こころの辞典3001-3060

3001
人間関係は一筋縄では行かない。
憤るべき相手は誰か、そんなことも対人関係の中で曇らされ、ねじ曲げられてしまう。
各人のわずかずつのファンタジーや誤解が加算されて、ひどい事態を構成していく。
そんなことでいいはずはない。しかしそれが現実である。個人は太刀打ちできない。
せいぜい、身をよける知恵を身につけるだけである。

3002
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・嫌悪、憎悪、絶望、永続する苦悩。衝動と虚栄。親切もなく信仰もなく愛もない。ただ現在限りの快楽。……内的荒廃。
・発達途上の葛藤が再び口を開ける。自立とイニシアティヴ、能力、アイデンティティ、親密性をめぐる闘争。
・自立をめぐる正常な発達論的葛藤の解決が不充分であると、その人には恥辱や疑念を起こしやすい脆弱性が残る。→恥辱はSのタイプ。
・有能性とイニシアティヴとに関する正常な発達的葛藤の解決が不十分であると、その人は罪悪感と劣等感とを起こしやすい。→うつのタイプ。
・無惨な死あるいは残虐行為に積極的に加わった場合、外傷後障害のリスクはもっとも大きい。
●加害に加担した被害者。医療の現場ではどうか?これは一種の虐待であると思う。それ以外にどうしようもないようなものではあるけれど。一部の人のために全員が悲惨な運命をたどることが倫理的な正しいのかどうか。どのような運命を選択すべきなのか、困難な問題がある。
・共同体への信仰を破壊する。
●神の希薄な社会では、共同体への信仰が決定的に重要である。
真実への信仰はない。真理は命がけで守るべきもので、その原理が踏みにじられるとしたら、魂にとって重大な危機なのだといった感覚に乏しい。
・外傷を受けた人は孤立と他者への不安に満ちたしがみつきとの間を頻繁に往復する。強いが不安定な、両極間を往復する人間関係が生まれる。

3003
ドラマ「聖者の行進」
「ウーのこと、思ってました」と内心で語り、辛い場面に耐える。ウーは「三匹の子豚」で煉瓦の家を造って最後にみんなを救った末っ子。
ややマイルドではあるが、解離性の防衛の仕方が表現されている。

3004
人間の自意識は、解離の産物である。
出産時に非常に強い困難にさらされ、そのときに強烈な解離を必要とする。それ以来、人間は解離を生きている。出産時外傷の新しい解釈。
最近は分娩の仕方が変わってきた。そのことと現代の人間の精神のあり方が関係しているかも知れない。
また、帝王切開で生まれた人たちの性格特性が何かを語っているかも知れない。たとえばシーザー。

3005
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・レイプは個人を身体的、心理的、社会的に犯すことである。
●しかしながら、女は結局それを待っている、といった類の表現がマスコミには満ちている。
・従軍以前に反社会的行動に走りやすかった者は、主症状が苛立ちと怒りとなる場合が多く、逆に硬い道徳水準で自分を律し、自分以外の人間への共感性が高い者は主症状が抑うつとなる確立が高かった。
・ストレス抵抗性の高い個体は、人付き合いがよく、よく考えて、積極的対抗行動を選び、自分の運命は自分で切り開く能力が自分にあると強く感じている人。
●何かしら、アメリカ的理想が反映されているような気がする。どうだろうか?
・十人に一人の児童が、幼年時代の逆境に耐える抜群の能力を示した。特徴は、めざとく、敏感、積極的、人付き合いがよく、自分以外の人とコミニュケーションする能力に優れ、自分の運命は自分で決められるという強力な感覚を持っていること。内的統制(internal locus of control)。
・平均的な人は恐怖に際して、金縛りにあい、孤立してしまう。復元性の高い人は、他人と協力し、目的にかなった行動をとる機会があれば必ずそれを捉える。

3006
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・積極的・合目的的な対処戦略、高い社交性、内的管制塔の存在。
●つまりは現実的知能が高いこと、孤立しないこと、自己コントロールができること。
孤立しないということは、ネットワーク型コンピューターの形をとるということで、自分の脳の限界を超えることができる。
一般的知能が高くても、非現実的な行動をとる人は少なくない。つまりは内部によい世界モデルを持っていることが大切なことではないかと思う。
一般知能が高いということは、道具が優秀ということだろう。道具が良ければ、それによって把握した世界も、外部現実の正確な転写になる可能性が高い。しかし、中枢部分で特有の「ズレ」があれば、外部世界の正確な転写にはならない。そのような人は、優秀な道具を持ちながらも、非現実的・非合目的的な行動をとる。
・怒りに身を任せることを避ける。怒りは身を滅ぼすもとである。
●まことにそうである。人生の外に立って眺めて見れば、怒ったところで益はない。他人は結局のところどうしようもないものである。諦められないのは何かがおかしい。期待しているからだ。期待など早く捨て去ることだ。
もっと冷静に現実的に、他人を見ることだ。その人の行動の特性は何か、今自分との関係ではどのような側面をつかまえればお互いにうまくできるか。
人を使ったり、人に使われたりとは、そのような関係のことだ。理想を求めて、規範を押しつけるのではなく、その人なりに何ができるのかを観察しつつ、創造的に求める。
あり合わせの材料で料理をつくる感覚。間に合わせの道具をクリエイティブに使う工夫。

3007
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・極限状態においても絆を見失わない。
・レイプに際して、金縛りになり、抵抗せず屈服した場合、余波期に自責の念と抑うつが激しくなる確率が高い。
●負け犬は、負けてからあとも、負けたことの余波に悩み続けるわけだ。しかしそのように強くなれるのだろうか?アメリカ女性のように?フェミニズム世界観がよく出ているのではないか。「見よ、負け犬はこんなにも辛く惨めである、何が何でも勝つのだ!」と檄を飛ばしているような印象。被害者同志が集まって告発を誓い合う、そんな場面を想像する。
それでいい。最善はそのような被害に遭わないことだ。しかし現実には被害はある。その前提がある限りは、せめてこのようにして被害者の救済を考えるしかない。たとえもっとも美しい救済というわけではないとしても。
そう考えると苦々しい。このような破壊的な力は人間にこれまでもずっとつきまとってきたものなのだろうか?あるいは現代社会のあり方との相関物なのだろうか?これからどうなるのだろうか?
過去の生活は、現在よりもずっと悲惨で、困難に満ちたものではなかったかと思う。とにもかくにも、食糧が確保され、医療も行き届いている現状は過去に比べれば、外商的でない環境と考えられるのではないか?
・すでに無力化されている人、他者とのつながりを失ってしまっている人は、一番危険である。すでに障害を持っている人に特に過酷である。
●再度の外傷にさらされやすい。いじめる人が狙うのも、このような人であろう。

3008
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●思い出すべき最大の絆は、やはり家族だろう。だからこそ、家族内での「搾取」は最大の悲劇である。絆そのものが破壊される。
・思春期女性のレイプ。アイデンティティの形成、原家族からの漸進的分離、広い世間探測という青春期の適応への三つの正常な課題をみごとに駄目にしてしまう。
・自己感覚は粉々に打ち砕かれている。子の感覚は元来他者とのつながりによって築かれたものであるから、他者とのつながりにおいてしか再建できない。
●しかしその「つながりを再建する能力」が破壊されたのである。再建には、ギブアンドテイクの世界ではなく、チャリティの世界、一方的に信頼される世界が必要ではないか、つまり、母親からすべてが与えられる世界。神からすべてが与えられる世界。絆は一方的に何度も繰り返し与えられることによって、再建される。再建されたら、ギブアンドテイクの世界で生きていける。
しかしここで性格障害の問題もある。やはり病理の本質を見定めていかなければならない。
中井久夫のわかりにくさが、「ウケテ」いるのではないか?洗練された日本語とは言えないと思うのだが?
・安全と庇護を保証し、最低限の信頼を再建することが最優先課題である。「二度と見捨てられることはない」とはっきり口に出して保証すること。
・周囲の人が生存者をもう一度無力化する危険がある。

3009
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・他者と外傷体験を共有することが、「世界には意味がある」という感覚を再建するための前提条件である。
高校バレー部でダウンした人。今何をやって、それが何になるのかと考えて、何も分からないと語る。自分の人生の意味を感じられない状態である。
・社会側からの反応がどうであるかは、外傷が最終的に解消されるか否かを強く左右する。
●こうした社会的視点は大切だろうと思う。個人精神療法で、密室で二人とも退行しているよりはいい。
・傷害を被ったことが公的に認知されれば、社会は直ちに誰に責任があるかを確定し、受けた傷を修復するための行動をとらなければならない。正しい認識と修復は被害者の秩序感覚と正義感覚とを再建するのに欠かせない。
交通遺児の集まりで感じた、あの特有の感覚は、このあたりから発しているものかも知れない。
庇護を受ける弱者の集団。金を与えられることに応じて、真面目に努力し、社会に還元することを義務づけられている。何か慢性的なうっとおしさが積もっている。
傷ついたものたちの特有の体臭であったかも知れない。
庇護を受けることで、慢性的に心理的外傷を受け続ける。そのような構造があったかも知れない。
金に屈従する。
いずれにしても、爽やかでない人たちであった。べとべとジトジトしていた。全部女のような。弱さを証明することで施しを保証されているような。

3010
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・長期反復性外傷は監禁状態という条件があってはじめて生じる。刑務所、強制収容所、宗教的カルト、売春窟、家庭。
●その他に、精神病院、学校。分裂病者は世界全体が自分を迫害すると感覚していて、その点ではこの世界そのものが牢獄であり強制監禁状態である。
分裂病者は、抵抗不可能な状態の中で無力感にさいなまれ、さらに孤立している。長期反復性外傷にまさにあてはまる。
●痴呆老人の扱われ方を見て、心が痛む。そのような乱暴で繊細さのない職員しか勤めたがらない職場。この状況はなかなか変わらないだろう。ひどい言葉が発せられている。この世界はむごい場所である。
・他人を完全にコントロールする方法。心的外傷をシステマティックに反復して加えて痛めつけること。無力化と断絶化。恐怖と孤立無援感を注入し、「他人との関係においてある自己」の感覚を破砕する。
・別の人への脅しをみせることにも意味がある。
・犯人は万能であり、抵抗は無益である。暴力は予見できず、規則は気まぐれに強制される。……つまり、外的規則ではなく、犯人の気分次第。この状況で恐怖は増大する。
・「確実に死ぬはず」を何度か取り消してもらうと、被害者は犯人を命の恩人だと思う錯覚に陥ってしまう。
・自立性の感覚を粉砕する。
・情報、物質的援助、感情的支持から遮断して孤立させる。「きみの一番の味方もきみを忘れてしまったよとかきみを裏切ったよ」という話を信じ込ませる。
・家庭の中での孤独な幽閉状態。

3011 ☆
自律訓練法
注意のあり方を変える方法
注意の範囲と注意の場所の二つに分けて考えることができる。
範囲‥‥広い範囲に注意を漂わせるか、スポットライトのように集中させるか。
場所‥‥スポットライトにしたときに、どこにライトをあてるか。

これに応じて、自律訓練の方向にも二つがあることになる。これを整理し区別することが有用である。

不安が襲ってきたときに、それから逃れるには、意識をスポットライトにして、リラックスの場所にあてればいい。まず不安から注意を引き剥がすことが難しいが、そのことに自律訓練法が役立つ。注意のスポットライトの場所を、自己の身体に変更させることができる。それも強力に。
これは解離性の機制と似たことである。

しかしまた、自律訓練法を、日常生活で生かしていくことを考えれば、注意を広い範囲に漂わせることと、狭い場所に集中させることとの二つを意識的に変換することに役立つと考えて、訓練するのがよい。
こちらは必ずしも解離とは言えず、むしろ良質の禅に見られることではないか。

禅にしても、解離を助けている部分と、意識の広がりを増す部分とがあり、悪い禅と良い禅と言えるのではないか。

3012
外傷について
起こってしまったことは取り返しがつかない。それはどうしようもない事実ではないか。
償いがつく外傷など、ない。

3013
バレー部で傷ついた高校生に、ボランティアとしてさくら病院で働いてもらうという考えはどうだろうか?
自分も人の役に立つのだと自信を持つようになるのではないか。人生で何が大切か、何が生きる目的となるか、考え直すきっかけにならないか?
出来、不出来がはっきりとは分からないもの。
他人とあまり接触しないもの。
自分のペースでできるもの。
予定に組み入れられて、急に休めばみんなが困るというのでは適さない。

自分が受け入れられる集団を確保すること。
集団感情が個人を癒す。その観点を大切にできないか。
そのような保護的な集団がないか。

老人ホーム。障害のある児童の施設。こうしたものがいいかもしれない。さくら病院は少し重度すぎるかもしれない。

3014
「障碍を生きる意味」青木優・道代(岩波)
障碍者が排除されている教育状況と、障碍のない子供たちが生き生きと生きられない教育状況とは、同じ根から発しているのだと分かる。
障碍者のための土曜学級や、母親の会を組織する。母親の会には、障碍児ではない子を持つ母も出席した。障碍児を育てる母親には教育力があるということだろう。
・車椅子を押すのは大変だから、もうやめたいと語った子。しかし次の日に思い直した。
●ここで実に単純だが本質的な倫理的葛藤に悩んでいる。親切をして得られるものと、そのことによる苦痛を秤にかけてみて、もうやめようと考えることは多いだろう。
たとえば、デーケンさんが語っていた。キリスト者になること、キリスト者でいることは苦しいことだ。倫理への内的要請に応えていかなければならない。
それで得られる内的な満足が本当にその人の心を満たすか。満たすことはあるとしても現代社会でそのことを持続していくことは簡単ではない。
●NTTで障碍者を排除する。そのことと、普通学校で障碍者を排除することは同じことなのだろう。
「会社はなぜ障碍者との共生を考える方がいいのか」という課題に答えることは、学校問題においても重要である。その答えがこの本に示されている。
人間として大切なものを学ぶからだ。

3015
山内先生が臨床に踏み出した。長い間の交流で、その潜伏するものをわたしは感じていて、わたしの方が先に臨床に踏み出したということかもしれない。
このようにストーリーを構成することができる。

3016
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・ささやかな譲歩と見えるものが、他人とのつながりを目に見えないほどゆっくりと壊していく。
・大多数の女性は人間関係を維持する自分の度量の広さに自尊心と自己評価とをおいている。犯人はこれを利用する。
心理的支配の完成は、被害者に自分の倫理を侵犯させること、自らの人間的つながりを裏切るようにさせることである。屈服した被害者は自己を嫌悪し憎悪するようになる。ここで被害者は本当に「背骨が折れる」。
●仲間同士に裏切りを強制する話はいくらでもある。内的規範も、美しい友情も、破壊される。粉々になる。
しかし、人間の条件として、肉体的に死を選ぶか、精神的に破滅を選ぶか、二者択一であることがある。小説や映画でそのような状況が描かれる。
・監禁する者が被害者の内面の生命を乗っ取ってしまったことをさとる。そのときの恥辱感と敗北感。
・「背骨が折れる」……ロボットになり、動物になり、植物になる。
・「絶対的受身の態度」に至る。
●わたしの言う「なされるがまま」はこうしたことだろうか?わたしが言うのは、外面的にはなされるがままであるが、心は別の次元にあり、支配されていないことを示す。何が起こっても、それを味わうだけの教養を持つということである。
ここでいう絶対的受身は、無力感の末に、すべての意志を放棄した心境である。

3017
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・慢性的外傷受傷者は、過剰警戒、不安、興奮、パニックを起こしやすい。暴力と危機の悪夢。
・耐え難い現実を改変する術。囚われとなっている人は歌、祈り、簡単な催眠術によるトランス状態誘発法を教授しあう。瞑想法、リラクゼーション。
●解離、自己催眠。意識の変容、トランスというが、注意の向け方、意識の中のスポットライトのあて方の変更ではないかと思う。精神病レベルの機制。現実を歪めて認知する。
・長期監禁者はトランス能力を発達させる。幻覚、視覚像消去、解離。時間感覚の狭窄。現在にだけ生きるようになる。理解しない。問うことをやめる。
・過去を語ることを拒否すればするほど、過去の断片は永続的に直接的現在性を保持する。
・主動性と計画立案力にも狭窄が続く。脱学習が必要。
・学習された孤立無援性は間違いである。内面の葛藤ははるかに生々しく複雑である。
・加害者への両義的関係。恐れる一方で、加害者のいない人生は空虚で、混乱し価値がないと思う。
●たとえば天皇制教育の残骸。客観的に見れば、加害者を慕う不可解な行動である。しかしそれが病理の表現である。愚かなわけではない。そう考えたい。
●「ダブルシンク」と表現している、解離の様子。両義的ともいえる。ブロイラーのアンビバレンツを連想する。
・生き残りのための基本単位は個人ではなくてペアである。しかし孤立している被監禁者は仲間との絆を作る機会がない。そこでペアの絆が被害者と加害者の間に作られても不思議ではない。

3018
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・監禁状況では、被害者と加害者の間にペアの絆が生まれることがあり、誘拐犯は救済者になる。被害者は加害者にしがみつく。これを強制退行過程と呼ぶ。
●精神科診察室でも同様のことが起こっていないか?マイルドではあっても、恐怖と恐喝の支配が行われているようだ。
精神科病棟では確実に起こっている。絶対権力者の支配と強制退行である。
・「あの男たちはわたしを助け出すチャンスがあったのに、動こうとしなかった」。心底の軽蔑。
・ティメルマン:「ホロコーストは犠牲者の数によって理解されるのではなく、口をつぐんでいた者たちの数の大きさによって理解されるようになるだろう。そして今わたしの心をもっとも重くするものは口をつぐむことが今も繰り返されていることだ」。
●精神病院も。
・長期捕囚状態。強烈な愛着と脅え・引きこもりとの間を揺れる。絶望的しがみつき、極め付きの忠誠と献身、怒りと罵り。
●境界型性格障害の像。何が起こっているのだろうか?
・生存者は他者を信頼しない。対人関係から身を引いて引きこもるようになる。
●確かにそうかもしれない。それが絶望というものだ。
・名前を変える。過去のアイデンティティの完全な消滅。「自分は整合性があり目的を持った存在である」という感覚、価値と理想の破壊。
●「自分としての整合性、統合」といった言葉は、西洋的である。日本の文化はやや異なるように思う。
そんなことは何も考えずただ家族がまとまって暮らしている、それだけの精神構造ではないか。

3019
行動や思考の「鋳型」ができるのは、刷り込み可能な時期に限られるのではないか。
その時期の環境に応じて、適応行動がセットされる。だから、その後に環境が激変すれば適応障害となる。

学習理論であり、記憶の理論でもある。
なぜ、いつ、刷り込みの状態になるか。つまり、永続的で消去不可能な記憶になるか。
記憶という言葉はやや範囲が狭いので、行動と思考と感情の「鋳型」といえばいいと思う。

学習のタイプを分ける。
一生に一度だけの、消去できない学習から、一時的ですぐに忘れるタイプの学習まで、幅がある。そして、本来は永続的記憶になるはずのないものが、永続的記憶にされてしまうことから、たとえば強迫症状が生まれるとする。

鋳型ができるのはいつどんなときなのか。それが分かれば理解は前進する。何かのメカニズムで、刷り込みの層が急に露呈するのではないか。
たとえば、非常に強い恐怖の時には、極度の退行が起こり、刷り込みの時期の脳の層が露呈する。そこでは一生に一度の大切な学習がなされる。不幸なことに、恐怖が刷り込みされる。こうして強力な鋳型が作られる。
恐怖症、パニック、強迫症などはこうした説明が可能であろう。不適応な鋳型による病理である。
1998年2月9日(月)

3020
極度の恐怖の中で人間が精神から離れて物質にかえる。その感覚。
また、性の感覚の一つの側面として、「物質にかえる」面があるかどうか。
フロイトの「死の本能」とはそうした側面の描写であろう。

3021
分裂病者の対人距離。
一般的な親しさの距離が取れない。
家族のような親密さに落ち込んでしまうか、そうでなければ全くの他人の距離しか取れないか。
つまり、対人距離ゼロか無限大かということだ。
中間程度の「世間のつきあい」が欠けている。それはそのようなつきあいの鋳型が引き出しの中にないからだろう。

3022
言葉の伝承
たとえば古典を読まなくても、言葉のシステムは古典の成果を含んでいる。
集合的無意識という言葉があたるものを言葉のシステムが含んでいる。
集合的無意識は、言葉の中にあり、一方では脳の中にある。

3023
なぜ語ること、物語ることが癒しになるのだろうか。どのように語ることが有効なのだろうか?

3024
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・被害者の自己イメージには、「他者を見放し他者に見放されうる人間」というイメージが含まれている。
・加害の共犯者、汚れたアイデンティティ。被害者は恥辱、自己嫌悪、挫折感のとりこになる。
・神に見捨てられたという苦い悲哀。エリ・ヴィーゼルに嘆き。
●ソフィーの嘆き。
・慢性外傷のもっとも一般的な臨床症状は遷延うつ病である。ニーダーランドの生存者の三徴「不眠、悪夢、心身症的愁訴」。PTSDの症状である慢性の過覚醒と侵入症状とうつ病の自律神経症状との融合。アパシーや孤立無援と結びつく。
児童虐待。児童は現実に働きかける力がないので、未熟な防衛システムである解離をもって対処するしかない。そこで児童虐待解離性障害の発生原因となる。
・症状とはあまりに恐ろしすぎて言葉に表せない秘め事を、偽装した言語によって語るものである。
・自己の歴史を再構成する。
●この作業がなぜ有効か。
・母が暴力を振るい、そのあとで痣をみせると、母はいつも、「おやどこでもらってきたんだい」と言うのでした。
・父さんが母さんにしたことを母さんがわたしにするのです。
●なぜこのような暴力の連鎖が起こるのだろうか。たぶん、強力な鋳型ができてしまうのだろう。そしてこの鋳型はこの環境で進化論的に生存可能性を高める種類のものなのだろう。
・虐待者は虐待を秘密にさせ、孤立を強要している。
分裂病者はなぜかこの孤立のパターンをとる。世界と自分についての重要な秘密を誰にも語ることができない。語れば狂人扱いである。

3025
ヒステリー女の不合理、非合理、脱目的的な行動。ドラマで見て、ぞっとする。

3026
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・被虐待児は基本的信頼を取り戻し安全の感覚を育成し、イニシアティヴをとる能力を育てなければならないのに、そのような環境は全く失われている。
・被虐待児は、本来怒りを向けるべき対象には怒りを向けず、怒りを起こす元ではない人に向ける。
●八つ当たりである。しかしそのようにしてしか生きられない人もいるのだと知ることも大切である。
・被虐待児はいい子になろうとする。完璧な演技者。しかし何をやり遂げても自分の資産にはならない。それはニセの自己だという感覚をもつからである。他人からほめられると、「本当は誰も分かってくれない」という確信を裏書きするだけである。
・被虐待児はほどほどの長所と許されるほどの欠点をもった一まとまりの自己イメージを育てることができない。
●「にもかかわらず愛される」ということがない。
・よく見られるのは、自分を虐待しない方の親に怒りをぶちまけること。
・自分に倒錯的興味を示している虐待者に愛着し、虐待しない親を冷淡だとすることもある。
●遺伝的素質の問題もある。そのような親であれば、そのような子であると言えないこともないだろう。このような味方は、支配的虐待者の側の圧制的な立場というものだろうか?被虐待者にも問題が見えると言ってはならないのだろうか?当分は言わないのが利口である。時流が変わるまで。
・「見捨てる」脅迫に対する効果的方策としての自傷行為
自傷行為に先立って深い解離状態が起こると述べている。
●この告白はS氏から聞いた。恐ろしいと言っていた。そして、離人症という言い方は実にぴったりだとも言っていた。

3027
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・身体状態の正常な制御は慢性過覚醒のためにめちゃめちゃになる。感情状態の制御もめちゃめちゃになる。ディスフォリア(いても立ってもいられないイライラ)、つまり一種の恐怖状態となる。
・このディスフォリアへの対処行動を発達させる。随意的に自律神経系のクリーゼすなわち自律神経系の超限的興奮状態を起こすことによって、感情状態を一時的ではあるが大幅に動かすことができることに気付く。浣腸、嘔吐、強迫的性的行動、強迫的冒険すなわち危険に身をさらすこと、そして精神変化薬の使用などは被虐待児が自分の感情状態を制御しようとするときに使われる常套手段となる。これらの工夫によって、被虐待児は自らの慢性的ディスフォリアを根絶し、短時間しか続かないとしても他の方法では得られない上機嫌と幸福を得ようとする。このような自己破壊症状は青春期に入るとさらに顕著なものになる。
(●日本語が美しくないので困る)
●自律神経系のクリーゼで不安を解消しようとする。不安コントロールが間違っている。解消されず、なおさらみじめに、なおさら困難な状況にはまりこんでいく。
食行動の異常もこの系列のものとして考えられる。
●自律神経系のクリーゼが短時間とはいえ不安解消に役立つのは、注意をそらすからだろう。注意のスポットライトを別の部分に当てるからだろう。
・慢性虐待の環境の中で、子供が生き延びることを許してくれる三つの主な適応形態、解離、断片的自己規定、感情状態の病的制御。
・しかしこれらの状態は一般には正常の見せかけをもつ。変性意識状態、記憶途絶などの解離状態は一般に察知されない。悪性のマイナス的自己規定は一般に世間に合わせた「ニセ自己」によってカモフラージュされる。

3028
ラクセーションかリラクゼーションか。
→リラクセイションである。

3029
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・断片的自己規定、悪性のマイナス的自己規定とは、「良い両親という妄想」を維持するために被虐待児が発達させるものである。「自分が悪いからだ」と考える。断片化は、垂直的スプリッティングに関係している。また、他者からの判定に合わせることによるアイデンティティの障害と断片化とも表現される。
●いまひとつ明瞭さに欠ける。とにかくたくさんの言いたいことがあるのは分かるけれど。
・新しい人生を築こうとして傷に再会してしまうことがある。
児童虐待経験者は、親密を強く求め、その一方で見捨てられるのではないか、搾取されるのではないかという恐怖にもつきまとわれている。救済を求めて特別なケア関係を約束してくれる強力な権威的人物を探し求めるかもしれない。理想的人物への恋着。
●境界型。
・成人になった被虐待児は対人脆弱性があるため被虐待を再演しやすい。
危険な状況をもう一度生き直してそれを正したいという願いがあるため、結局虐待を再演する羽目になることもある。
事実、被虐待児は成人してから虐待を受ける確率が高い。
・過不足のない安全な関係を他者との間に結べない。自分はダメで、愛着の対象を理想化することで判断が鈍る。
・無意識的な服従の習慣。相手に合わせる。
・外傷嗜癖
●なぜこんなことになるのか。自分にとって不利な行動様式であるのに。強力な鋳型ができてしまっている。鋳型ができたときには最低限のところで適応的であった。しかし現在では全く適応的ではない。そう説明したとして、理解して、症状が消えるだろうか?行動療法的アプローチが有効だろうか?

3030
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・大多数の人は、自由を剥奪されれば心の変化が起こることに無知である。
・慢性的虐待にさらされた人は、途方に暮れ、人の言いなりになり、過去から抜け出せず、どうしようもなく憂うつになり、身体のあれこれの不具合を訴え、怒りを陰にこもらせたりする。それに対して身近な人たちはどうしてやることもできずただイライラするだけに終わる。
・非経験者は自分ならそうはならないと思い込み、心的外傷受傷者の道徳的欠陥を論じたりする。被害者の欠陥探しを行うのは自然的傾向である。たとえばユダヤ人の「なすがままの受身性」など。
・慢性外傷の被害者は性格障害と診断されることが多い。生き残るための最小限の基本的欲求が残るだけになってしまった人の臨床像を見て、これは被害者の元来の性格だと誤診されることがしばしばである。本来的に「マゾ的」「依存的」「敗北願望的」などとされる。「自己敗北型人格障害」はマゾヒスト的人格異常と言われていたもの。
・正確な診断がつかないと、部分的断片的治療アプローチになる。頭痛、不安、抑うつ、などとそれぞれに薬を処方し、どれもあまり効かない。外傷という基底にある問題に向けられてはいないからである。さっぱりよくならない、慢性的に不幸な、これらの人にうんざりすると、貶めの意味あいのある診断レッテルを貼り付けたい誘惑を感じる。
・しばしばPTSDはありとあらゆる性格障害を模倣するように見える。
・誤診誤療が一般的で、ケア提供者によって虐待をもう一度受けてしまう。患者も治療者も症状と外傷の関係に気付かない。

3031
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・児童期虐待の被害者は身体化障害、境界性人格障害多重人格障害などと診断される。これらはかつての「ヒステリー」の下位病名である。
・時にはあっさりと「いやな奴」とされる。
境界性人格障害は、高級な学問の装いの下で人を中傷する言葉に過ぎない。
●そういう面も確かにある。しかしそういう言葉があるおかげで、ありがたい面もある。それが現実である。治療者も所詮は人間である。また逆に、普通の人間だからこそ、診断もできるわけだ。
・BPは一人でいることへの耐性がきわめて低い。その一方で、他者に対する極度の警戒心を持っている。
・身体化障害、境界性人格障害多重人格障害、この三つはすべて高度の被催眠性と解離と関係している。分裂病症状と誤認されることもある。親密関係において特有の困難を持つ。
●親密関係における特有の困難とは、分かりにくい表現である。親密関係というよりは対人関係というのが日本語としては落ち着きがいい。
複雑性PTSDが生理神経症 physioneurosis として現れると身体化傷害、変性意識は多重人格、同一性と対人関係の障害は境界性人格障害
●行動‥‥境界例、精神‥‥多重人格、身体‥‥身体化障害。かつてヒステリーとよばれていたもの。
・これらを児童期外傷の既往としてみれば治療者も被害経験者ももっとよく理解納得できるものとなる。
●変な日本語。

3032
精神科医になりたい人のために」というタイトルで本を書く。
・偉い患者を診る医者が偉い医者になる。
子供に偉い子供はいないから、小児科医は偉くなれない。
日本では女性はまだまだ偉くないから、産婦人科医も偉くなれない。
偉い人がかかる病気は高血圧や糖尿病や高脂血症、中でも心臓病とガンが致命的である。このあたりを専門に選ぶと偉くなる。
精神病の人たちはたいてい社会の表舞台から排除される。重要な決定権を握る場所からは退くことになる。したがって、偉い人はいない。だから精神科医は偉くなれない。
精神病者はたいてい貧乏だ。だから精神科医も貧乏だ。平均給料も低い。
・精神病院の悲惨な現実
変な医者が変なことをしている場所。患者と野球をして骨折して死んでしまった医者もいる。哲学をしている医者も精神科でなら許される。
治療というよりは収容であり、退院に向けて頑張ることはドンキホーテのようなものである。退院しても社会の受け皿がないのですぐに病院に帰ってきてしまう。
・しかし脳の不思議にはロマンがある。
田舎の高校の生徒が東大の医学部に入学するのだから、とても優秀だと思う。最初は何だか分からなくても、しばらく勉強していれば、すっきりと見通しができて、はっきり分かるようになる。そんな僕にしてみれば、心臓病もガンも、遺伝子操作も、臓器移植も、いずれ何かのちょっとした工夫を重ねればできそうなことだと思われる。すでに原則は提出されていて、その路線の上で工夫すればいいだけだと分かっているのだ。その分かりきった退屈さがたまらない。僕のような人間が一生をかける仕事ではない。それはたとえば、ジグソーパズルを完成させるようなものだ。どうせ完成することは分かっている。完成した形も分かっている。ただどのピースが合うか、探すだけ。それを競っているだけである。
ところが脳と心の領域だけはそれではすまない。まだ原則の問題が解決されていない。その意味で現代でも大きな謎が立ちはだかっているのは、宇宙の生成と限界の問題、それと意識の問題くらいだろう。(宇宙の構造の問題と脳の構造の問題が実は表裏一体の問題なのだとカントは指摘した。偉い人である。なぜか、それに答えたのが、コンラート・ローレンツである。天才である。)
こう考えれば、やはの脳がターゲットになる。しかも、神経内科や脳外科のアプローチでは不足である。脳、意識、心、魂、精神、そういったものの広がりの中で探求するとすれば、やはり精神科である。
またたとえば超能力や天才の問題。想像力の謎。
・現実には人の悩みにつきあうことは苦しいものだ。そのうっとおしさに耐える必要がある。たとえば、苦しんでいる人は、原因か結果かは定かではないが、思考障害を呈している人も多いものだ。普通の話の筋道が通じないのである。何度でも振り出しに戻ったり、奇妙な飛躍をしたり。結局諦めてしまうことも多い。患者には確信がある。それに寄り添うしかないのである。何という無力であろうか。精神療法など無力である。

3033
「死の淵からの帰還」野村祐之(岩波)
・人格的出会い。→●精神病院でこそ、これが必要である。治療ができないならせめて、人格的出会いがあって欲しい。深い出会いがあって欲しい。患者は閉じ込められて自分ではよい出会いを探すことができないのだから、よい出会いを提供したいものである。
・上質の時が流れる。→●病院での生活は、部分的にでもよいから、こうでありたい。大切なことだ。職員は生きている時間の質に敏感である必要があるだろう。

3034
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・心的困難は児童期の虐待環境に起源があると認識すれば、自己の生まれながらの欠陥のせいにする必要はなくなる。そうなれば、体験に新しい意味を見いだし、新しいスティグマのない自己同一性にいたる道が開かれる。
アメリカ流外部原因説。良い面もある。こうでなければ被害者は救われないだろう。
しかし極端に自己批判と反省が嫌いな人たちでもある。
●しかしやはり、外傷患者には、責任はあなたの内部にあるのではないと明言し、責任の所在を明確にすることが有効だろう。大切で不可欠のプロセスである。
・原因は児童期の虐待であり、現在の症状は反応として正当なものであるが、しかし現状に対しては適切な反応ではない、このままではさらに繰り返し被害者にされる危険がある。こうしたことに関して、共通の理解に達すれば、治療同盟の基盤となる。
●こうしたことが患者の、治療に関する理解の枠組みとなる。基本スキーム。
●疾病と治療のモデルを共有すること。そこが出発点である。たとえ誤りであっても、治療関係は築ける。それが有益である。
●性格障害や精神病という診断を下して伝える場合に、患者はどのような疾病モデルと治療モデルを持っているか、検討を要する。それが対話と説得、説明と同意、インフォームド・コンセントの出発点である。
テレビで流れたことは信じるのに、医者には不信感を抱く。ここの差を考える必要がある。
説得の材料をどれだけ提示しているか。医者としての説明にどれだけの説得力があるか、考える必要がある。

3035
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・心的外傷体験の中核は、無力化と離断である。(孤立無援感と孤立感)。したがって、回復の基礎は、有力化と他者との新しい結びつきをつくることにある。回復は人間関係の網の目を背景にしてはじめて起こり、孤立状態においては起こらない。
・損なわれた心的能力を新しい人間関係の中で新しく作り直す。
●なるほど。このような視点が大切だと納得できる。
・患者から力を奪うような介入は回復の助けにならない。
・「よい治療者とは、わたしの体験を本当にまともに取りあげて確認してくれ、わたしがわたしの行動をコントロールできるように助けてくれる人のことで、わたしをコントロールしようとする人のことではない。」
・当事者の希望を尋ね、安全と両立する範囲で選択肢をできるだけたくさん出すべきである。
●内的決定過程を外在化し、練習させるという作業である。どの場合にはどのような得失があるという点までで明細化する。
・患者の自己決定を引き出す。治療者は中立性を守る。
・治療者のエンパシー的態度。ほどよい母親(good-enough mother)が自分の幼い子に対して抱くエンパシーと共通の要素がある。しかし禁欲的、理性的な面もある。
・「強制よりも説得、物理的力よりも新しいアイディア、権威的コントロールよりも互酬的関係が、価値も効力も高い」という暗黙の信頼を土台としてパートナーとなる。この信念こそ、外傷体験によって粉砕されてしまう信念である。
●この点では、パターナリズムは患者を育てる態度とは言い難い。療育のためには辛抱強く、非能率にも耐え、無価値でも愛情を撤回しない、そのような態度が必要であろう。

3036
まず疾病モデルと治療モデルの共有を試みる。それが「人間の」診断と治療の第一歩である。医者だけが正確な理解をしていても、外来の、とくに精神科心療内科分野では不十分である。

精神病に対する偏見があるから、自分や家族が精神病ではないかと考えたときの反応には独特のものがある。そのことが症状を修飾する。苦しみが増える。

精神病の症状で苦しむことと、精神病についての(自分と社会の)無理解と偏見の故に苦しむことと、両方についてのケアが必要である。悩む人間に対して何ができるか。

3037
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・外傷患者がつくる特別なタイプの転移がある。権威的地位にあるすべての人間に対する感情反応は恐怖体験によって歪んでいる。外傷性転移反応は通常の治療的体験とは比べものにならない強烈な命がけの性質を帯びる。治療者患者関係には一種の破壊的な力が繰り返して侵入してくる。この力は伝統的には患者の生得的な攻撃性のせいであるとされてきたが、今では加害者の暴力であることが確認されている。外傷患者における転移関係は、二者関係ではなくて、加害者が影の第三者として介入する三者関係である。
●一体どのようにして確認される?
●治療室で何が起こっているかを把握するために大切な視点である。攻撃性の由来が、加害者にあると認識すること。そこから治療の展望は開けてくるだろう。
●この本全体でいわれていることは、パラダイムチェンジというべきものだろう。
・見捨てられて孤立無援だと感じる反動として、治療者を万能者と見立て、再体験の恐怖から守らせる。治療者は理想化される。
・「恐ろしいのは先生がわたしを殺せることです。お言葉で、放っておくことで、去ってしまわれることで。」
・患者は自分の生命が救援者次第だと思っているため、いい加減を許すことができない。
●治療者の気分次第と思われるのはまずい。客観的で検証可能な基準を共有する態度が正しい。そのような試みには価値がある。患者の立場にすれば当然の、大切なことである。

3038
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・治療者に対して向けられる怒りは屈辱と羞恥を交えたものであり、治療者を自己の位置に引きずり落としたいと思う。彼は敵に対してではなく、無能な救援者に対する復讐の計画を温めるようになる。ケア提供者に対して怒りを覚え、復讐の空想を胸に秘めている人は多い。自分を失望させた、羨ましい御身分の治療者を、自分が苦しんできたのと同じ耐え難い恐怖、孤立無援、羞恥の位置に引きずり下ろしたいと願う。
・信頼が傷ついている。一般に、治療者とは自分を助ける能力がないか、助ける気がないかという、いわれのない仮定をおいている。
・被害者は治療者が外傷の真実の話を聞くのに耐えられないと仮定している。治療者の聞く能力に不信感を持っている。本当にひどい話を聞くと後ずさりして逃げてしまうと感じている。
●この人なら理解してくれそうだという場面設定はどうするか?それがプロの仕事。まず場所の設定が重要である。
・耐えて聞こうとする治療者には不純な動機があるのではないかと疑う。搾取的または覗き魔的な意図。反復性・長期の外傷にさらされた患者は、治療者には倒錯的、邪悪な意図があるという予想を変えることに大変抵抗する。さらには加害をわざわざ招いていると見えることさえある。支配と屈従は再演される。その中には治療関係もある。
・治療者のささいな態度の中に、被害者は被害経験によって深い意味を読みとる。
・治療者の意図が悪意のないものと信じられないので、患者は間違った解釈ばかり下す。治療者は慣れていないやり方で敵視されるので、この敵視に対して反応してしまいがちである。「投影性同一視」とされてきたものである。

3039
クリニックにおける顧客満足度

標準的治療プログラムを提示する。
治療に関する見通しを持ってもらう。パースペクティブ
自分は何をすればよいのか、知ってもらう。

治療者の気分次第と思われるのはまずい。客観的で検証可能な基準を共有する態度が正しい。そのような試みには価値がある。患者の立場にすれば当然の、大切なことである。

マクドナルドで注文するように。またはエステでどのコースにするかを注文するように。何を期待しているか、期待通りのものが出てくるか、そのサービスに対する金額は適切か。

いいものを、と考えない。期待通りのものをと考える。満足度が問題である。

その点では「体験記」の類が役立つのではないか。
症状への不安、孤立感。しかしその後の安心感。
最初にあった薬への不安と、その後の薬への感謝。
こうしたことを体験記の形でまとめておいて、患者に読んでもらい、患者・家族教育の材料とする。

3040
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●なるほど。人格障害の治療場面を適切に描写している。この場合も、怒っているのは治療者ではなく、患者でもなく、第三者である加害者であるということになる。治療室で、第三者が登場している。治療場面での隠れた主人公になっている。
・長期性虐待経験者は性的供与のみが価値ある供与であると思いこみやすい。
●セックスを媒介とした人間関係だけが残される。なぜか。それは関係というよりも「利用」ではないだろうか。
・多重人格の転移。各人格によってさまざまな転移を示す。断片的で動揺する。
・外傷には伝染性がある。治療者は患者と同一の恐怖、怒り、絶望を体験する。「代理受傷」である。また患者の外傷体験物語を聞くことは、治療者が過去に受けた個人的外傷体験を再活性化する。
●それが共感というものだろう。
●この本を読むことも同じく、過去の外傷体験の再活性化であり、再整理である。
・治療者の精神衛生のためにサポート・システムが必要である。単独で回復する患者もいないし、単独で外傷と取り組める治療者もいない。
・人間の加害性と残虐性の物語に何度もさらされれば、治療者の基本的信頼が揺さぶられることは避けられない。不信を抱き、シニカルに、ペシミスティックになるかもしれない。
●「かもしれない」などといってはいられない。人間として幸せに生きる条件のようなものが取り去られるのだ。不幸せの循環が始まってしまう。それはいけないことだ。
●不幸の循環。外傷→不信→さらに外傷を招くさらに不信

3041
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・治療者は患者の出口のない鬱憤と孤立無援感に同一化した。治療者は精神療法に何ができるかと疑うようになり、その代わりに実際的な助言を行っている自分に気付いた。
・「みんなはただ自分が体裁を整えて正常に戻ることを望んでいただけだ」
・「あなたは本当にひとりぼっちだと感じたに違いない」「ひょっとするとわたしにも全部は打ち明けていないのでは?」実際、彼女はこれまで治療者は聞きたがらないと思っていた。
・治療者は自己孤立無援感に対する防衛として、救済者役をとる。これは患者の転移を強化し、患者を無力化する。弁護士役になれば、患者には「あなたは一人では行動できない」と告げていることになる。
●なるほど。難しいものだ。無力化の再演になってしまっている。
・治療者の自己防衛の極限は万能感で、この治療者のナルシシズムを放任すれば、治療関係は腐敗する。
●これは治療関係ではないと鋭く感覚する能力が必要だ。多くの人にはそれができないから、システムが必要である。風通しが必要である。密室のナルシシズムは腐敗するだろう。
・治療者は悲しみによって患者と同一化し、喪の状態にはいる。これでは患者の証人役は果たせない。希望喪失の伝染性を自覚することによって立ち直る必要がある。
・立ち直るには愛情とユーモアという自然な感覚が役立った。
・治療者は私生活のありふれた楽しみを享受することが難しくなるかも知れない。治療の熱意の不足は無際限な献身で補うしかないと思うかも知れない。

3042
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
多重人格障害を治療することは、全身麻酔をしないで手術を行うようなものだ。
・児童期の反復性障害の患者の場合、外傷よりも損傷された対人関係に反応してしまうだろう。
・被虐待児の内面の混乱を自分も経験し、外傷既往の可能性に思い至る。
・治療者の任務は、境界例患者の内部世界における「役者は誰々か」を、逆転移を患者の体験理解の導きの糸として突き止めることにある(カーンバーグ)。
カーンバーグはこのような「役者たち」を患者の歪曲された、幻想上の表象であると理解しているが、それらは外傷を受けた児童の人生の初期の対人関係的環境を正確に反映している確率のほうが高いだろう。つまり、これは幻想ではなく、過去の現実である。
・安全を保障する二つのもの。一つは治療契約による目標・ルール・境界の画定。もう一つは治療者に対するサポートシステム。
・治療契約‥‥人間的愛着の起こす情熱のすべてを喚起するけれども、それは情事でもなく親子関係でもない。実存的関わり合いの関係である。
・治療者は耳を傾けて聴いて、証人(目撃者)となる。
●取り返しのつかないものではあるが、神の前での証人という感覚であるかも知れない。
・真実を語り、すべてを開示することの重要性を大いに強調しなければならない。患者は多くを秘密にしており、その中には自分自身にも秘密にしていることがあるからである。
・「真実こそ常に努力目標であり、最初は到達困難であるが、時と共に次第に到達できるようになること」を明確に述べる。

3043
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・よきコーチとなり、ベスト・タイムで走らせよ。
・何をなしうるか、その潜在力を知らせる。
・治療は共同作業が本質である。パートナーシップである。
・患者には信頼が欠けている。治療関係の始まりには信頼は存在していない。治療関係が何度もテストされ、断ち切られては作り直されるということを覚悟していなければならない。
●日本語の味がまずい。
・患者は一挙に救われたいという切実な求めを必ず体験する。治療者にも、患者の耐えた残虐体験の償いをしてあげたいという気持ちが湧いてくる。このように実現不可能な期待が必ず湧いてくる。したがって、失望を味わうことも避けられない。
●こうした一般的経過を知ることは役立つ。
・どういう場合に予定外の緊急連絡をしてよいかという基本ルールを決めておくこと。
・治療以外の社会的関係は一切結ばない。限界設定は患者をエンパワーするためのものである。
・治療者は自己の限界のある弱さのために、無条件な関与が不可能であることを明言しなければならない。「自分は限界のある弱い人間であって、大きい感情的関与を必要とする人間関係にかかわり続けるためにはいくつかの条件設定がなければならないのだ」と説明する。
●これは重要なよい説明。使える。●それにしても、患者さんというものは、医者は死んでも患者に奉仕して当然だと考えているところがある。患者が苦しいのだから、患者が話をしたいのだから、医者はいつでも電話に出るべきだと考えている人もいる。昔分院小児科の早川先生が嘆いていたことを思い出す。医者ももちろんそうしたい。それが理想である。しかし現実にはできない。だから苦しい。

3044
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●走るのはあなたで、治療者はコーチだと、はっきり意識してもらう。これも大切。治療の枠組みは、治療構造としての取り決めの面もあるが、お互いの役割についての考えを確認していくことも大切である。疾病理解、治療観についての対話と納得も大切である。
・治療者の孤立は問題である。結局は二人ぼっちになる。治療者は患者を本当に理解しているのは自分だけであると思い、傲慢となってこれに懐疑的な同僚といさかいを起こすようになっても不思議ではない。治療者の孤立無援感がつのるにつれて、誇大妄想的な行動に出るか逃げ出すかになる可能性が高い。
●「わたしだけには心を開いてくれる」この言葉は容易に治療者をとりこにする。「そんな言葉を吐いている間は、治療者として問題があるのだ」と注意したいが、遅すぎることが多い。専門教育が足りないことも問題であるが、ある種の素質を持った困った人がこの業界に少なくないことも問題であると思われる。まあ、仕方ないけれど。
・孤独を自覚したら、治療を中止すべきである。
・治療者へのサポート。治療者が自分には現実的な限界があるということを忘れないようにすること。他者にしているのと同じ良質のケアを自分自身にもしなさい。
・治療の報酬は人生が豊かになることである。人生への見方が、広く深くなる。
・社会運動に身を投じた人。人生には日常をこえた目的があるという感覚を持ち、また一種の連帯感をもつ。
●社会運動への関与は、非常に肯定的に評価されているようだ。

3045
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・人格の統合性とは、死に直面しても人生の価値を肯定しうる能力であり、自己の人生の有限性と人間の条件の悲劇的限界と和解する能力であり、絶望なくして現実がそういうものであることを受容する能力である。
●こうした臨床的な本で、人格の統合性を論じることはどうだろうか?場違いではないか?言葉の感じからして、こういう内容は、人格の統合性という言葉にはぴったりしないと思うが?どうだろうか?日本語にはぴったりの概念がないのか?キリスト教的な背景でも考える必要があるのか?
●「絶望なくして人間の条件を受け入れること」は不可能だと思う。感覚マヒか、妄想か、いずれかだけが救いとなるだろう。感覚マヒは、現実を遮断する。妄想は、現実を歪曲する。そうではなくて、現実を現実のままに受け入れて、おなかつくじけることなく、生き続けることだろうが、そんなことは不可能だろうといいたい。
●あいまいに、なし崩し的に、現実は現実だから受容するしかないという、低次元の態度と、どう違うのか。よく考えた上で、すっきりと受け入れる方法があるだろうか。そのことを問いたい。
●あるとすれば、何かの方法で「個」をこえるものだろう。トランスパーソナルでもよい。集団でもよい。宗教の中にはいずれの要素も用意されている。超越と、集団と。これは分裂気質と循環気質でもある。(気質についての、このような対立的な把握には問題があると感じるけれど)

3046
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・まず安全を確保することが大切。そのために、暴力の恐怖がなお存続しているか否かを質問することをルーティンとすべきである。
・多重人格者も、症状は隠蔽しようとする。
・外傷症候群は患者に全面的に告知されるべきである。自分の疾病の本当の名前を知ることでほっとする場合が少なくない。症状の主人となる過程が開始する。外傷の無名性に囚われている状態から解放される。自分の体験に当てはまる言葉があることに気付く。自分がクレージーではないこと、外傷症候群は極限的状況における人間の正常な反応であることを知る。苦しみは無限ではなく、回復してよいのだと知る。他の人たちも回復したのだから。
●このような癒しの作業に、治療者との人間関係が本質的な働きをするということは、実に感動的である。
●名付けられることのない悲しみ。その時まだ治療への一歩を踏み出していないわけだ。
●「ほっとする」ことの中には、精神病ではない、クレージーではないとする安心感があるだろう。では外傷ではない、本当の精神病の人はやはり救われないのだろうか。困難な現実である。
・外傷直後に情報を患者と共有することが大切。PTSDに関する説明書(ファクト・シート)を渡す。1)自分の体験を人と話し合いなさい。2)アルコールに逃げるのはやめなさい。
・しばしば治療者は、援助を受け入れることはあなたの勇気を証明する行為であるというリフレーミングを行う必要がある。
●薬に関しても使えるかも知れない。薬を使わないのが勇気ではない。薬を適切に使って現状を変革し、よい人生を生きること。そのために一歩を踏み出す勇気を持ちましょう。

3047
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・ストレス・マネージメントには行動療法がよい。リラクセーションも過激な運動もある。認知療法としては、症状を認識しそれに名前を与えること、症状と好ましい対応とを記録する簡単な日記を使うのもよい。宿題もよい。
・レイプ後の検査で、再レイプにならないように注意する必要がある。心の準備に充分の時間をかける。検査に至る一つ一つのステップごとに患者に意見と承諾を求める。情報を与え、被害者が積極的当事者になれるようにする。
・交感神経過覚醒に関して。プロプラノロールやリチウムを推奨する人もいる。
・単に「薬をのみなさい」といわれるならば、患者は力を抜き取られることになる。患者の判断により、一つの道具として薬物を提供されるならば、患者が自分には有能性と自己統御性とがあるという感覚は強められるだろう。この精神で薬物を差し出せば、協力的な治療同盟が築かれる。
●そうはいうものの、患者が自己決定するのは難しい。自己決定のチャンスは必ず確保することが必要だろう。最終的には、来院しないという権利があるが、そうする前に、いろいろなことを相談できるようにすべきだ。しかしそれにしても、医者との関係は難しい。権威との付き合い方は難しい。
・安全な避難場所を確保する。
・生活における重要な対人関係を念入りに洗う必要がある。実際的援助となるか、危険の出所である可能性はあるか、検討する。
・家族面接について。家族に何を話すか、誰に来てもらうか、最終決定は被害者にゆだねる。
・安全感を保てる場所に引きこもる権利を保障する。
●このような配慮をケースワーカーのようにしてあげれば役立つ。

3048
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・症状の安定と回復は別である。
・慢性児童虐待の被害経験者。安全確立はきわめて困難。自己管理能力が破壊されている。自己破壊行動の多くは、元来の虐待の象徴的再演、時には文字通りの再演と解することができる。
・自己破壊行動は、自分を落ち着かせる適応的な行動がない場合に、耐え難い思いを制御しようとする役割を果たす。
・自己管理能力と、自分を落ち着かせる能力は、虐待児道には発達しない。
●虐待にもかかわらず、自己管理能力と、自己を落ち着かせる能力を発達させる場合はないだろうか?「にもかかわらず」の場合。意識的に、能動的に、これらを獲得する場合がないだろうか?
●運命に翻弄される。一方的に翻弄される。それに対して抗する道はないのだろうか?何かとても無力な人間像ではないか?無力であることを認めるからこそ、患者は自分を責めさいなむことから解放されるのだけれど。
・慢性外傷患者は自己管理を治療者にゆだねようとする。その背景には、自己の身体が自己に所属するという感覚が失われていることもある。
・自分が自己身体をコントロールするという感覚。
●過食の場合。コントロールの喪失と映る。
●一方、拒食は自己身体の過剰なコントロールであろう。だとすれば、自己管理能力の喪失は、過食となって表れるのではないか。
管理の過剰と喪失を、拒食と過食と考えることはできないか。
・患者が自分で計画し、開始し、自己判断することは、有力化に貢献する。

3049
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・双方が和解を願ったとしても、虐待者は通常、強制的支配を取り戻したいと思っている。虐待者が暴力行使しないと誓う代わりに、被害者に自己決定権を放棄して欲しいとの裏の条件があることがある。
カップル面接は、支配と強制という図式が全くなくなってしまうまでは禁忌である。
●なるほど。面接室で怒ったことの尻拭いを家でしなければならないのなら、問題である。盲目の治療者は平気であるが、被害者はますます追いつめられる。
●そうはいっても簡単ではない。患者はもちろんだが、家族や周囲の人もたいていは問題を抱えている。また治療者も問題を抱えていたり、時期によっては関心が偏っていたりもする。そんな中で、多様な、しばしば予測不可能な、乱反射に似た事態が発生する。そのようにして治療は信仰する。いっそのこと、薬物療法が好ましいかとも思える。
しかしそれは専門家としての高等な印象である。一般人はそのようには考えない。あくまでもカウンセリングが必要との信念である。
カップルは別々に治療されるべきだ。誓約をしても意味がない。「強制的にコントロールしたい」という欲望を治療すべきだ。
●他人を、特に自分にとって魅力があり、意味のある他人を支配したいという欲望は、人間にとって本質的かも知れない。ある場合は暴力によって。ある場合は、自分の弱さや弱点によって。たとえば境界例患者の対人関係は、支配のゲームを続けているようでもある。母親や夫を支配する。支配される人はなぜそのように支配されてしまうのか、なぜその状態から抜け出ないのか、周囲の人間には理解できない。

3050
外傷性として取り扱うには特有の困難がある
症状を、器質性または分裂病態と断定してしまえば、むしろ治療は楽である。外傷性であると考え、現在の症状は過去のこころの傷のせいだと仮定して治療するのは困難がある。治療者が苦しい。取り返しのつかない過去をどうしてくれるのかという、解決困難な問題に取り組むことになる。当事者でない者が、どうして解決ができるはずがあるだろうか?
そのような困難に取り組もうと意志することがまずもっておかしなことなのだ。事態を明確に把握していないからこそできることだ。

しかしまた一方で、外傷性障害の捉え方は、一般の人たちの精神障害の捉え方に一致している。心因の後遺症としての障害。この一致があるからこそ受け入れられるし、治療の開始に当たってはむしろスムースに事が運ぶだろう。
しかしそのあとが問題である。治療者にはたいしたことはできない。そのことを納得していただくのは難しい。たいしたことはできないけれど治療はできるというのだろうか?治療はできないけれど、通院はしなさいというのだろうか?

それでも通院するというのなら、一体どのような動機があるのか、問題にすべきではないか。魔法は使えないのだし、患者の幻想を実現してあげることもできない。

治療者は自分に実際にできることは何か、してよいのは何か、明確に把握すべきだと思う。

3051
「よい子という病」春日耕夫・岩波書店
●いわゆる「よい子」とは、内発的によいのではない。まずよいことは何かといえば、それは親と社会が期待する「よい子」である。その期待に従順でいられることが「よい」こということだ。
そのままの自分でいて愛されるということがない。期待に沿うことが、愛されること、そのような取引がある。
それでは親と社会が期待する「よい」とは、本当によいのかといえば、子供にとっても親にとっても社会にとっても、疑問があるだろう。
●こうした趣旨である。しかしながら、人間はしつけられて始めて人間になるのだ。そのままの存在でよい社会人になれるものではないだろう。
ではどのようにしつければよいかという事になる。親はそんなことを知らない。倫理は欲望の下に置かれている。「やったほうが得」そんな風潮である。
自分の内面からの生理的な欲求を満足させることがよいことだとするか、それともそれをコントロールすることがよいことだとするか、これは文化のあり方に従う。現状では、生理的満足を最大限に実現することが目標になっている。(その一方で、より高次の満足を求める欲求は小さいようである。人間として出来損ないに近づいている。ニーチェの言う超人と人間と猿でいえば、ますます猿に近づいている。)
このような文化のあり方に子供はまことに素直にしたがうしかないのではないか。こどもは生理的欲求が激しい。コントロールはまだ悪い。そもそも欲望のコントロールができるというのは、諦めたり先送りしたりして得られるものが、現在の満足よりも意味があるからだろう。そのような利益の天秤ができていないのだから抑えようもないはずだ。

3052
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●他人を強制的にコントロールしたいとする欲望。それがやや高級になれば、徳によって他人を支配するようになる。その場合には支配といわず、別の「高級な」単語を用いる。信服するとか師事するとか。
猿もつくる階級型社会を維持するための本能である。他者との優劣を決定しておきたいのだ。水平的な連帯は本能に反する。ピラミッド型の社会がいい。そうした思考の人々が一定数存在する。そしてその人たちが社会の中で、特に実業の分野では成果を上げる。
●例えば、最近の中学生のナイフ事件。中学生の心の世界にくっきりとした階級制社会がイメージされていれば、もっと別の状態になっているだろう。階級制社会が内在化されれば、そこに超自我や倫理が育つのではないか。
集団のボスの役割は、各人の超自我の代理をすることではないか。誰かがナイフを出して衝動を発散しようとしたとき、外部超自我装置としてのボスまたはリーダーが、それを止める。
非階級型水平社会はむしろ居心地が悪いのではないか。とくに個人の衝動を抑制する装置としては水平型社会は出来損ないである。
階級型社会となれば、自動的に軍隊や闘争的利益集団、会社のようなものを考えてしまうからいけない。徳による階級社会とでもいうべきものならば平和型階級社会となるのではないか?→やや低レベルの思考?
●人間社会のルールというものへの感覚が問題なのではないか?他者を支配したい、優越したい、そうした欲望があること自体はいいではないか。その欲望をどのように発揮していくか、そこに社会のルールというものがあるはずだ。ルールを守らない場合には何が起こるか、そのあたりの教育が大切ではないか。それこそが躾である。

3053
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・治療者は安全はすでに確立されていると安易な仮定をすべきではない。
・被害者の自己決定の範囲を拡大する。原家族との間に限界設定を行う。
・原家族に真実を開示し、加害者との対決は後の段階で行う。
●加害者を懲らしめるという発想に乗ってはいけないのだろう。
・家族への早すぎるディスクロージャーは有害である。
・虐待の発生源が、被害者を経済的に支配している場合、事態の解決は困難である。
・自由なくして安全も回復もない。しかし自由の代価はしばしば大きい。
・過早に、猪突猛進に深い問診を行ってはいけない。
・患者には、ぶちまけて話をすれば問題が解決するという思いこみがある。暴力的なカタルシス的治療によって、外傷が一挙に永久的に除去できるという幻想がある。このイメージは通俗文化の至る所に浸透している。
・早すぎる「暴き療法」が、悪夢とフラッシュバックを引き起こす。
・患者の「大丈夫」を信用しすぎてはいけない。
・治療者は安全を余分に見込む。
・「患者には自己管理能力があること」「治療者は慎重すぎるほど慎重であること」を患者に証明する。慎重にすれば、自信を育てることができる。
・回復は短距離ではなく、マラソンである。治療者はコーチ兼トレーナーである。
・安全、信頼、人生の予見性などを取り戻して、第一段階は終わる。ここまで至れば、外傷を一時棚上げして、人生を前進させてもよい。

3054
「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・第二段階では、外傷のストーリーを再構成して語り、ライフストーリーに統合する。再構成の作業により、記憶は変形を受ける。
・外傷記憶はそのままでは、言葉を持たない。また時間は停止し、静止的である。スナップショットかサイレント映画
●記憶の構成要素が十分ではなく、欠如がある。思い出して再構成することは、欠けた構成要素を後から付け加えて、完成することのようだ。しかし、だからといって何も変わるわけではないだろう?なぜ、治癒が可能なのか。謎である。
★●塗り絵のようなイメージである。どのような色を塗るかで、印象ががらりと変わる。
・治療者がそばにいてくれるからこそ、被害経験者は口に出せないことを口に出せるようになる。揺るがない同盟と勇気が必要である。
・患者の疾病は患者の敵である。戦うべき相手である。
・安全を保ちたいという欲求と、過去に直面しようという欲求との間のバランス。
・狭窄と侵入の間にある、安全な通路。
・外傷の再活性化の危険。
●微小再燃や添え木療法の話は、分裂病でもよいが、外傷性障害の場合によく当てはまっている。
・覆いをはがすとしても、患者の耐えられる範囲にしておく。
・悪化したら、治療の速度をゆるめる。
・外傷の再構成は大事業である。日常の業務は大目に見てもらうことも必要である。

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「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・ストーリー再構成は外傷以前から始める。過去との連続性を取り戻すためである。重要な対人関係、理想と夢、努力と葛藤を語らせる。「どのような文脈においてその人にとっての外傷の意味を理解すべきか」の鍵を与えてくれる。
●なるほど。その人のイメージシステム、意味のシステムを理解することから始めなければならない。しかしながら、ちんぷんかんぷんの人も多いのだが。
・物語がもっとも耐え難い瞬間に向かうにつれて、患者は言葉で表現するのが難しくなっていくのに気付く。時には非言語的コミニュケーションに切り替える。絵などを用いる。
・映画を見ている感じで、細部まで再現する。五感を全部言ってもらう。
・身体感覚が大切である。匂い、心臓の鼓動、筋肉の緊張、足の疲れ、それらを語ってもらう。
・変性意識状態で書いたものであるとしたら。診察室で一緒に読むべきである。
・感情抜きで事実だけを語らせるのは実りがない。治療効果はない。何が起こったかだけではなく、何を感じたかが大切である。感情も具体的・微細に再現されるべきである。
・感情をその強度の全幅において再体験することができるように、安全を保障する。
●治療者として、このようなことができるものだろうか?この日本の風土ではどうだろうか?いたずらに恨みを深めるだけにならないか?医者という権威と共に、誰かの罪悪を再構成する作業にならないか?それは利益のあることだろうか?
いや、このようなことをいえば泣き寝入りになり、加害者は裁かれず、被害者は救われず、いつまでも変わらない。それを変えようというのが本書の趣旨である。
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「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
・生存者には、かつては所有していて、外傷が破壊した、価値と信条とをはっきりと口に出していってもらう。
●レイプ被害の告発同盟のような印象。一種の洗脳プロセスのようである。被害者として生きるのではなく、社会改革者として生きるように洗脳される。そのほうが確かに幸せかも知れない。そしてその幸せは何となくアメリカ的という感じがある。
・既知の説明体系の不十分さを味わっている。怒りよりもむしろ戸惑いである。その答えは人間の悟性の限界を超えている。
●説明不可能のやりきれなさ。
・さらに「どうしてこのわたしに?」の問いがある。
・彼女が不当にこうむった苦しみに意味を与える信条体系を再建しなければならない。
ドストエフスキーなどは、こうした線上にある。捕らえられて、死刑の宣告を受けて、理不尽にも死刑のまねごとまでされた。なぜなのか。そうしたことの一切をどのように理解して自分の人生を考えたらよいのか。そのようにして他人の心を引き裂くのはなぜなのか。そうしたことの一切を考察しようとした。キリスト教的解答が用意された。
●意味の体系を再建するとすれば、大変な作業である。キリスト教マルクス主義フェミニズムなどの背景があるならばよいが、そうでない場合には行き止まりになるのではないか?
・有意味感は思考だけでは再建できない。行動も必要である。生存者は何をなすべきかを決めなければならない。
・有意味感はかつての共同体の中では共有することができないかも知れない。それでも、批判に抗して持ち続けなければならない。
●洗脳に似ている。こうまでしなければならないほどの悲劇であることは理解できる。しかし何か他に方法はないものか。

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病棟で山田さん。「もう全部だめになっちゃったよ」と語る。実際そうだと思うので辛い。それは妄想ではないか考え違いでもない。その行き止まりをどのようにして打破できるかといえば、非常に困難である。

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「心的外傷と回復」ジュディス・L・ハーマン
●例えば、むかし女性が尼さんになってしまうこと。外傷からの避難と癒しの場所であっただろう。物語の中には、外傷としてはっきりは描かれないことが多いとしても。
・治療者は被害者との道徳的連帯性を鮮明にすべきである。この点では中立的では足りない。
・治療者の役割は既成のありきたりの答えを与えることではない。
・治療者は、生存者の価値と威厳を肯定するような、外傷体験の新たな解釈を構築する助けをしなければならない。
●たとえば分裂病者の家族の場合。世界について、人生の価値について、新たな解釈を必要としている。一時はそのようなことを積極的に語りかけたこともあったが、そのレベルに達する人は少ない。他人の言葉が耳に入らない。耳にはいるようになるには、余裕と、自分の内部での成熟が必要である。結局、そばにいて、嫌われないようにしていることが、できるせいぜいのことだ。
何という悲観主義
・道徳的連帯を鮮明にする。
・生存者の価値と威厳とを肯定するような、外傷の新たな解釈を構築するよう励ます。
・被害者は治療者に真実性の確認役をしてほしいと期待している。「語るよう励まし続けて下さい。語る姿を見るに忍びなくても。わたしがそれについて語れば語るほど、それが間違いなく起こったと思えるようになり、それを統合できるようになる。絶えず大丈夫だよと言ってもらうことは非常に大切である。」
●なるほど。明確に語ることを補助する。語ることが禁止されているから治らない。

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乳幼児死亡率が低下して、いろいろな子供が生き残る。ここで淘汰が働かないことも、その後の問題を多くしている。

親はどのような人生の方針を呈示するべきか。
正解を呈示することは難しい。正解は普遍的ではなく、状況に応じてのものである。
だから呈示すべきは態度である。自分として人生の価値についての仮説をたて、それを検証するために最善を尽くす。この、ベストを尽くす態度は、子供にも強い共感を持って迎えられるのではないか?しらけるという。これは結論を留保したままで、しかし結論にしか意味がないと考えているから、しらけるのだと思う。
価値の相対化の時代、価値の変化の早い時代の中にあっても、伝えられる価値はあるはずである。
それは最終結果にあるのではなく、悩みつつ進む過程にあり、なにより自分の仮説を検証する態度にある。
(とはいうものの難しい)

何になればいいかではない。何を手に入れればいいかではない。そうしたことをどのように進めるか、その手順について、態度について、伝える。
医者になることを目標とするのではなく、目標を立て、目標に向かって努力する姿を目標とする。
(説得力なし。平凡。中学生の作文並み)

子供は親の価値観ではなく、テレビや雑誌の価値観にしたがう。マスコミは「伝導」のプロだから、親はかなわない。何よりも、親がマスコミにのみ込まれている。

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最近の子供についてテレビでコメント。
悩みを語ることさえできない。
感情が抜けている。心が抜けている。