと」を教師や親に要請しているとまとめることができる。
・指導や教育や励まし。これらが負の価値評価として子供に突き刺さる。
●確かにそうだろう。たとえば先日の女教師殺人事件。授業に遅れるなとか、「当たり前のことをしつける」教育をしていた。そのことで生徒は「キレた」。
抑圧のあり方から考えることができるだろう。抑圧を内在化してしまえればそれで問題は起こらない。そこから先はヒステリーの問題である。個人の、イントラサイキックな問題である。
しかしこの抑圧は、教師や親が何かのお先棒を担いでいる印象がある。もっと巨大で、悪しき抑圧の末端組織として教師と親がいて、生徒は現在も将来も、その抑圧のシステムに屈服し続けるしかない。そのような圧倒的な息苦しさが背景にあるのではないか。
(こうなってしまうといかにも新聞論調めいているが)
●多分、子供のそばに寄り沿って、肯定しているだけで、生徒は自分の内部に、よき自分を育てるだろう。そのようにしてない在化されたものは抑止力となるだろう。
たとえばドストエフスキーが、カラマーゾフで描いたような、友情や理想を子供は持たないのだろう。
人生は良いものだ、自分達はよいものになることができるのだと確信できないのだろう。
親と教師は人格肯定の価値システムを持たないというのか?
よい子なら愛するが、悪い子なら愛を撤去する、そのようなギブアンドテイクばかりではないだろうと思うけれど?

3065
いかにして価値創造的に働くことができるか。そこに真の生きがいも生まれるだろう。

3066
「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店
・共感の大切さ。悪いことをした場合でも、説教されるようなことをした場合でも、事情を聞いて、共感できるものかどうか、試みる。指導するだけではなく、共感を試みる。それが大切。
●なるほど。悪にも動機がある。そしてこの動機が理解できなかったり、状況からの共感が無理な場合、精神病が考えられるというわけだ。
その点では精神医学的なものの考え方でもある。
●そもそも、子供は子供で価値の内的システムがある。それが壊れていない限り、共感は可能である。そのレベルでのつながりがない。それが現在の教育状況の中での最大の問題であるというわけだ。
●倫理は言葉で伝えられるものではない。実際の人間の態度により、実際の人間に接することにより感化されて、倫理が染み込むのだろう。
司馬遼太郎「街道を往く」で、長州・薩摩を紹介していた。武士は公に仕えるものである、私心は厳禁である、能力のあるなしが問題ではない、私心のあるなしが問題である、このような風土があり、西郷隆盛の動きと関係しているとする。長州では現在でも、吉田松陰の言葉を学校で復唱して学んでいるという。
●たとえよいこと・正しいことを教える場合でも、教える態度の如何によっては、反教育的である。子供は善悪の判断がつかないのではない。むしろ、悪いことだと知っているから、わざとやっている。それがなぜなのか、そこが問題である。どのようなメッセージがあるのか。あるいは病的な現象なのか。
●教育(特に倫理教育)とはつまり、内的価値システムを形成することである。そのために何が役立つか。真に倫理的な人間を教育に従事させることである。

3067
「よい子」という病 春日耕夫 岩波書店
●子供たちの欲求は何に向かっているのか。それが分かりにくいのか。「分かりにくい」というのは大人・体制側の否認なのか。
・「よい子」であること、社会が要求する人物像であることが、本当に自分に利益をもたらせば、人はそのようになるだろう。脳内の利益の天秤とはそのようなものだ。
しかし、社会からの要請に真面目に応えていても、結局は自分のためにならないのではないかと気付いたとしたらどうだろうか。
自分の利益を守るためには別の道がよさそうだと感じたらどうだろうか?その時から、大人の指導に真面目にしたがうことはばかばかしくなる。現代は情報が洪水のようにある。優良図書ばかりを読んでいるわけではない。テレビもある。子供もその程度の「大人の事情」は承知しているのではないか。
特に、教師というものがどんなものであるか、人格について、子供は知っているだろう。そんな人にそんなことを言われたくないと感じる子供だっているだろう。
●この本は精神医学の一歩手前の記述のようだ。精神医学の言葉でもっと深く語ることができるのではないか。
●教師・親の態度として、CPだけが目立つのではないか。NPがもっと豊かに発揮されていればいいのにと思う。
●つまり、筆者のいう「よい子」とは、ACが高い子ということだ。大人はもっぱらCPで対応している。それがいけない。大人はNPで子供に接する必要がある。また、子供はFCをもっと発揮しなさい。
典型的なよい子は、ACを発達させていて、同時に、CPも発達させている。社会のCPに合わせてせるのがこの人のACということになる。

3068
子供の生育環境
・母親が外で仕事
・育児に時間をかけず金をかける

3069
女性がおむつを当てていると便と尿が混じりあい、性器を大腸菌が汚染する。
おむつに工夫をして大便と尿が混じり合わないような工夫はできないか。
あるいはおむつに生理用ナプキンを組み合わせることで、ある程度汚染を防止できないか。

3070
老人用の薬剤の工夫。
ゼリーに混ぜて作っておく。
シロップを多用する。
セレネース水も万全ではない。入れるタイミングを逃したりする。
悪くすると粉薬をふりかけのようにして混ぜることにもなる。その場合には、ある程度味の濃い食品の方がいい。また、味の濃いふりかけと一緒にした製品があればとても好都合である。
多分、薬事法の関係で難しいと思うけれど。

3071
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●語ることの禁止は、孤独の強要でもある。
・曖昧さと共存して生きるすべを学ぶ。完全な想起は難しい。治療者も完全ではない。
・治療者の役割をオープンな共感的な聞き手であり証人であって、探偵ではない。
・現実全体の受容というものは人間の耐えられる限界を超えているのではないか。
●なるほど。だからこそ、現実を作り変えたりする。仕方がないのかも知れない。現実は過酷すぎる。そんな現実を生きることができるほど強くはないとしても、仕方ないではないか。
・真実を語ることの自然治癒力
・外傷物語を再話し、人格への統合を目指す。
・語ることによって外傷ストーリーは証言となる。患者の個人的体験に新たな、より大きな次元を付与する。これを「らニュー・ストーリー」と呼んでいる。「もはや恥辱と屈従の物語ではなく」「威信と徳性の物語である。ストーリー・テリングを通じて、失っていた世界を取り戻す。」
●ニュー・ストーリーとは懐かしい。ニヒル唯物論はエックルスの認識論的次元のトラウマであった。それを語り直す治療の試みが必要であった。それがサイエンス・ニュー・ストーリーである。
ラッセルのような人は強いのか鈍感なのか、このような「癒し」は必要でなかったらしい。
●語ることによって乗り越えられるとすれば、トラウマだけではなく、精神科の種々の領域で有効ではないか?小説を書くように、精密に体験を再構成することが癒しとなる。なぜなのだろう。
語ることができたとき、すでに乗り越えているのかも知れない。語ることができたとき、支配権を取り戻している。

3072
CPとNPと教育
親や教師の態度として、CPとNPの適切なブレンドがなされているか?例えば、日本の好まれる指導者像は、NPタイプだろうと思う。テレビで見かけた水戸黄門など。
NPの上に乗ったCPでなければ、反発を招くだけである。

教育は、裁判官や検事のようなCPを発揮するだけでは足りない。育てるという観点が不足しているのではないか。
育てる技術というものがあるだろう。「AさせたいならBさせる」技法。

女教師刺殺事件では、結局教師がCPだけを発揮していたという面がないか?NPで他人に接することは難しい。NPで接すると裏切られることも多いだろう。
親子の間では裏切られたとしても、長い間親子でいるわけだから、なんとか償いもつくというものではないか?親が損をすればするほど、子供は得をしているわけで、親としてはそれでも納得できる面があるかも知れない。

教育はNPとAを中心にして進められれば充分である。教育の立場の人がCPを発揮することはあまり有効ではないように思う。
教師自体が未熟で、CPをうまく発揮できないのかも知れない。

NPにつつまれた和やかな時間をいいものだと感覚している人が必要だ。「甘え」はこのあたりに関係があるのではないか。

3073
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・外傷性記憶を変貌させる方法として、フラッディングと証言法がある。
・フラッディング法。まず、リラクセーション・テクニックを教える。次に患者と治療者とは共同で慎重かつ周到に外傷事件を詳細にわたって記述するスクリプト(筋書き台本)をつくる。スクリプトには、文脈、事実、感情、意味の四つが含まれている。次に患者は声を出してスクリプトを治療者に読み聴かせる。動詞は現在形を使う。患者はできるだけ全面的に自分の感情を表現する。週一回、平均12〜14回行う。
・証言法。話をテープレコーダーにとり、逐語的にテープから起こす。治療者と患者は共同でこの記録を校訂する。校訂の段階で、患者は断片的に散在していた回想を首尾一貫した一つの証言にまとめることができる。
・語りというものの構造を利用して、安全な人間関係のコンテクスト内で強烈な再体験を行わせる。
・「ストーリーを語るという能動的な行為」を保護的な人間関係の安全な状況で行うことは、外傷性記憶を異常に処理しようとしている過程に本当に変更をもたらすらしい。記憶の変貌と共にPTSDの症状軽快が起こる。言語を活用することによって症状が軽快する。
●言葉とはそのような機能があったのか。伝達の道具や記憶の道具、また思考の道具としてだけでなく、記憶の再構成、外傷性記憶の癒し、心を立ち直らせる薬として役立つ。これは言語学での重要な発見となるのではないか?
体験を「語りうるものにする」時、体験を消化している。体験から何を学ぶべきかを知っていることになる。体験に対して支配の立場に立っている。

3074
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・いくつかの断片がぴたりとはまって、絵の新しい部分が見えてくる瞬間。
・紐やリボンをいじらせて過去に誘う年齢退行技法。
・事件の新しい理解と意味。
●事件に対して、新しい角度から光をあてる試み。別の角度からのスポットライト。
・服喪追悼。悲しみを拒否することは加害者の勝利を否定する方法であり得る。しかし、服喪追悼を勇気を証する行為であるとすることが大切である。
・悲しめなければ、癒しの重要な部分が抜け落ちてしまう。
・悲しみも含めて、感情のすべての幅を感じる能力を取り戻すことが加害者に抵抗する行為である。
●原著者の言語システムと、役者のそれとがずれている。それが問題である。
・復讐、許し、補償により魔法のように一挙に解決する幻想。
・現実には復讐空想を反復していれば苦痛が増すだけである。自己イメージを卑しいものにする。復讐は負わされた傷のつぐないにはならない。傷を変えることもない。
・おとしまえをつけることは不可能である。
・次第に正義の憤慨に変わる。他の人々と手を携えて加害者にその犯罪の弁明責任を問う過程が始まる。
・復讐幻想は、加害者と被害者が共に入る牢獄である。
●被害者は共同して告発の態度をとる。公共の場で償いが与えられるという発想が根底にある。それにしても何か悲惨なイメージである。
●いずれにしても清算されることのない運命なのだ。マイナスをプラスに転換する魔法があれば別だけれど。魔法しかない。あるいは忘却。しかしときに傷は蘇り、被害者を苦しめる。
3075
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・逆に許しの幻想もある。優越者としての愛の行為。しかし外傷を消し去ることは不可能である。
・加害者が自分にとってつまらない存在になる。関心がなくなる。これは許しではない。
・適切十分な賠償などありはしない。
・償わせ幻想は回復の進行を遅らせる。
・賠償のための闘争に入れば、成功するかどうかは加害者の気まぐれ次第となる。賠償を諦めたとき、患者は加害者から自由になる。
・償いを、社会的、一般的、抽象的な過程と考えるようになる。
●個人的な怨恨にのみ限定しない態度ということか。
・患者が不安をコントロールするために治療者に抱きしめて欲しいと願ったとき。それは愛人か友人の役目だ、どうして治療者にそのような役割を期待するのか不思議だと返す。
しかしまた、治療者はその程度のことで役に立つならと思ってしまうこともある。そのようなことが治療になると思ったときは、全くものが見えていないということだ。
・治療者の最善の方途は物語の誠実な証人になることである。
●これが全体を貫く大切な方針。
・患者には回復の責任がある。この責任を引き受けることが患者を強くする。
・生存者は与えられた危害には責任がない。しかし自分の回復には責任がある。これが回復の主導権を自分で握ることにつながる。破壊されないで残っている自分の強さに気付く唯一の方法はそれを全面的に活用することである。

3076
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・強圧に屈して他人を裏切った政治犯や子供を守れなかった被殴打女性は、自分が加害者よりもなお悪質な罪を犯したと感じる。
●ソフィーの場合。
・自分を被害者だとしか思っていない間は、途方に暮れるばかりだった。子供たちに対しては自分に責任があることを認めることによって始めておのれのパワーとコントロールを取り戻す道が開けた。
●このあたりは不思議な心の動きである。自分のことについては途方に暮れていても、自分の子供に対して責任があるといわれると、現実的な対処能力を回復する。なぜか。
多分、保護者役割の回路と、自分で自分を律する回路とは別なのだろう。ある種の「ダブルスタンダード」状態であろう。
・自分は死者であるという空想。愛の能力が破壊されたからという。
●このあたりも聖書の文明の言葉遣いであろう。
・愛の能力が残っていることの確認。動物や子供に対しての感情など。
・外傷の再構成期に時間が停止する。この過程を避けて通ることはできないし、速めることもできない。
・何度も繰り返しているうちに、外傷ストーリーを話してももはや強烈な感情がかき立てられなくなる瞬間が来る。それた生存者の体験の一部となったのである。それは体験の一部に過ぎない。今や外傷体験は他の記憶と変わるところのない記憶である。他の記憶が時間と共に色あせるように、色あせ始める。その生々しさが薄れる。外傷が人生のストーリーの中でもっとも重要な部分ではなく、もっとも興味ある部分でもないようだと生存者は気付く。
・外傷を忘却し去ることはできないが、人生の中心を占めなくなることはある。

3077
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●このようにして加害者の罪を不問に付すのか?償われることのない罪。清算されない罪。永遠に空間を漂うのか。そして傷ついた魂も、永遠に漂うのか。清算を求めて。しかし得られず。
●忘れられるのは、結局現在にさして影響を残さなかったからだろう。現在に明白に爪痕を残している場合、また、あり得たはずの現在を失い、外傷事件の結果として現在がある場合、やはり埋めることのできない感情の虚空がある。人をも世界をも、許さない。
・外傷事件により、人生を意味あるものとしてきた古い信条は掘り崩された。これからは自分を支える信念を改めて発見しなければならない。
●本当に?このような信条や世界観の問題ととらえる人はどれだけいるだろうか?怪しいものだ。相当の知的能力を必要とするのではないか?
このあたりはいかにも読書人好みの話題である。臨床的に普遍性があるかどうか怪しい。
近親姦の被害者は、強者は思い通りのことができて、決まりや取り決めなど問題にならないということをたたき込まれてきた。普通の親しい関係では何が正常で、健全で平均的で、典型的かをもう一度教育し直さなければならない。
●圧倒的な力による支配に蹂躙された人。分裂病者の自明性の喪失の感覚に、こうした外傷性の要素が混入していないか?
●結局、分裂病という事態との対比で呼んでいるところがある。多分、分裂病という名で語られることはあらゆる雑多な人間的事象を含んでいるのではないか?およそどのような事態であっても、分裂病的側面を論じることができるのではないか。分裂病はそのように拡散した概念であるということになる。あるいは分裂病者を論じるのだから、人間のあらゆる面が話題になるというだけのことか。

3078
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・心的外傷体験の核心は、孤立と無援である。回復体験の核心は有力化と再結合である。
・自分が被害者であったこと、後遺症として何が起こったか、これらを理解する。これは外傷体験の教訓を人生に組み込む準備ができたということである。
●まず準備として、事態を学問的に理解する方法があるだろう。その理解の上に立ち、感情を追体験する。そして体験を消化し噛み砕き、栄養とする。
●しかしながら、患者にはこうした説明が有効でない場合もある。患者が何を求めているか、どのような疾病モデルと治療モデルを持っているか、そのあたりを把握することが大切だ。これが患者治療学の基本である。疾病治療学とは別の次元である。
・わたしは世界の中にいても安心だ。わたしには力がある。そう感じること。
・たたかうことを学ぶ。
・生存者は自分の外傷後遺症は、危険に対する正常反応が誇張されて病的になったものだと理解する。
・恐怖に積極的に立ち向かうことができる。これは外傷の再演ではない。意識的、計画的になされる。
●劣等性のスティグマを捨てることができる。それは大切だ。
●自分の人生を肯定し、享受するようになるまで。自分の人生を肯定して慈しむことができる。何て素晴らしいことだろうか。世界と人間に感謝することができる。
・アドレナリンの湧いてくる感覚に慣れる。
・プレッシャーを感じたとき、どのように落ち着き、どのように呼吸すればよいかを教える。自分の中にある貯水タンクは思ったより大きいことを悟る。

3079
シェークスピアを読むこと。これまでも読まれ、これからも読まれるであろう古典作品の持つ命に、自分も触れる、自分も参加するという感覚。そうした点で意味があるという指摘。
なるほど。そうかもしれない。人類の継続性の感覚、共有の感覚。参加の感覚。

3080
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・トレーニング・プログラム。脅迫に対する反応の再条件化(条件付けのやり直し)
●強烈な体験の時には、一種の刷り込みが起こる。強烈な刺激に対して、正常反応の延長にあるものの、誇張され病的となった反応が固定される。
それを消去するのが治療操作ということになる。
●これを単に、非合理的で、目的にそぐわない反応であるとしてしまえば、患者は救われない。
被害にあった上に、その後遺症を引きずるのは異常であると非難されたら、つらすぎる。
強烈すぎる体験に対しての、正常な反応であると定義する。異常と見えるのは、刺激(体験)が異常だったからだ。その異常さに対応するために、過剰な反応が起こっている。したがって、症状は、患者の異常を示すものではなくて、体験の過度の異常さを示すものである。
このように定義してやることで、「患者の、症状のとらえ方に起因する自己否定的構え」を解除する。
・危険に対する正常な生理的反応を再建する。外傷が破壊した「行動体系」を再構築する。
●行動理論である。
・現実本意の対処行動を学び、その有効性を味わう。
・恐怖にもいろいろな程度があることを学習し直す。
・目標は恐怖を根絶することではなく、恐怖と共に生きることを学ぶことである。さらには恐怖をエネルギーの源泉、勉強の機会として活用する方法を身につけることである。
●森田的センス。

3081
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・「犯罪に対する責任があるのは加害者だけである」このことを明確にしておかないと、事件を検討することは、またしても犠牲者を非難する行為となってしまう危険がある。
・肯定的・建設的な自己検討。破壊的な自己非難との違い。
●グループ・ワークでの展開で、この二つの違いを見分ける必要があるのではないか。他者に対する「破壊的非難」と、「肯定的建設的検討」との区別。
・自分自身と再結合する。
・治療者に対する好感と理想化の違い。好感は他者との再結合の一つ。
●なるほど。
・自分の限界にも治療者の限界にも許容的となる。
●治療者の限界を非難しているとき、理想化の裏返しと見る。また、もっと広く、現実検討の喪失と見る。
・インティマシー(親密関係)の再建。
・外傷体験者は、青春期に発達する対人的スキルが欠けていることが多い。
●欠けているから補うと発想するか、欠けているままで生きていく方法を考えると発想するか。
分裂病者の場合、こうした意味でのスキルの欠損もあるはずである。つまり経験の欠如。その他に、基本的な認知システムの欠損に由来するスキル欠損もあるだろう。いずれにしても、分裂病全般に、外傷性成分の混入がある。外傷性とは、従来「神経症性」と呼んでいたものだ。

3082
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・残虐行為を帳消しにする方法はないが、それを超越する方法はある。それは残虐行為を他者への贈り物とする方法である。生存者使命の原動力となるとき、外傷はあがなわれる。
●なるほど。
・社会行動により、公衆の意識を高める高めるために献身する。公衆の面前で真実を語る。
●共同体の癒しの機能。共同体は真理の源泉となると同時に、癒しの源泉ともなる。この場合には、癒しは真実であることの認定に関係し、さらにその真理を共同体が共有し、役立てるということに関係している。
・生存者は自分自身より大きな力に結びついていると感じている。
●それが魂の売り渡しでないように。
この区別も大切である。魂の全面的譲渡と、偉大なものとの結合の感覚と。
・他者に与えるのが生存者使命の本質である。そうするのは、自分の治癒のためであることを認識している。
・「人と人との魂相互の結びつき」が自分を支え、力を与えてくれる。
●「よき共同体」の作用。
・生存者は外傷は取り返しがつかないこと、賠償の願いも復讐の願望も共に本当の意味では満たされないことを認識する。しかし被害者は社会正義の意味を再発見する。自分一人のものであった不幸を、自分以外の人々の不幸に結びつける。
・勝つべきものは法であって原告ではない。勝つべきは法であって自分ではない。
・加害者に罪に対する弁明責任を感じさせておくことは、社会の健康を維持するために重要である。

3083
外傷体験はいかにして乗り越えられるか。
この問題を軸にして、病気、文学、人生をまとめて論じることができるだろう。
よい切り口であると思う。

宗教も、この世で清算されない恨みや罪をあの世で清算してもらうための装置であるという面がある。

「この世の中に恨みというものがあるものかないものか」四谷怪談お岩はこう恨みを語る。清算されないならば、自分が化けて出ようというのである。

(精算ではなく清算である。)

3084
トラウマによって無力化された人。
トラウマではないが、ストレスによって無力化されている人。
そうかもしれない。わたしも。

3085
美人が境界例になりやすい理由
魅力ある女性は凌辱的性関係を強制される危険が高い。慢性的PTSDを経て、境界型人格障害に至る。若い頃の自分の魅力が、危険を引き寄せ、結果として対人関係と世界との関係の障害を残す。

3086
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・有意義な社会行動に参加しているという感覚。
・真実こそ加害者のもっとも恐れるものである。
・生存者は自分自身と自分以外の人たちのために、公的に力を行使するということに心が満ち足りるのを覚える。
・生存者が新しい発達段階にはいると、いったん解決されたと思われた問題が再び目を覚ますことがあるかもしれない。外傷後症状はストレスを受けたときには再発してもおかしくないことを告げておく必要がある。
・外傷的事件の記憶が首尾一貫した語り物になっていること。それにふさわしい感情が結びついていること。
・重要な対人関係が再建されていること。
・悪を知ったことによって、よきものから手を離さずにいることの大切さを知る。
●傷つけられた自分の人生を自分でケアしなければならない。それは大変なことだ。
・共世界:外傷的事件は個人と社会とをつなぐきずなを破壊する。生き残った者は、自己という感覚、自己が価値あるものであるという感覚、自己が人間に属するという感覚は自分以外の人々との結びつきの感覚に依存し、それ次第であることを痛いほど味わう。グループの連帯性は恐怖と絶望に対する最大最強の守りであり、外傷体験の強力な解毒剤である。外傷は孤立化させる。グループは所属感を再創造する。外傷は恥じ入らせ、差別の烙印を押す。グループは証人になり、肯定する。外傷は被害者を堕落させる。グループは向上させる。外傷は被害者を非人間化する。グループはその人間性を取り戻す。

3087
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・他者の示す愛他性によって、つながりの感覚、勇気、品性、信仰を取り戻す。他人の行動を鏡として失われた部分を取り戻す。
●成育の過程と同じだろうか。
・グループの価値。苦しみの共有から始まる。
・グループへの参加は急がない。六ヶ月から一年をおく。全員が同じ事件の被害者である場合には、早期のグループ療法が有効である。
・はじめは探索的にしない。個人の発言により一般原則を解説する。
・匿名性と秘密厳守のルールとグループの教育的アプローチが安全を提供する。
自助グループにおいて搾取的リーダーが出現しないように配慮する。リーダーは交代するようにする。
・短期間の教育的ストレス・マネージメント・グループ。症状軽減と問題解決能力向上、自己管理能力向上。当面の課題、具体的問題に対処する。
・次の段階ではパーソナルな目標を設定する。
・期間制限をすることで、気持ちが楽になる。
・12週間が多い。ほかに4,6,9週間。
・参加者それぞれの具体的な目標。外傷物語の分かち合い。語ることは記憶の主人となることである。
・グループの中で支配と屈従の再演が起こらないように配慮する。
・閉鎖グループは急速な愛着形成に役立つ。
・メンバー選定は慎重に。動機と成熟が必要。
・信頼する能力。他をケアする能力。自己を受容する能力。「何よりもわたしはある場所に帰属し、あるよきものの一部であるという感覚を獲得した」。

3088
役割としての出会いと、人格としての出会いの区別。人格としてで合うことはためらいがあっても、役割として出会うのであれば、納得できる場合が多いだろう。

3089
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・構造化の弱いグループで、探索的に覆いをとる作業をするのは不適切である。
・特殊性を解消する。自分の物語を多くの物語の一つとして眺める。自分の個別的な悲劇を人間の条件という一般的枠組みにおいて思い描くことができるようになる。
●これを他人が押しつけてはいけない。
●以上。フェミニズム的観点が強い感じはする。しかし、アメリカの風土では、「フェミニズム」と明確に表明することではじめて平等に近づくという事情もあるのだろう。
しかし一方でそれを悪い目的で利用する人もいるだろう。
●現世での救いか来世での救いかといった問題は出ていない。現世で達成されない罪の償いの伝統的な解決は、来世での清算である。たとえば最後の審判、えんま様の裁き。こうした解決は、現実を変えるのではなく、心理を変えるという点では神経症的な防衛といってよいだろう。
「それでは何も変わらない」「これからも悲劇は繰り返される」「それよりも現実に行動して現実を変革し、悲劇を根絶するのが使命である、それが共同体的な生き方である」
そうかもしれない。これまではあまりに負け犬根性が染みついていたのかもしれない。
宗教とは、心理的支配の方法であるということができる。

3090
新井代議士の自殺。1998年2月20日(金)
在日韓国人であった。いわゆるいじめの構図のようなものがあったのだろう。村八分にされ、孤立無援の中で、追いつめられた。
とがって目立っていた分、周囲には「いいきみだ」という気分もあっただろう。
直接耳に入る声が、全国民の声のように感じられたのではないか。国民の大半は鈍感に無関心のままであったのに。ジャンプの原田の自宅に嫌がらせ電話が入るような風土だから、いろいろな人がいたであろう。

皇帝ペンギンのたとえが当てはまる。仲間の中でとがった奴がまず水に飛び込み、敵がいないことを確認してから他の大多数のペンギンたちが飛び込む。

守ってくれる集団がなかった。村の中で静かに生きることができなかった。見放されてお終い。

頭がいいとはいっても、専門知識の範囲内でのことで、そうした知識は利用されるだけのことが多いだろう。渡辺美智夫が引き立てたと言うが、要するに利用されたのだろう。誰も悪者になりたくないから言わないでいるところに、あれこれ言って目立ってしまった。

そのことが結局何を招くか、それを知っていて突き進むのは、誰にもできないことだった。頭がいいから他の人とは違う道筋が見えていたというのか?そんなことはない。結果はこれだ。
彼には見えていないものがあったのではないか。

政界のような風土の中では、性格傾向が増幅されるだろう。
いずれにしても次第に感覚はマヒしていく。みんなと同じように「無駄」も支払う必要がある。合理主義者はその無駄を省こうとして軋轢を生む。
馬鹿の住む世の中では馬鹿の流儀にしたがうことが必要だ。無駄も一種の税金である。

自宅から初老の男女が出てきて、女性の方がテレビカメラに向かって、「あんたたちが信じないからだ、みんな同じ様なことをしているのに、よってたかって!」と罵声を浴びせた。とても品のない様子だった。
多分、両親だろうが、戦う気風がある家族なのだろう。

発見者は妻。
資産家ならば資産は残る。しかしこういう人たちの場合には死んでしまえば何ものこらないだろう。
そのような人生である。例えば友人関係は今後維持されるだろうか?妻や遺児たちに対してどのようなサポートがあるだろうか?
そのようなサポートが期待できるようであれば、このような人生にはならず、このような結末にはならなかったであろう。

子供たちはどのような人生観を持つだろうか?

新聞で。「君のような三流大学を出た人間がこんなに贅沢ができて、東大、大蔵省の自分がこんなに貧しいなんて、世の中おかしい」と語ったとのこと。
昔は清貧ということが、具体的な力を持つ価値であったのだろう。よい生き方がそこにはあった。意味のある人生があった。
しかし現代では清貧は無価値であるから、このような感想も生まれるのだろう。無理もないことだと思うけれど。

3091
「死の淵からの帰還」野村祐之、岩波
・良心への問いかけ。
・死は自分と神との間の問題であって、法律や教会が介入する問題ではないとする牧師の意見。
・人間がどこまで優しくなれるか。本当の豊かさとは何なのか。
・共同体の機能。真に人を癒し、人生に意味を与える。そのような共同体が失われている。
・プロフェッショナルとは、神と契約して、誓った人である。
●プロフェッショナルとスペシャリストの違い。神と約束したかどうかの違い。
アメリカでは新しい状況に遭遇したとき、問題に白黒の決着をつけたがる。未開の土地に道をつけ地図に書き入れるのと似て、後から来る人が同じような目に遭わないように、フロンティア的義務感から法廷に持ち込むことがある。泣き寝入りや示談ですませてしまうのは自己中心的で、他の人の役に立たず、それゆえ社会的責任が果たせないと考える。
●なるほど。この本の中には、「共同体感覚」が描かれている。大切なものだと感じる。
・命の深さを生きる。長さでも大きさでもない。
・プロフェッショナルの元の言葉、プロフェッションは、コンフェッションと同義で、神への告白を意味する。天職であるとの自覚の下に神への忠誠を告白し、自分を律し、自分の全存在をかけて邁進することを、神と人々の前に誓った人が「プロ」である。神と人々に誓いを立てている以上、良心に反する悪いこと、ずるいこと、いい加減なこと、曲がったことをするはずがないと期待されており、それ故、人々からの信頼と尊敬を得る。
●単なるスペシャリストとは違う。

3092
シンデレラは、靴で確認しないとシンデレラだと分からなかった。きれいな服を着ていないと本人だと確認できない。
このことは何を暗示しているのだろうか?

暗闇での顔も分からない状態での交流があり、残された手がかりから、本人を探し出す。そのような事態があったのではないか?

3093
尊敬される村長。
公平無私の態度で、知恵を授ける。だからみんなが尊敬する。
このような人間が社会には必要なのだろう。
長老である。なぜいなくなってしまったのだろう。スペシャリストではなく、ゼネラリスト。健全な常識の人。

現代では個人は信用できないから、機関に委ねようというわけだ。

3094
浦島太郎はなぜ竜宮場から帰ったのか?理想郷だったのに?
→以前書いた覚えがある。

3095
おとぎ話療法
子供におとぎ話を途中まで聞かせて、その続きまたは結末を絵に描いてもらう。

3096
おとぎ話が伝えるもの。
集団の無意識。無意識の層の伝達経路として考えられるのではないか。
また、親の期待を無意識層に伝える方法。
教育手段である。

3097
新井議員
瞬間湯沸かし器。尋常でない怒り方。(茅ヶ崎中央病院グループの大屋敷さんも同じらしい。)
権力への欲望。
死へのロマン。妄想に近い死生観、人生観。

政治への動機付けが、権力欲望であるというのは古来からのことであるが、一方で、清貧、公平無私、こうしたものを体現する人物が政治にかかわることも古来のことであった。
政治家の意識でもあるが、それは有権者・市民の意識の反映でもある。
政治家は田中角栄的なものになってしまったのか。

3098
浦和の事件。
ひとり暮らしの老人が女子中学生に殺害された。中学生は老人の年金をむしっていたらしいという。

3099
・あいさつと感謝。
・これまでの治療経験。分裂病うつ病。薬物、カウンセリング、デイケアミックス。総合的多面的治療。それにはチーム医療が必要。
・種田先生と職員各層との距離。種田先生は時代の十五年先を走っている。そのビジョンが組織の各層に理解され浸透するまでは時間がかかる。
・痴呆もやはりチーム医療。
・痴呆療養に生かされる精神科的センス?
・ケアプラン方式。最低限の要請。
・鑑別診断。痴呆だとしても、機能不全の内容。それに応じてリハビリに適した4〜7名程度のグループが形成され、リハビリプログラムが組まれればよい。グループと担当職員と合わせて、5〜8名の間で、パーソナルな結びつきが生まれるように配慮する。適度な強さの人格的結びつきが治療に有効である。また、ターミナルケアとしての側面からも、こうした人格的結合が望ましい。
・しかし、孫か曾孫に当たる若い職員が、どのように人格的結びつきに至ることができるかと考えると、難しい。いっそのこと、宗教関係施設などならば方針も立ちやすい。しかし非宗教の場所で試みることも大切である。
・バナナ理論
・名札の件。
・部屋を忘れる人の件。
・食事介護の工夫。食事前に目を覚まさせることの必要。
・薬剤調整の件。パルス的使用。
・外傷性障害の重畳の可能性。老人虐待は客観的にそうである場合もあり、主観的にのみそうである場合もある。PTSDの症状として意欲減退、主体性喪失、うつ状態などが発生していないか?
・職員間の意見の一致。上意下達では納得した医療ができない。説明して対話して納得するプロセスが大切。
・痴呆への働きかけ以前の問題で忙しい。しかし結局、食事、排泄、睡眠、こうしたことを通じて痴呆への働きかけになっている面がある。
・「望ましい痴呆専門リハビリはどのようなものか」について、
ビジョンを明確にする。そのビジョンを目標としていま自分達はどこまで達成できているか、評価する。

3100
日々の生活の中でわたしは何を得ているか。
患者さんに愛を伝えることができる立場である。あとは自分がどのような気持ちで生きるかだ。
仕事は同時に自己成長の機会である。