こころの辞典2701-2756

2701
災害と人的トラウマの違い
・人との関係は、内部に取り入れて内的対象関係を作る。災害はそのようなことが起こらない。
・かかわった人との関係から、内部に人格セットを作る。その人にどうかかわるかで形成される人格と、その人を取り入れて形成する人格とがある。
・そうした複数の人格セットを束ねてコントロールしている部分がある。基底欠損の場合には、そうした中央コントロール部分が欠けてしまう。
・人格セット同士の関係は、さまざまである。各人格の記憶を、どの人格が知っているか、知らないか、それはさまざまで、非対称である。中央コントロール部分は全部を知っているとする説が強い。(隠れた観察者現象)
・各人格に連絡できる人格が、将来の統合された人格の核となる可能性がある。
・統合されていない人格は、何かの引き金によって全体の人格を乗っ取ってしまう。それが交代人格として観察される。場合によってはそれが適応的な場合もある。スポーツの試合前の人格変換など。
・こうした変換はまったく不自由に不随意に生じているかと言えば、そうでもない。自己催眠により、自分に都合のいいように生じる場合があると考えられる。
・統合されない部分人格というものが形成されるのは、人に関する体験が納得できない、割り切れない、全面的に悪だと決めつけることができず解釈に苦しむ、そうした場面ではないか。好きだといってくれて頼っていいと言ってくれている人に虐待されるといったような状態。(ここでダブルバインドに近くなる)
・治療は、人格の統合。どんなときにどの人格を使うかをコントロールすること。
・核となる人格をつかまえて、その人を通じて話をする。部分人格に直接話をしているとどんどん分裂していく。

2702
境界性人格障害患者の初期治療について」(皆川他)
・「それそれ、それが病気のところ。そういう間違った確信というのが治せればいいんだけど」などと介入する。書き換えのできない情緒記憶。
・「そう、それがあなたの治すべきところよ」とまず言わないといけない。それを相手が立ち止まって聞いてくれることが大切。
・「それがあなたの強い思いこみで、そう思い込むのが無理もないような歴史があったかも知れない。しかし、それは昔の話で、大人になった現在では、そういう思い込みをしていることで何もいいことは起こらない」
・この思い込みを書き換えていく必要がある。「この治療をやめると言うけど、一体治療者のどこが気に入らないのか」と聞いていく。
●とっても皆川流。情緒記憶はモデレの説。「書き換える」とは、ROMとRAMの話でコンピューターの記憶にたとえた記憶の書き換えのこと。こうしてみると認知療法のセンスに近いかも知れない。認知療法は認知の書き換えだけれど、こちらは情緒記憶の書き換え。

2703
フロイト流に内的欲動に原因を求める→内部帰属説。道徳的。
現代流に外傷に原因を求める→外部帰属説。攻撃的。

「そういうつらい目にあっているのはあなただけではない。みんなそれぞれ大変な目にあっているんだ。個人の内部に原因がある」と言い張ることができる。
一方、「内部に脆弱性があったとしても、そんなつらい目に遭わなければ問題はなかった」と言い張ることができる。
折衷案としてストレス・脆弱性モデルが取り上げられる。

病院で環境のせいだと言うことはつまり、病院に責任があるということになるから言いにくい。結局は患者のせい、病気のせいということにしておけば問題ないことになる。そんな事情で、入院患者に対しては徹底的に内部帰属説を採用することになる。

外部帰属説は、おばちゃん素人カウンセラーがとりがちだ。患者を味方にできる。とりあえず嫌われなくてすむ。(その場では嫌われないだろうが、患者はあとで考えてみて、自分の大切な人についてあそこまで悪く言わなくてもいいのにと感じることもあるのではないか。そんなにまでいかない程度に患者に賛成するのがコツだろう。)

2704
「あなた達はとても不幸だと自分達のことを思っているだろうけれど、世の中にはもっともっと不幸で大変だけれど、何も言わずに黙々と頑張っている人たちがたくさんいる。」こんなお説教をする人もいる。
災害にあうことではなく、このような人にあうことがトラウマを作るのである。

大変な目にあって働いている看護婦たちに、「大変なのはあなた達ばかりではない、工夫が足りないのだ」とお説教する総婦長。

2705
性について
性器の快感を得ようとするだけではない。それを支配の道具に使う場合がある。その場合の快感は性器から発しているのではなく、支配の感覚から発している。ここでサド・マゾと結合し、支配・被支配のピラミッドの中での順位の問題へとつながる。順位の快感も大きい。そして性の快感と順位の快感が結合し混同される。

高貴な位の女性、社会階層として上位の女性を、性的に支配するという主題は文学で繰り返し扱われている。

2706
抑圧説(フロイト)と解離説(ジャネ)の対立にしても、結局は政治的なものだろうという気がする。自然科学としてどちらが正しいかという話にはなっていない。どっちが喧嘩に勝っているかということだろう。
特に心理屋の説は一種の呪文であって、実りがない。宗教の宗派の対立のようで、たいして実りはない。会員が多くなれば真実に近づくといった程度のものだ。くだらない。それを自覚していない人間がまたかわいそうである。

例えば、理性と感情とと体とがバラバラだ。などといって何が分かったことになるのだろうか。
神経生理で説明する。この態度が必要である。

抑圧モデルで説明していたことを解離モデルで説明することもできるだろう。認知モデルや神経心理モデルでもできるだろう。
抑圧については解離モデルで置き換えた法が広い事象を説明できるようになると思う。連絡不十分の、解離された部分に、抑圧の内容がパッケージされる。それが抑圧と見える。

2707
外傷性精神障害岡野憲一郎
●「心の傷」ととらえて共感することがまず第一歩ではないかと考えさせられる。勉強になった良著である。
・シュナイダーの一級症状を解離性の現象として読みとることができる。
・境界状態の症例の中には、外傷性のものが混じっている可能性がある。
・境界人格障害と外傷性精神障害の症候学的な類似。
・患者さんの症状は、過去の外傷の繰り返しである。
・患者さんの現在の症状は、過去に体験した心の傷の繰り返し、再現、ないしはその代償行為である。
フロイトの場合。人間が最も脅威に感じるのは、本人の持つ衝動であるという考えが常に優先されてきた。このような見方にのみ固執した場合には、時には現実の外傷の持つ病理性を軽視、ないしは無視する傾向を生む。
・治療者が、自分にはよく分からない、納得のいかない、自分の手にあまる患者さんの症状を、いわば患者さんのせいにしていた。そしてボーダーラインという診断が下る。ボーダーラインの診断をレッテルのように用いて、その患者さんに対するネガティブな感情を同時に込める。
・患者さんの症状を、患者さんが過去に受けた扱いを、治療者を含めた周囲に人々に対してしていたのだと理解できれば、患者の過去に対して共感の気持ちを向けられたはず。
・治療としても、外傷記憶の再統合という目標を設定できる。
●治療者は患者を微妙に「断罪」している面がある。それよりも、どこまで共感できるか、トライすることが必要である。そのために、外傷性障害といった概念が役立つ。よい切り口である。拡張すれば、心因性の解釈の可能性をもっと広げるということだ。了解可能性をもっと追求するということだ。ここまでくれば、すでに笠原が説いていることと同じになる。
●語り口の問題。同じ内容を語るにしても、心に届く語り口というものがある。それは臨床では大切である。そこを修練する必要がある。
・患者さんにとって安全と感じられるような治療環境を確保することが第一。

2708
新聞より
・「患者よ、がんと闘うな」が専門家でない読者の共感を呼んだ。反論して「病気と闘おう」とする医者もいるが、抗がん剤の投与を受けて病状の急変した患者を近親者に持つ人には素直には聞き入れがたい。
専門家が反論しても、患者の漠然とした不信感は消え去らないだろう。専門家と素人では納得の仕方が異なる。患者は素人とはいえ、当事者として深い納得を求めている。
●素晴らしい指摘である。専門家が専門家として納得していればそれでいいというものではない。自然科学で「真実は一つ」、それだけが大事というのとはわけが違う。「納得の仕方が異なる」とズバリ刻み込んだ方がいい。不安はある。真実だから不安はない、真実を不安に思うのは本人に問題があると切って捨てるわけにはいかない。

2709
トラウマ・リハビリテーションの可能性

2710
メジャーを飲ませる

レセプターに蓋→実働のレセプター減少
だるくて動きたくない→ドーパミン減少

アップ・レギュレーションにより、レセプター増加。

過敏状態

メジャー増量

このようにして悪循環が形成される。

2711
外傷性精神障害岡野憲一郎
・外傷とは、精神にとっての圧倒的な体験。強い衝撃を受けて、その心の働きに半ば付加逆な変化を被ってしまうこと。我々はストレスや衝撃に対して、忘れる、無視する、落ち込むなどと対応している。
・しかし衝撃が大きすぎる場合、心の通常の治癒能力では処理しきれなくなり、外傷記憶が形成される。
●老人の場合には、こうした処理能力が減退している。使える対処方法としては、忘却、無視、解離など、低次の適応機制が手っ取り早い。健忘や失見当識に関して、このような側面がないか考えてみる必要はないか?つまり、痴呆に関して、了解可能性をどこまで拡大できるか、チャレンジすべきである。
・自分の体験に対してコントロールを失ってしまっているという感覚。他人の意志や自然の力の前で、自分が意志を持たないひとつのモノのように扱われているという感覚が伴う。無力感。
●「なされるがままの無力感」といっていいだろう。無力感はとても強烈なストレスである。無力感から抜け出し、自己と他者と世界へのコントロールの感覚を再獲得するために、暴力や衝動行為が有効である。たとえば皿を割る。支配の感覚の再獲得のためにはいじめも有効である。無力感は権力ピラミッドの最底辺であると感じさせられる。それは群れる動物の本能にとってはつらいことだ。
●なされるがままになりつつも、そこに主体性を反映させ、余裕を持って事態の推移を見ることができる、そのような態度も考えられる。それを「なされるがままの態度」という。
・外傷性障害‥‥解離現象、記憶の障害、世界観・対象関係の持ち方
・解離‥‥軽度なら離人。「いじめられている子は私じゃない。」
・外傷性記憶‥‥断片的、つながりがない、ストーリー・ラインを形成しない、感覚的、印象的、感情的、無意識的。外傷を体のレベルでのみ覚えているという場合がある。原因不明の身体症状という形をとる。外傷的な事態が起きた場合、しばしば海馬の働きが抑えられて、通常のストーリー性を持った記憶(「明白な記憶」)の成立が妨げられる。外傷記憶は「潜在的な記憶」により構成される。
・外傷記憶が思い出されるとき、フラッシュバックや悪夢や身体症状という形をとる。意図に反して勝手に襲ってくる。フラッシュバックは多くの場合、本人も気付かないような非常に微妙なきっかけによって始まる。
PTSDでは二相性の反応。(1)過覚醒状態におかれる。フラッシュバックを避けるために感覚を遮断して引きこもりがちになる。これが(2)反応の鈍麻である。
●過敏と、それに対するコーピングとしての引きこもりという図式は、分裂病と同じである。
・解離はそれまで通常保っていた自我の体験(感覚、感情、記憶、行動)の一部が自我に統合されなくなった状態である。
・「外傷性の論理」の中でもよくみられるのは、彼らが対人関係の上で起こることに対して、一切コントロールすることができないというある種の確信である。
●一方的に虐待される状況の反復と考えてよいのだろう。

2712
外傷性精神障害岡野憲一郎
・「陰性外傷」に晒された人々は、他人との間に基本的な信頼関係を築いたり、「自分」という自然で安定した感覚を持つことについて重篤な障害を持つようになることが少なくない。
・外傷論から見た精神の健康度。これまで外傷体験を持たずに人生を歩むことができたかどうか。
●しかしこれにも問題がある。「あの人は○○の心的外傷があったから変なんだよ」と断定される材料に使われてしまうこと。差別と攻撃の材料にされてしまう。心の貧しい人たちはどんなことも相手の攻撃に利用してしまう。→昔書いた詩。
例えば、病院がおかしい、これでは患者がかわいそうだと誰かが声を上げる。それに対して、あの人はこれこれで異常だと診断が下る。その診断の材利用として、過去が引用される。病院がおかしいのではないかとの議論は彼の昔への興味にすり替えられる。このようにして斉藤先生は再発する。
●外傷がなければ健康だという言い方には抵抗を感じる。外傷があるゆえに、ますます健康になることができるのである。
・治療は、患者の心を癒し、その綻びを修復すること。
・昔からの治療観。精神主義、禁欲主義の人間観。苦痛やストレスに耐えることが発達促進的であり、私たちの精神の健康度や成熟度を増すとする。
・しかしこのような艱難辛苦は、他の人にとっては外傷的に働いてしまい、結果として性格的な歪みや明らかな外傷性精神障害が生じる可能性もある。
・意地悪で暖かみのない人に出会ったとき、その人はきっと過去に、本当の意味での愛情に包まれ、安心できるような環境に育つという体験を持たなかったのだろうと考えることができる。きっと心の傷になるようなこと、人から裏切られたこと、それにより世界全体を恨んでも恨みきれないようなことをも体験している可能性がある。
そのような人は、ストレスを踏み台にできず、それに負けた人の姿としてとらえることができる。同じストレスでも、それを糧にできる人とそうでない人がいる。「艱難辛苦汝を玉にす」というのは、健康な人が外傷にならない程度のストレスを体験した場合という幸運なケース。そして現在のストレスを糧にできるかどうかが、今度は過去に体験したストレスの大きさによって決まってくるという事情もある。
●適度のストレスが人を成長させる。
精神主義の治療者は、患者に何かを与えるという発想を受け容れ難く感じる。精神療法とは、患者に誠意やエネルギーを分け与えるプロセスであるという考え方を受け容れられない。
・外傷を負った患者さんが持つ問題は、むしろ過去に過酷なストレスや苦痛を強いられすぎたことである。診察場面で、これ以上のストレスフルな解釈や直面化は少なくとも治療の初期には避けるべきである。
・まず安全な治療関係を患者との間に作り上げること。安全でない場所での外傷記憶の想起は、再外傷体験につながってしまう。
・患者さんがこれまで、過去の外傷記憶について話せるような安全な環境がなかったからこそ、その記憶は患者さんの心の隅に隔離され解離されたままでままでこれまで来た。
・安全な環境を作り上げるためには、治療者の側の積極的な関わりが必要である。支持的態度、フレキシビリティーが必要。
・治療者の側の積極性が必要な理由。多くの患者さんが、自分が治療者に対して要求を持ち、それを言葉に出して言うことに罪悪感を持ったり、自分にはそのような資格がもともとないと感じているためである。
・患者さんの依存欲求を一つ受け入れれば、それが患者さんの退行を招き、収拾がつかなくなるといった固定観念がある。
ストレスに耐えることができる自我が成立している患者さんの場合には、精神分析的な、ストレスフルな面接でもよい。主として神経症レベルの人。自我の弱い人にたいしてそうすると、被害妄想的にしたり、再外傷体験になったりする。その場合の治療は、むしろストレスに耐えるだけの自我を育てることである。
・治療者はストレスを積極的に施す立場にはない。ストレスによる苦しみに共感し、それについて話し合う立場である。
●微妙である。これを低次の誤解により解釈する人もいるだろう。患者の中のどの部分と同盟を結ぶのかという感覚が大切である。病的部分の病的訴えについて共感していても治療にはならないだろう。
・しかしながら、以下の注意も大切。治療者が支持的に接すれば接するほど、患者さんはそれに対する期待や依存欲求をかき立てられる可能性がある。それに対してすべて応えられる治療者などいない。そこに当然限界設定が必要になる。
例えば、面接のない日に10分だけ電話に応じることにしたとする。患者さんは今度は10分で電話を切るというフラストレーションを体験する。電話による対応はしないと決めていればこのようなフラストレーションは体験しなくてもすんだものである。
支持的であれば、フラストレーションは少ないとはいえない。
限界設定に対して患者さんが感じるフラストレーションに共感することが支持的である。
こうした限界設定は患者さんには外傷的な意味を持たず、むしろ現実検討を助ける。
・面接を終わりにするとき、抵抗があったら。「決まっているから」「構造を守ることは大切だから」と言わない。「私の気持ちよりも、自分の治療方針に従うことの方が大切な、冷酷な人だ」と感じるかもしれない。「次の人も待っている」「残りの十分で所用を済ませる必要がある」「私にも休憩が必要だ」「あなたにとっては大変だけれど、仕方ありませんね」と話す。大きな違いである。
・安全な環境の上で、断片化された記憶、断片化された自己を統合し、自分の人生におけるストーリーを再構成する作業が治療である。
・安全な治療関係の上に立ち、外傷体験に関する記憶を再現し、それを少しずつ昇華していくことは治療の根幹である。徐反応はその典型。(●昇華の言葉は不適切だろう。比喩的には分かるが、用語としても成立しているから。消化とか、咀嚼とかが適切)

2713
外部の人格を内部に取り込む。そのようにして人格のセットが次第に増えてゆく。
その際に、神やイエスキリストや、釈迦がどのように扱われるか。
そうした部分人格からの「声」が、両親であり、道徳観・倫理観である。超自我の形成をこのように正常範囲内の解離性のシステムで説明してもよい。

憑依現象の場合。例えば、キツネ的な人格を内部に写し取って持っていたことになる。→それは十分理解可能。現実のキツネを内在させているのか、「いわゆるキツネつきといわれるもの」を内在させているのか、これについては両者があると思われる。

各人格セットの間には、ジャクソニズム的な階層構造がある、と考えてはどうか。

2714
座禅。
トランス状態。
トリップ。
没入。
人格Bへの変換。
座禅は他人格への変換の方法である。
症例→鎌倉の寺で、座禅をしていて、解離状態になった。お坊さんにのしかかられる。声が聞こえる。こうした症状は、分裂病性の幻覚妄想ではなく、解離性の症状であったのかも知れない。そして具体的な事実として、トラウマがあったのかも知れない。そのようなことを考慮しても面接はほとんど行われないで終わったのだった。

2715
外傷性精神障害岡野憲一郎
・ストレスを広義の外因に含めるならば、適応障害は外傷性精神障害に含めることができる。通常の意味では外傷とはいえないレベルのストレスに対して、深刻な症状を示すような外傷性精神障害として、適応障害を定義し直すことができる。
●そうだろうか?腑に落ちない。外傷性障害は、何となく、「翻弄される」「主体の反応の限界を超えている」、そんな意味合いが強いのではないか?適応障害といえば、みんなそれなりに適応できるのに、その人だけが特殊な事情で適応できない、そんな感じがする。→ということは、通常病因的ではない程度のストレスによって心を傷つけられている。それなら、本文の記述の通りである。
この場合、傷が問題なのではなく、適応パターンの選択の失敗が問題なのではないか?「傷」とはいえないのではないか。
適応障害は、外部帰属ではなく、内部帰属の意味合いがある。普通傷とならなのものに対しても、傷ついてしまう、そのような病気。
パニック障害の症状がPTSDにおけるフラッシュバックと現象的に類似する。パニック障害は、無意識的な外傷的心理要因により引き起こされた一種のフラッシュバックではないかとの仮説も成り立つ。
・虐待された子は攻撃的な人になりやすい。
・外傷体験の被害者を、侵襲ないし苦痛の単なる一方的な受け手としてのみでは捉え切れない。特に外傷体験により暴力的な形ではあれ、被害者の性的、攻撃的本能が呼び覚まされるという事実を忘れてはならない。性的暴行を受けた人が、その際に性的な興奮を体験し、それが後に深刻な罪悪感や自己嫌悪感を引き起こす例、あるいは戦闘体験を持った兵士が、敵を殺戮した瞬間にオーガスムを味わって射精に至り、その後に長期にわたる性的不能に悩まされるというエピソードは、臨床場面でも稀なら図聞かれる。すなわち、外傷体験とは、被害者の自らの性的、攻撃的衝動を、受身的、一方的に刺激され、リビドー的な満足を無理矢理体験させられた、という意味でこそ真に外傷的なのである。
たとえば強姦の被害者が、加害者に協力的な態度を見せたり、最終的にオーガスムを感じたという事実が、強姦の暴力的性質を少しも変えないばかりか、その外傷体験を更に深刻にするという理解が可能になる。
●これは大切な指摘である。
●受動的にオーガスムに至ることは、被支配の感覚をうむ。ここで性的欲望と支配の欲望が交わる。
・相手の意図にやむを得ず与してしまうことで、自分自身を裏切らざるをえないという体験である。
・外傷が繰り返し長期的に起きた場合には、PTSDの複合型。知覚と記憶の障害はより深刻となり、頻繁に健忘が生じる。患者は自分で解離状態を自在に誘発することで、外傷体験をやり過ごす。
・外傷となりうる体験の後に、周囲から支持的な介入を受けることは外傷性精神障害の発症を予防することにつながる。子供に対して安全な養育環境を提供し、それらの出来事について子供と話し合い、心の傷を癒すだけの愛情を与えることにより、それらが心に永続的な爪痕を残すことを防いでいる。
・情緒的支持が大切。
・ある体験が外傷として成立するためには、ある種の侵襲的な体験と、それに対する周囲からの情緒的な支持や養育の欠如の両方を必要条件とする。
・小児期に解離性や催眠性がもっとも高い。この時期に外傷が体験された場合に、防衛として用いた解離を後に病的に発展させやすい。
・カッティングは外傷が早期であるほど起こりやすい。潜伏期の外傷は自殺企図、思春期の外傷は自殺企図とアノシキシアを生みやすい。などという論がある。
・出生直後は自我は未成熟で、体験の持つ侵襲や脅威としての性質、加害者の悪意を十分に理解できない。したがって外傷として作用することはない。
フロイトの水流モデル。神経系の興奮の高まりはそのまま人間の精神にとって苦痛ないしは侵害となる。流出すれば快感である。溜まっていれば不快である。
・性的な興奮が意に反して一方的に引き起こされることによる外傷を(性的)欲動興奮的外傷と呼び、それ以外の圧倒的な外傷体験を侵襲破壊的外傷と呼ぶ。
ウィニコットは自我の成熟以前の性的本能の満足が外的な異物として、つまりは外傷として体験されると指摘している。
性的虐待。本能的にそれが誤ったことで本来起きるべきでないという認識を持つのが普通である。ところが一方で、その興奮を受け入れ、それに甘んじざるを得ないという矛盾が、外傷としての要素を構成する。
・彼は少女に対する性的虐待について、その衝動がどこから来るのか理解できず、それを行うたびに自己嫌悪に陥っていた。
・思春期前に極めて不自然な形で持たされた性的興奮が、自我に統合されずに他者への性的な攻撃という形で表現される。少女に起きた場合には、破壊性が自己に向かい、自傷行為、ないしは解離状態になりやすい。
・一般に他人の悪意によってもたらされた外傷はそれだけに心に深い傷を残す。
・人為的な外傷に際しては、世界や他人に対する見方そのものが大きく変化する。
・「外傷スペクトラム」……時間的に限定された外傷により、恐怖症やパニックが生じる。より慢性的な外傷はその個人の人格に組み込まれて境界性人格障害やMPDなどの病理を形成する。

2716
過剰解釈。または投影的解釈(解釈者の内面を投影している解釈)。これを心理分析と誤解している人がいる。困ったことである。自分の内面を投影しているのだから、訂正ができない。

2717
・トラウマと多重人格(解離性同一性障害)の関連
  心的外傷とは何か
  多重人格の捉え方。昔よりやや拡張して考える傾向→離人や記憶障害、ときに幻聴など
・トラウマの例(青い鳥、イヴ)
  ドラマでは、トラウマがどのようにして癒されたかが興味の中心になる。
  →つまり、どのような愛によって癒されたか。
青い鳥‥‥優秀な兄と、劣る弟がいる。川で遊んでいて、弟が溺れた。兄は助けようとして、自分が死んでしまう。弟は助かって気がついたとき、枕元に母の姿を見る。その時、母は「弟が死ねばよかった、兄が助かればよかった」と自分を非難しているのではないかと感じる。それがトラウマとなる。兄の夢であった鉄道の駅員となる。幼なじみの女性は慕ってくれるが、愛を結ぶことはない。トラウマを解決できないままの状態のところに、女性と少女が現れる。愛は彼のトラウマを癒すだろうか。
イヴ‥‥少女の母は少女を出産するときに出産が原因で死んだ。少女が子供の頃、富豪の父は悔やんで言う、「無理して子供を産んだりしなければよかった、あの子を産まなければ死なないですんだのに」その言葉を偶然聞いてしまった少女は「自分のせいで母が死んだ、父はそのことを後悔している」と知って衝撃を受ける。自分の存在について悩む。このトラウマをいかにして癒すか、それがドラマの主題となる。二つの愛が彼女のまわりで進行する。

・どんなトラウマが症状形成に至るのか‥‥典型的には幼児虐待(依存と裏切り)
  衝撃があっても、それをサポートする人がまわりにいてくれれば大事には至らない。心の傷を癒してくれるシステムが欠けているとき、心の傷は人格の成長を阻害するものとなる。
・いろいろな症状について、単純に「痴呆だから」と片付けていないか。
・痴呆病棟ではトラウマはないか?
  第二の子供時代、依存的、無力感
  昔のトラウマが活性化される可能性
・サンタクロースの話
  サンタを信じている時代
  サンタを信じていない時代
  自分がサンタになる時代

2718
心因と外傷
結局似たことを言っているのではないか?心因性疾患について言われたことの焼き直し。しかし症状については、従来の神経症レベルにとどまらず、幻聴などまで含んで拡張して説明している。外傷(心因)→解離→症状と並べたところで、説明範囲が広がった。
そして実際に、このような説明が有効であると思われる事例が外来では見られている。声が聞こえるとは言うが、分裂病的ではない、分裂気質でもない、そんな例。

2719
素因と環境が結合して現在を形成する。これが土台となり、次の環境と結合(化合)して次の現在を形成する。このようにして、過去の環境を取り込みながら次々に現在を生成し続ける。(笠原の図)
外傷についてもこの系列図の中で考えるとよい見取り図ができる。

2720
外傷を神経生理で考える
ドーパミンで変換して良いか?
どの回路が怪しいか?
「意味」として蓄えられる?

特殊な記憶として考えるのがよいように思われる。

2721
外傷性精神障害岡野憲一郎
PTSDの急性期はパニック障害に類似する。解離状態分裂病の陽性症状と混同されやすい。うつ状態との鑑別が必要な場合もある。
PTSD。DSM4では、外傷があること、再体験・フラッシュバック、鈍麻、過覚醒。過敏性と鈍麻が交互に見られることは重要。侵襲反応と鈍麻反応の二相性。
・外傷体験への固着。受動的に症状に悩まされることも意味するが、自ら進んで再現する傾向も含む。外傷を受けた戦闘体験者が再び志願兵になったり、性的外傷を受けた女性が娼婦になったりする。
・解離症状‥‥外傷により自己の統合機能が損なわれた結果、異なる自我状態が断片的に出現する状態と考えることができる。フラッシュバック、感情狭窄、孤立傾向などを含む。
フロイトは外傷を負った人がそれを再現する傾向について、子供の遊びに見られるように、受け身的な外傷体験を能動的なものに変え、主体的にコントロールするという意味があるとした。また、外傷の再体験が個人がそれを不快に感じるにもかかわらず繰り出される点に注目し、反復強迫それ自体を死の本能として説明した。
●やはり素直に考えれば、「意に反して」行われていると考えるべきではないだろうか?強迫行為は「意に反して」行われる。しかしそれは他者の意志ではない。そうした微妙な地点である。それをわたしの「時間遅延モデル」で考えてもいい。しかしまた、ここでも解離を考えて、部分人格の仕業として、意志のコントロールから少し逸脱している状態と考えれば説明はできるだろう。解離モデルの説明力は強い。
フロイトは症状の反復をコントロールのため、マスターするためと考えたが、カーディナーとスピーゲルは症状を適応の破綻ととらえた。適応不全であり、環境からの撤退であるとした。
●意味するところは必ずしも明確ではない。しかし推定すれば、現在の環境には不適応である。そのような行動を続けるのは、なぜか。それは現在の環境からは撤退して、過去の環境に戻っているということではないか。症状発生時点の環境に戻るとすれば、同じ症状が反復されてもおかしくないだろう。脳内の環境としては、問題が起こった時点の環境を再構成して、反復しているのではないか。反応が同じということは、環境が同じということを意味していて、同じ反応が起こるのは結果としてそのようになっているというだけではないだろうか。
●外傷状況の再構成が自動的に起こってしまう、これが病理の根本ではないだろうか。同じ反応が起こるのは結果でしかない。そして、同じ反応が起こっている限りは、同じように外傷記憶が保持される。異なる反応を起こすことができれば、外傷記憶は別の保存のされ方をする。その結果、意に反して自動的に再生される現象は消える。
●つまり、反応の仕方が、記憶のされ方を決定しているのではないか。
・リフトン。外傷の被災者は、象徴機能が侵される。それが「死の刷り込み(刻印)death imprint」と呼ばれるものにとって代わられている。死の刷り込みは極度の死の不安や生き残ったことの罪悪感と結びつく。人間は死の象徴に縛られることで通常の象徴機能を損なう。外傷体験の固着の意味を示唆する見解である。
●象徴機能についての説明が必要。しかしこのような線での議論も当然なされるであろう。

2722
外傷性精神障害岡野憲一郎
・外傷の記憶の反復的な想起を適応と見る立場→外傷の記憶の反復的な想起は、除反応としての役割を果たし、患者がそれを徐々にその他の記憶内容へと統合することに貢献する場合がある。また、外傷体験の反復に対する感情鈍麻や解離反応は、時に圧倒的な情緒体験による精神の破綻を防ぐための有効な手段と考えることができる。
・症状は適応の破綻であると見なす立場→記憶の再生は外傷体験をマスターするという目的を超えて半ば自動的に繰り返され、患者は不快な記憶の再現や身体症状に苦しむばかりでそれを意識的に回避することはできないから。
・しかし多くの場合、適応としての意味と適応の破綻としての意味と、両方を持つ。
・対象関係論では、外傷を悪い対象の内在化として捉える。対象を内在化させることは、その対象を内的にコントロールすることを意味する。しかし多くの場合、患者はその悪い内的対象に逆に支配され、その反復的な想起を自ら統率することができない。極端な例は多重人格であり、内在化された内的対象は一つの独立した人格を有して勝手に出現し、患者の主要人格を支配するまでに至る。
・症状の適応としての意味は、より軽い外傷に対して明らかである。より重症の外傷に対する反応の中には、それ自身が破綻を意味する場合が多い。
PTSDの身体症状の多くが、外傷の発生時に身体が示した反応の再現として捉えることができる。外傷性の記憶は身体レベルで硬直的で反復的である。言葉による表現を知らないために、もっぱら身体症状や感覚印象を介して再現されやすい。臨床的にはパニック発作の身体症状にきわめて類似する。外傷的な危機反応と不安発作は、極限状況における「闘争・逃走反応」を引き起こす点が共通している。
●慢性ストレスでは「闘争・逃走」ができない。これが難点である。従って、別の反応様式、たとえば解離を選択するのだろう。
●急性ストレスでも、現実に身体的に自分を遠ざけること(つまり逃走)ができない場合には、離人や解離が起こるだろう。「死んだふり反応」と離人の類似はしばしば指摘される。この文脈では、離人を包含した「解離反応」が死んだふり反応に当たると考えるのだろう。
●解離は急性反応としても起こるが、慢性ストレスに対してはより出現しやすいと考えられる。
解離状態においてリストカッティングをした患者が、回復後に患部に痛みを感じ始めるといった例は頻繁に聞かれる。外傷性障害の患者にしばしば見られる自傷行為の一つの理由は、この感覚を取り戻す試みとして捉えられる。脳内麻薬物質との関連も考えられる。

2723
昔の理解をしている人にうっかり多重人格などと言ってはいけない。あくまでも、離人状態などという言葉で語る必要がある。概念の拡張を示す言葉が必要である。解離性障害と明確に語るのがよい。
また、解離をあまり広く適用してもいけない。解離を抑圧と同一平面のこととして考える習慣がある人には受け容れ難い。

2724
外傷性精神障害岡野憲一郎
PTSDの症状について、ノルアドレナリン系による脳のアラームシステム、すなわち危機的状況を伝える働きが、慢性的に活動亢進を起こした状態であるという仮説が成り立つ。
・外傷は半ば不可逆的な生物学的変化をきたし、それが人間の心に残す爪痕として体験される。
・外傷への「固着」の現象は、記憶障害の障害として捉えることもできる。患者の外傷の記憶は決して薄れることなく身体的、精神的レベルにおいて生々しく再現される。そしてその記憶を司るのもやはり、青斑核から大脳辺縁系。大脳皮質等へと投影されるノルアドレナリン作動性の回路である。そこで外傷患者においては、青斑核回路の慢性的な賦活による侵入的な想起が生じているものと仮説をたてることができる。
●記憶の側面から考えるのは正しいように思う。ストレス状況が再現されるから、異常反応が再現される。
・「キンドリング」が側頭葉を中心に生じているのではないか。反復強迫のもっとも生物学的解釈。
セロトニン系とアセチルコリン系は抑制系である。このシステムの失調がPTSDの驚愕反応を起こす。SSRIPTSDの過覚醒を抑制する。
●なるほど、このようにして、サブタイプを考えることができるだろう。
動物実験において、慢性的な激しいストレスにおかれた動物の反応は麻薬に対する依存状態に類似し、そのストレスを取り除くことによっても、ナロキソン(麻薬物質の拮抗物質)の注射によっても、麻薬の離脱症状を起こす。
PTSDの患者が外傷的な状況に再び身をさらしたり、自傷行為に及ぶことで同様の麻薬物質の分泌が生じているものと推察している。
外傷体験を自ら誘発するような行動や自傷行為は、外傷体験に対する嗜癖に類似した現象と考えることができる。
外傷に対する固着の生物学的な解釈であり、二相性反応の性質についての示唆にもなっている。PTSDの急性反応は基本的に麻薬物質からの離脱症状に極めて類似する。侵襲反応と鈍麻反応を、それぞれ脳内麻薬物質が不足した状態と、それが一時的に分泌された状態として理解することができると提案されている。ノルアドレナリン系と脳内麻薬物質とは密接に関係していると推定される。

●なるほど。説得力あり。

2725
外傷性精神障害岡野憲一郎
・小児・思春期の心的外傷は、PTSD症状にとどまらず、人格や防衛機制、行動様式にまで障害を及ぼす可能性がある。
●この点で、トラウマといっても、二通りあることになる。深さに違いがある。精神病と神経症というのとも違う。
結果の点でいえば精神の症状と人格の発達障害と。
できあがった精神構造に傷が付くのと、形成過程で傷が付くのとはやはり決定的に違うだろう。
・小児では、正常範囲の解離傾向が多彩な形で見られる。危機的状況に対する防衛機制として極めて頻繁に用いられる。
・小児は変身願望が強く、ドラマやアニメの主人公になりきる。白日夢にひたる。空想上の友達を持つ。これらは解離傾向の強さを示している。
・解離傾向と被催眠傾向は並行関係にある。
●なぜ?ヒステリー傾向と同じにならないか?それはひいては治療者の前で症状を演技する傾向になるのではないか?
●解離をもっぱら使用する時期に外傷があると、解離が固定して、成人期になっても、解離を用いる人間になる。たとえば、都合が悪くなると自己催眠により解離を起こす。それが解離性障害として観察される。しかし一部は適応的な解離とされるだろう。たとえば座禅の人。また、極度の緊張に際して人格の変換が有用な場合。スポーツ選手。緊張が人格変換のスイッチになる。
・病的解離は催眠傾向や没頭傾向とは関連しないとの説もある。病的解離はむしろ、離人体験や健忘に関連する。
・小児の解離性障害の診断は困難である。症状が正常範囲の行動に類似し、小児は自分の問題について無知であることが原因としてあげられる。
・典型的ヒストリー。
性的虐待を受けている子供は、どことなく虚ろ。ぼんやりしている。周囲からうそつきと呼ばれる。思春期に行動化や身体症状。20歳代や30歳代で家族から離れ自立すると、悪夢、自傷、幻聴、じばしば境界性人格障害と混同される。30歳はじめに多重人格と診断されるが、それが見逃されると、うつ状態その他の誤診を受け続ける。
・家族は秘密にしたがる。そのせいで外傷は複合的なものになる。むしろその態度の方が虐待の本質であるともいえる。

2726
心の傷を癒す場所をまず見つけること
それがアドバイス

2727
子供がいうことを聞かないとき、いけないと知っていてもついつい怒鳴って、挙げ句の果ては、殴ってしまう。いけないと知っている。本に書いてあるとおり、「腹が立っても、にぎりこぶしを作って怒りをこぶしにためる。必ず十数える」などをしてみている。しかし結果として子供を殴っている。

子供がいうことを聞かない場面で、自動的に昔の場面が想起される。昔の場面では自分は虐待される側、親が虐待する人であった。その時の自分も親も人格として格納されている。いま子供がいうことを聞かない場面で、昔の場面が想起され、自分の中の「虐待する人格」が励起される。そして自己のコントロールを離れたように子供を虐待する。あとで後悔する。

そのように、自動反応として虐待が起こっている。ではどうするか?子供がいうことを聞かない場面で、昔の優しい思い出が想起されるように記憶の引き金の組み替えをすればよい。そうすれば優しい自分で子供に接することができる。

子供に対して優しい自分は必ずある。自分が子供の時に優しくされた思い出は必ずあるだろう。そこの部分をだんだん大きく育てていけばいい。育児の中で親も育つことができる。

親に虐待され、自分も子供を虐待する。これは悪い連鎖である。どうしたら断ち切ることができるか、考える必要がある。

虐待された自分、理解されなかった自分、その部分で子供と共感しあうことができる。

虐待されてつらかった思い出は、虐待する人と虐待される人との両面が心に刻印されている。虐待場面の引き金が引かれると、虐待する人または虐待される人の行動が自動的に現れてしまう。自転車に乗って自動的に手足が反応するようなものだ。その結果、再び虐待状況が出現すると、記憶は強化されて、格納される。したがって、この行動パターンは強化されつつ保持反復されることになる。
多分、虐待場面で虐待の引き金が引かれても虐待せずに別の行動パターンを選択すれば、一種の「脱感作」が成立するように思う。

現実場面→記憶場面→人格セット→記憶強化……全体として悪循環

2728
A面
湘南心療内科
こころとからだのクリニック
心療内科神経科・内科)
併設:湘南茅ヶ崎心理カウンセリングオフィス

ご案内
安心してこころの相談ができるクリニック
ストレスケアをご一緒に考えましょう

 →適切な絵または図柄

B面
どんな人に?
・こころとからだの問題
不眠がち
心身症
更年期障害
心身不調状態
食欲の問題
慢性疲労

・こころの問題
こころの傷
ストレスケア
ゆううつ
不安
いらいら
物忘れ

・家族のこころの問題
子供の発達相談
学生のメンタル相談
働き盛りのメンタル相談
痴呆相談

C面
どんなことを?
診断面接
薬物療法
心理カウンセリング
心理テスト
自律訓練法、ストレスコントロール
語り合いの場
本の紹介
専門施設や専門家の紹介

費用
各種保険適用

D面
曜日・時間 →表

9:00–12:00 3:00–7:00
月 ○ ○
火 ○ ○
水 ○ ○
木 × ×
金 ○ ○
土 ○ ○
日 × ×

木曜、日曜、祝日は休診となります。

心理カウンセリングとグループセラピーは予約制です。

場所 →地図
電話
住所

2729
理解されないこと、心理的サポートがないことが、陰性外傷だとしたら、分裂病患者は陰性外傷にも傷つけられているといえる。
分裂病陽性症状そのものは大きな陽性外傷である。
こうしてみれば、分裂病者は外傷性精神障害をも併発している可能性が高いだろう。
この観点から共感できるし、サポートもできるはずである。この点では了解可能であるはずである。
このようにして了解可能性が拡大される。

2730
愛と対話 VS 支配と力(暴力)

2731
人の悪意、邪悪なたくらみはどこから生まれ、どこからエネルギーを得ているのだろう。
そうした悪がこの世からなくならないことは確かである。悪の連鎖。悪の再生産機構があるのだろう。
外傷性精神障害で、幼児期の虐待に関しての話はそうしたことを考えさせる。

処世術としては、そうしたものからいかにして上手に距離をとるか、それが知恵というものだろう。
自分も悪に加担せず、悪の被害者にもならないように、上手に生きることだ。
この世の中のどうしようもなさを見極めた上での実際的な知恵が必要である。

2732
生活歴を本人の口から聞くことの意義。
その時患者は自分の人生を再構成している。再び意味づけている。そのことに意味がある。事実ではなくてもいい。自分がどのような物語を生きているかということだ。そしてその話に沿って、治療者と患者は意味を共有する。

一つの民族が自分達の歴史について語るとき、同じ働きがあるだろう。自らを癒すのである。そのために歴史は何度も語られ、刷新され続ける。いまを生きるために、新しい過去が必要なのだ。

黒沢の映画「羅生門
人は都合の悪いことはなかったことにする。嘘も都合のいいことは本当のことと思い込む。
といった意味のセリフがある。解離性の機制を指摘している。
それぞれの人のそれぞれの話とはつまり、それぞれの人の癒しのプロセスである。自分の心を保持するためのプロセスで分泌された物語である。
映画にはシャーマンまで登場するから、解離性障害の展示場のようである。

出来事を語るとき、過去を語るとき、人は現在のために語るのだ。

民族全体で、外傷体験を消去するために否認を続ける態度もある。これは幼い原始的な防衛の仕方をしているのだ。何度も繰り返すだろう。過去に縛られている態度である。
一方、事実を直視し、事実から学ぼうとするヴァイツゼッカーの姿勢もある。

2733
人はいかにして治療者たりうるか。
患者の人生の歴史の意味についての共感。
フランクル的態度が必要である。

患者の人生は意味がある。意味のない人生などない。それなのに自分の人生について、意味が損なわれていると感じているとしたら、やはりともに考える必要がある。悪い人生が問題なのではない。そこから何も学べないでいることが問題である。

2734
精神療法は公式のあてはめごっこではない。
クリエイティブで一回限りのプロセスである。それなのにこれ以上の一般化をして、公式化しようとするなどとは、矛盾している。間違いである。

どの公式をあてはめたらいいかを考えるのが診断だと思っている人もいる。

数学や物理を公式のあてはめごっこととらえている人さえいる。精神療法でそのような誤解があっても仕方がないところではある。

あてはめごっこに陥っている治療者について、患者は敏感である。この人はきっといい人だなどと夢を見たりしないのが患者というものである。

2735
症状は傷ついた心の悲鳴である。
特に、性格障害について、そのような見方をすれば患者はずいぶんと救われるのではないか。

2736
外傷性精神障害岡野憲一郎
・過去に外傷を与えてきた対象は、常にその被害者に内在化されて人格の中に組み込まれる可能性がある。解離性障害においてはそれが一つの独立した人格として振る舞う。
・通常の苦痛な体験に関連した対象イメージや自己イメージは否認されたり忘却されたりするが、強烈で圧倒的な外傷体験においては、体験内容が解離の機制により、一時的に隔離されやすく、その記憶や対象イメージは後になって同じ解離の機制を通じて繰り返し蘇る傾向にある。
●解離を用いて隔離するから、なおさら繰り返し蘇ってしまうという矛盾。これこそもっとも忘れたいものなのに、くっきりと蘇る。なぜこのような不合理なことが起こるのか?
解離が起こる場面は、たとえば「人が熊に出会ったとき」である。パニックの度が過ぎたので離人状態になる。その延長に解離がある。
「熊」はわたしが急性ストレス反応の説明として用いた例であった。このとき人は「闘争・逃走」をすればよいのだった。そのように考えてみれば、熊に出会って死んだふりをする(解離を起こす)こと自体が、おかしな事態の始まりであると考えられるだろう。さっさと逃げないで、または正面から戦わないで、解離を用いて事態を乗り切ろうとする。ここがまずもっておかしいではないか?
●解離を用いるしかない場面とは、急性ではなく慢性のストレス場面ではないかと想像される。急性の場合には闘争・逃走で対処できる。ところが慢性ストレスの場合にはそのようにはできないだろう。それが子供時代に起こったら、解離で対処するしかないのではないか?
大人の場合でも、身体化して防衛していることが多いだろう。身体化とは、解離に近いと考えてよいだろうか?行動化と身体化は解離の一つの形である。
慢性ストレスが解離と関係している。つまり、外傷性障害の中でも、慢性のタイプが解離と特に関係している。
一面では、急性の「熊に出会う」事態の時に、死んだふりが起こるのだから、それが解離の始まりだとすることもできるだろうが、闘争・逃走との関係から考えればそうではないように思われる。
・患者により内在化された虐待者の対象イメージは、その侵害的ないし攻撃的性格以外にも、きわめて多くの性質を有している。虐待者は犠牲者にとって唯一の保護者であり、崇拝の対象であったりさえする。
対象との関係を通じて獲得するのは、攻撃的な性向よりはむしろ、きわめて受身的な性格であったり、強い被暗示性であったりすることが多い。
外傷体験への固着や外傷体験への嗜癖傾向も、虐待者となりうる人を前にした場合に、本人が気付かないうちに受身的な服従の姿勢をとってしまい、結果的に被虐待者の立場に身を置いてしまいやすいという彼らの傾向と深く関連している。
●外傷体験の反復。結局これが問題の本質ではないか。
●虐待者が全くの悪の化身であったなら、これほどの問題にならない。保護者であり、崇拝する対象であり、愛する人であるから、問題になる。心の中のどこに収納したかいいのか困る。
・思春期においては物事を白か黒かに分け、その世界像を両極化する傾向にあるが、外傷の犠牲者においてはこの傾向は一層顕著になる。スプリッティングの機制に似る。日常的に現れるのではなく、解離という機制を介して異なる人格(ないしその断片)として再現される。
●岡野は最近はスプリットと解離に関しては別の見解を書いている。つまり、解離した結果の悪い部分を外部に投影すれば、境界型の場合のスプリッティングになるという説である。
●物事を白と黒に分離して収納したい。それは若い人であり、境界例の人であるといえる。それがつまりは未成熟ということか。灰色のものが状況に応じて白にも黒にもなるという世界観は受け入れられない。
●つまりは心には白と黒の引き出ししかない。引き出しの数が少ないことが結局は問題で、それが未熟だということである。

2737
フロイトは心理学のおけるニュートン力学に当たるものを構想していた。だからメカニズム(力学)なのである。
神経回路モデルではなかった。エネルギーモデルであった。

2738
外傷性精神障害岡野憲一郎
・外傷の既往のある患者の典型例。女性の場合。小児期から多動傾向や衝動性が見られる。激しい攻撃性や自傷行為、自殺他殺の脅しなどのために入院に至る。スタッフから注意されたりフラストレーションが高まったりしたときに激しい感情暴発を示す。感情暴発はしばしば外傷体験のフラッシュバックへと移行する。作話や非現実的な話をする。性的行動化の傾向が強い。スタッフや他の男性患者から強姦や性的ないたずらをされたと訴える傾向がある。
・男性の場合は、他者に向けられた攻撃性。小児期から多動傾向、衝動性が高い傾向。
・患者は幼少時から衝動的であったり多動であるために、その養育は体罰や叱責、または養育の怠慢を導きやすい。
●これも無視できない要因であると考えられる。
・日本の社会環境や家族の構成等はこれらの精神的外傷を起こしにくいように作用していた。
解離性障害といってまずはじめにイメージするのはやはり、急性の解離反応だろう。慢性のストレスに対しては別の対処もありそうである。そのような低次の防衛規制を使用しなくてもよさそうなものだ。急性で巨大な衝撃に対して、死んだふりで反応するしかないことがあることはよく理解できる。しかしながら、そうした反応とは別の、解離性障害というものがありそうである。そこのところを上手に分離して提示できないか?
カーンバーグによれば、BPDにおいては、幼児期における極度の攻撃性により、良い内的対象と悪い内的対象との間の統合が行われず、そこにスプリッティングその他の防衛機制が動員され、それが患者の人格上の病理を形成する。→攻撃性のもともとの高さが要因であるということになる。→葛藤モデル。
・葛藤モデルでは、良い内的対象を攻撃性を持った悪い内的対象から守る際の種々の原始的な防衛機制(スプリッティング、投影性同一視など)が問題にされる。こうした両極端な自己、対象イメージの間のせめぎ合い(葛藤)を精神病理の本質ととらえた。本人の生まれ持った攻撃性や羨望が問題にされた。
・他人から去られることにきわめて敏感で、暴力的に他人を自分につなぎ止めておこうとするBPDの病理。
・これに対して欠損モデル。アドラーの説。健全な形での養育の欠如。養育期において形成されるべき「抱える取り入れ対象」が患者に欠損しており、そのために患者が体験する恐るべき「孤立感」や「空虚感」こそが患者の病理の中心であるとした。しがみつきや感情の不安定さもこの欠損から説明されるとした。
●こうしたモデル論議にはなかなか共感できない。もっとどっぷりとこうした議論の雰囲気につかっていなければ納得などできるものではない。耳を傾けるべき要素もあるとは思うが、信じるに値するほどではないだろうと思う。ようするに説得力に欠ける。しかしそれは受け取るこちらの側の勉強不足の面がないか、それも反省の要があるだろうけれど。治療論として、何を提供できているかが、重要ではないか。
・慢性PTSDとBPDの類似点。情動コントロール、衝動コントロールの悪さ、現実検討の障害、対人関係の不安定さ、ストレス耐性の低さ、焦燥感、抑うつ気分など。これは解離とスプリッティングの類似にさかのぼって論じることもできる。
・スプリッティングは対象を良い対象、悪い対象に分ける。解離は自己像を分離する。BPDでは自己像もスプリッティングするが、悪い自己像は否認されたり他者に投影されたりする。
・BPDの患者のしめす所見が解離としての性質を持つ分だけ、それは過去における性的、身体的外傷の既往を結果的に示していることになるだろう。
●外傷→解離。スプリッティング→BPD。

2739
慢性の陰性外傷は、つまりは心因性疾患といままで読んできたものの拡張解釈であると考えられないか?
いずれにしても、心因性の領野を拡大し、了解可能性を拡大することは大切である。

2740
・症状・経過・転帰・病理所見。これらが一体となって臨床疾患単位と分類される。
DSMの問題。精神病ではそもそも病理所見の裏付けがないのだから、どのように分類を工夫しても、異論は残るだろう。説の数だけ分類ができる。
・それを妥協して、疾患研究して原因を突き止め治療を確立するために、暫定的に分類を用意したと考える。初心者がそれに基づいて臨床をすればうまくいくといった種類のものではないのだ。
・たとえば分裂病。人によって範囲が違う。患者はいい迷惑である。しかしそれはどうしようもないことだ。分裂病とは何かが誰にも分からない。政治力の違いはある。子分が多いかどうかは違いがある。しかしそれだけのことだ。
・現在症やこれまでの経過から、分裂病の診断がズバリできるなら、すばらしい。しかしそれができない。
・わたしは、前景症状と、背景病理の二段構えの考え方がよいと思う。しかし、はなはだあいまいである。自分の内部でも時間がたてば診断が変化する。その程度のものである。結局、分裂病の本質が分からないから、どの範囲のものが分裂病なのか、不明なのである。現状ではそれが限界である。
・背景病理の診断には、生活歴、遺伝歴、病前性格、症状の経過などが重要である。時間経過が病理の特性を反映する。脳のどこの場所で異常が生じたか、つまり場所については、症状を決めるが、経過を決めるものではない。このあたりは神経病理とまったく同じ考え方である。そもそも脳の病理なのだから、同じものになるはずである。
・経過→病理
・場所→症状
・性格が両者の培地になる。

2741
Kolkの提唱する「外傷スペクトラム
深刻で慢性的な外傷に対するもっとも極端な適応がMPDであり、BPDは慢性的な外傷に対する中間の適応であり、ある種の身体化症状、パニック、不安障害は、さらに限局された外傷が、身体的に解離されて再体験されたものとして説明されている。

●症状としないで適応とする。これも意味がある。一面では確かに自分を守っている。
●「つらい記憶の、意に反した反復」というわけだ。
強迫性障害の構造はこれに近い。

分裂病性幻聴と多重人格による内的声の判別はどうなるか?

・外傷を受けた年齢やその他の条件により、そこで用いられる防衛機制が、主として解離となるか、スプリッティングとなるかに別れるのではないかとの仮説。

2742
外傷性精神障害岡野憲一郎
・スターンの情動調律の障害。コフートの共感不全。
・ストロロウ。小児期における外傷的な体験は、親がそれに応答してくれるような環境にあれば、外傷的ではなくなる可能性がある。苦痛自体が外傷的なのではなく、それに対して養育者の側が十分心の波長を合わせることを行わないことが外傷体験である。
●家族バナナ理論。つながった心は隣の人の心を癒す。なぜだろう。集団性の生物であるとは、こういうことだ。
●このようなことになる前提として、子供の側の反応不全、たとえば自閉症のような、があることは想像できる。そして親との間で微妙な相互干渉が繰り返され、微分方程式を解くような感じで、共感不全に至る。
●つまり、親は情動調律ができて、よく反応しているのに、子供がそれをキャッチできずに、調律不全だと感受したとしたら、結局は親に調律能力がないのと同じになる。
・ある苦痛を伴った出来事が、通常の忘却のプロセスにしたがわないような、人間の心に半ば不可逆的な大脳生理学的変化をきたした状態を、外傷として定義し直すこともできる。
●なるほど。このあたりの生理学的なメカニズムに関してはフロイトの初期のモデルの流儀が役に立つだろうということになる。
●いずれにしても、忘却不全、意に反した想起、これが問題だ。記憶の病理。

2743
外傷性精神障害岡野憲一郎
・外傷に由来するBPDでは、葛藤は患者の中の良い対象と悪い迫害的な対象との戦いとして当人に常に体験されるであろう。その悪い内的対象は、通常は自己像から隔絶されているが、解離やフラッシュバックの際に迫害者として立ち現れる。外傷による葛藤は、神経症的な意味での葛藤とは大きく異なる。
・患者の持つ攻撃的な人格ないし側面は、生来の過剰な攻撃性や羨望によるものではなく、基本的には外傷体験の産物として捉えられていることになる。
・患者について、過去に被った種々の外傷により内在化された加害者の陰と戦いつつ、またその外傷が残した傷跡の痛みに耐える存在として理解しようと試みる。治療的には、彼らが被った外傷の可能性を考えて、その修復を目指した支持的な姿勢をとる。彼らを悩ます悪い内在化された対象にも積極的に注意を向ける。外傷とは、性的精神的外傷にとどまらず、養育者の共感不全や、実際の親の不在など、「広義の外傷」が子供の心に残した傷跡を意味する。
●とてもヒューマンな立場である。このような治療者に出会えば、患者は救われるだろう。
●なぜこのような悪い対象が内在化して、暴れるのだろう。なぜ悪い対象に支配されてしまうのだろう。なぜ過去の奴隷になってしまうのだろう。
●過去に起こったのと同じ反応(たとえばパニック反応)を起こすことは、記憶の再強化につながる。忘れかけた英単語をときどき思い出して記憶を保持するようなものだ。同じ状況で反応を変化させることは、記憶を変化させるきっかけになるだろう。その意味で、パニック反応を自律訓練法によるリラクゼーションに置き換えることは意味があると思われる。

2744
外傷性精神障害岡野憲一郎
・天災に際して種々の意味を考える。さまざまに解釈する。それが心の傷の治癒につながる。
フランクルや宗教の立場。キリスト教は苦難の受容に際しての意味の体系を与えている。
・天災が、忘れていた人生早期の心の傷を賦活することがある。
・災害が起こると、家族が一緒に過ごす時間が長くなり、結果としていさかいが生じやすくなる、ひいては家族の情緒的なつながりに亀裂が生じやすくなる。それが心的外傷になることがある。
・被災者のグループ療法……まず誰かに聞いて欲しい、理解してもらいたい、心の重荷を減らしたい。ひきこもりは自分の不幸をあらいざらい話せる相手がいないことの絶望感による場合もある。普段親しい人に自分の心の傷を話すことを想像すると、それがいまの自分には決して心の安らぎにはならないことに気付くことがある。日常的に会っていて、雑談をするには最適な相手が、自分の不幸や外傷体験を聞いてもらう相手としては必ずしも適当ではないばかりか、かえってその人だけには自分の不幸な体験を知られたくないという気持ちになることもある。相手が表面上は自分の不幸に同情していながら、同時にそれを嘲笑していないか、喜んでいるのではないか、という懸念は深刻である。結局母親がいい話相手になりそうである。ところが多くの成人の場合、母親はすでにないか、年をとりすぎている。また、幼少時にそのような母がいないことが外傷となりうる。
話相手の感情移入や共感の能力にも限界がある。
結局、自分の外傷体験を聞いてもらう相手として最適なのは、自分と同じ不幸や境遇を背負った人、同じ外傷を負った人である場合が多い。自分と不幸をともにするような仲間といることで初めて自分の気持ちが癒された、このような道が残されているとは知らなかったと体験を語る人は多い。グループ療法の基本理念はここにある。
●同じ傷を持つものが、傷をなめ合い、世間や加害者に対しての被害者意識ばかりを肥大させる、だから有害であるとの非難も可能だろう。しかし本当の友人が必要なのだ。
●ここで大切なのは、対話的関係である。支配や力の関係ではなく、いかにして対話的関係、合いの関係を結ぶことができるかである。
同じ経験をしていても、支配の感覚で生きている人は、話相手としてはふさわしくない。自分の方が大変だとか、相手のことに関して非難を浴びせたりとか、そんなことは多いだろう。正直なところ、そのような集団の一員であることがいやで、そのような体験を口にすることがなくなるという、一種のネガティブな動機付けにより、自分の外傷体験を語ることをやめる場合もあるだろうと思う。自分の姿をその人たちの中に見て、うんざりするのである。癒されるのではなく、反発を感じる。それでも結果としては悪くない。最高の癒しではない。解決するのではなく、引っ込めるだけ。抑圧するだけ。しかし時間が稼げればそれでもいいではないか。仕事に忙しくしていれば人間はそれなりにやっていける。その方がいいだろう。
同じ体験をしていなくても、合いと対話の関係が作れる人ならば、問題はない。十分な癒しの関係を結ぶことができる。
・こんなことで悩んでいるのは自分だけではないと知ることは大きな収穫である。

2745
外傷性精神障害岡野憲一郎
解離状態の典型例。ぼーっとしたうつろな目。おおむね正しい答えだが、ときどきはぐらかしたり、見当違いの答え。受け答えの反応は鈍い。振る舞いや様子がいつもと異なる。顔の表情も乏しい。感情表現も希薄。「心ここにあらず」「魂の抜けた感じ」といった印象。
●老人の反応はおおむねこうした表現が当たらないでもない。無力になった老人は、解離によって適応していると解釈できないか。
●解離というよりも、注意の障害の結果とも考えられるだろう。
・トランス状態、夢遊病のような状態、憑依状態。
・夢想にふける、没頭する、自分の目の前で起こっていることに心を奪われた状態。
●ここまで解離状態に含めるとかなりの拡張である。要するに「注意の向け方」の問題とも思われる。
・戦場、天災、暴行、レイプなどに際して、非現実感を体験する、痛みや苦痛を感じない、見慣れたはずの景色もどこか違って見える、自分自身をあたかも距離を置いて眺めているといった体験を持つ。
●要するに離人体験。
分裂病で、「見慣れたはずの景色がどこか違って見える」との感想が聞かれる。現実変容感であるが、これは離人とは別の、世界の変容感であると理解していた。これが極端になると世界没落体験につながる。しかし、そうだろうか?世界変容感は分裂病性の変化そのものとしての解釈である。しかし、分裂病性の変化に対する反応として、解離性の反応を呈し、離人感を感じていると考えてもよいのではないか。その区別がどこにあるだろうか?
・解離について、ジャネは心理的なエネルギーの不足により精神の統合ができないという意味である種の欠陥を表すものとみなした。フロイトはそれを患者自身の意識的なしい意図的な試みとし、原則的には正常状態にも現れるものとした。これは防衛機制としての見方になる。
・解離の用語を外傷体験に限定して用いることもある。
●では、外傷性精神病を抑圧モデルで説明できるか?→多分、ジャクソニズム的に、多層的な人格構造を考えて、その間に抑圧の関係を考える。抑圧と退行と、ジャクソニズムをからめて考えれば、解離といった、並列的な並べ方よりは構造化された人格のあり方を描けるのではないか。
●その場合、どこかの層の人格セットが、全体を乗っ取る様子をどのように描くことができるか?
・解離と抑圧は、通常の意識内容から、ある一定の体験の記憶ないしそれに関連した思考(それを無意識と呼ぶかどうかはともかくとして)が切り離されているという状態を指す点で共通している。
・心がある種のパニックを起こし、その際の感覚入力が通常と異なる仕方で処理され記憶された結果、後に通常の意識状態に戻ったとき、それらが想起不能となる。
●ここにスイッチングのメカニズムが介在している。どの回路に情報を流すか、決定しているスイッチがある。このスイッチを利用することが治療では大切であると考えられる。つまり、このスイッチをオンにしないように注意して、別の回路に情報を流すことができれば、除反応できるのである。これが治療になる。
●スイッチは何か。情動と記憶の関連がいわれている。記憶回路と情動回路が、海馬や辺縁系でいわれる。
・抑圧は主体により積極的に用いられる機制であるのに対して、解離は主体が外傷体験に翻弄された結果、受身的に陥る状態である。
・解離は抑圧に必要な自我の成立以前から用いられる原始的な反応。文化結合症候群や原始反応に見られる心因性の狂躁、カタトニー、離人症状は解離の一型と考えられる。動物の仮死反応にも通じる原始的防衛機制
●カタトニーを解離に含める?躁については「人が変わったような」という印象を解離として捉えれば、不可能な解釈ではないだろう。それにしても、やや広げすぎ?「まるで違う人のような印象や記憶の断絶」などの標識がなければ解離というには難しいのではないか。しかし一方で、解離といわず、多重アイデンティティとでもいえば、やや拡張した議論ができるのではないか。
●通常人格も、ある程度の幅を持って変化しつつ現実に対応している。いちいち解離で反応しているわけではない。人格の変化のすべてを解離としてしまうのは拡張しすぎである。
●実態の裏付けのない、単なるスペキュレーションと非難されても仕方がない。
・陰性外傷においては解離性障害は恐らく目立たず、基本的な信頼関係を築いたり、自分という感覚を持つことについて重篤な障害を持つことになる。

2746
台のチャンネル理論も解離性障害の一種として考えられる。

治療同盟の考え方にしても、健常部分とか病的部分とかいうときには、解離性の病理を考えてもいい。

アイデンティティの理論にしても、そもそもたくさんのアイデンティティの集合体として一つの人格が構成されていると考えられる。多重アイデンティティが人格の普通の構造で、それがなんとなく統一されて構造化されているのが普通の人格である。

人格の引き出しという言い方も、この線で考えられる。
下位人格セット。行動パターンのセット。適応パターン。行動様式。

他人を取り入れる。行動や性格を取り入れる。その中には「狐的なもの」を取り入れて狐つきに至ることもある。反発と真似(模倣)の両方の取り入れ方がある。また、その人に接しているときの自分というものが固定されることもある。

多重人格といえば劇的である。多重アイデンティティという表現の方が、適切な響きである。

2747
新聞で。電車に乗っている高校生達のマナーの悪さを嘆いている。大声で話す。携帯電話。二人分に腰掛ける。親は躾をしない。注意されても反発するだけ。そんな躾のない若者がだんだん増える。そんな人たちに子供が産まれても、多分躾はしない。結局、このような困った人たちが増えてゆく。

「やさしさの精神病理」(大平健)では、やさしさとは、他人の心に踏み入らないことだとする。その程度の考察をありがたがる風潮もある。大平はまた、豊かさの精神病理との論も書いている。
勝手気ままを尊重する。
個人的ファンタジーにくるまれた繭のような存在でいたいという欲望を肯定する。肯定するどころか、至上の価値として、尊重する。
社会化するということをお互いに価値あるものとしていないのではないか。
共同の価値観の中には個人を越える、もっと深くてもっとすばらしいものがたくさんあると感じていない。つまり文化や文明というものを信じていない。技術の恩恵には浴するが、それは自分が金で買うだけのものだ。
文化の新しい世代として、過去の蓄積を学ぼうとしないのではないか。

こうした一連のことが、精神的形成不全の一部の人間に見られるというなら事は重大ではない。全体の風潮であるように感じられる。そこに年長世代の絶望がある。若い世代の全体が、あからさまに、まったく明白に、精神的形成不全である。これでは嘆きたくもなるだろう。

2748
解離性障害として解釈しているさまざまなことを、注意の障害として考えればどうなるか?一考に値する。

注意の転換。それにともなうアイデンティティの選択。これでかなりのことが説明できそうである。

2749
心頭滅却すれば火もまた涼し」は、自己催眠によって解離状態になれば、身体に関しての離人状態になると解釈できる。
座禅は自己催眠である。
「火渡りの術」などもこれに類している。

修行はつまりはこのような解離状態を随意的に出現させる方法の体得を目標としている。

2750
脳内麻薬物質と反復
人間が反復して求めるものの中に、脳内麻薬物質が絡むものを探せないか。
ランナーズ・ハイ。
針・灸。→針は、神経が密集していないところを狙えばよいのではないか?→それとも、催眠との関連で考えた方がいいか?効果が一定しないところを見れば、催眠との関連で考えた方が正しいだろう。
一般に、嗜癖。薬物、アルコール、プロセス嗜癖、対人関係嗜癖
性的快感。サド・マゾ。支配の快感。暴力による快感。ジェットコースターを好むわけ。ホラービデオ。お化け屋敷。
フラッシュバック。外傷性体験の反復。
音楽の快感。
香り。皮膚の刺激。
てんかん発作を自己誘発する現象。ここに脳内麻薬物質が絡んでいないか?

2751
外傷性精神障害岡野憲一郎
・健忘障壁を解離の主たる特徴としてあげる臨床家もいる。しかし完全な形の健忘を呈さない解離もある。異なる交代人格のうちのいくつかが、互いの間に起きている出来事をよく把握していることが多い。健康状態での白日夢や軽度の離人体験も解離に含むのが最近の傾向である。
●むしろ、他の人格についても記憶を有している人格が、人格統合の核となることがあるのではないか。シュナイダーはお互いのことは知らないとはっきり記載しているが、非常に深い解離を呈したときにはそのようなことが起こるだろうと思われる。よりマイルドなケースの場合には、健忘障壁もあいまいになるのだろう。
・解離症状の三つのカテゴリー。没頭、忘却、離人

2752
外傷性精神障害岡野憲一郎
・臨床家が患者の幼児期の虐待について聞き出すことに躍起となり、そこに患者の被暗示性も影響し、偽りや誇張された虐待の記憶が報告され、それにより両親が身に覚えのない虐待の罪をおわされる場合もある。
・実際は空想の産物であるはずの複数の人格を、患者自身があたかも実在するように信じ、また治療者もそれに加担しているとする見方もある。
●Allisonの説。→安の論文。「空想上の友達(imaginary companion)」に関連した問題。
・MPDの多くは、症状は目立たず、微妙な表現のされ方をする。面接中に突然あたりをきょろきょろし、「わたしはどうしてここにいるの?」(人格が急に入れ替わったときの反応)という表情を示す典型的な症例がある。一方では、いくつかの「同型の人格」を有し、診断のつき難いタイプのMPDが非常に多くある。
同じ名前、記憶もほとんど同じ、人格相互にコミュニケーションもある、そのような場合には人格の入れ替わり自体がうまくカモフラージュされている。
●こうした微妙な入れ替えが起こっているなら、それはそれでいいと思う。特に問題はない。そうしたことまで問題に含める方がおかしい。そんなことまで診断しなくてもいいはずだ。
●入れ替えが、「人格」という規模で起こっているのか、「アイデンティティ」の規模か、あるいは「記憶のセット」という程度の規模で起こっているのか。そうした違いは考えられる。
●「人格」の入れ替わりと「記憶セット」の入れ替わりは違うことなのだろうか、同じことなのだろうか?
同じ脳が機能するのだから、基本的な反応の仕方は同じはずで、それがまず基本的なその人らしさを作っている。いろいろな記憶セットがあって、いま現在どの記憶セットにアクセスしやすい状態になっているかで、人格の外観が違ってくる。つまり、通常記憶と外傷記憶はある程度離れた場所にあって、どちらにアクセスできるかは二者択一のようである。
人格が入れ替わるといえば、一体どのような事態が起こっているのかと思うけれど、アクセス可能な記憶セットがどれかということでなら、納得できそうにも思う。
●結局、そのように分離されたままの記憶が放置されていることが問題なのだろう。異常な記憶と異常な情動が結合している。

2753
外傷性精神障害岡野憲一郎
アメリカでは、患者を社会における権力や暴力ないしは虐待の犠牲者として規定する傾向がある。一部フェミニストの姿勢に通じる。
●この、問題の外部帰属説には大いに問題がある。人気取りの面もある。免罪符としても働く。
・これまで分裂病やその他の精神病として理解しがちだった患者の所見について、解離という視点から捉え直せないかという観点。日常診療で頭に置く。
●この態度が了解可能性の領野を拡大する。精神病であっても、その中に神経症成分(心因成分)を分離して見いだす、診断的な目である。それは患者が理解されたという実感につながるだろう。
・MPDでは、人格を多く持ちすぎるのが問題なのではない。(健全な)人格を一つももてないことが問題である。
●これはやや不正確で、言い過ぎである。おおむね健康に暮らしているが、部分的に不健康な反応が見られるという場合もあるだろう。全人格の問題とは考えられないだろう。むしろ部分の問題と考えていい場合も多いのではないか?→そうでない場合も多いだろうけれど。解離の範囲を広くとった場合には、問題のない解離現象も多くなるはずである。
●別人とするなら、選挙権はどうなるか、刑事上の責任はどうなるか、など問題がある。どの人がその人を代表するのか、誰が決定するのか?
・交代人格をそのものとして扱うか、メタファーとして扱うか。症状自体のもつ苦痛を扱うか。その防衛としての意味を扱うか。
・MPDは患者の幼児期の外傷体験が心に残した傷跡であると同時に、患者が(たとえ不適応な仕方であっても)生きるための手段として用いているものである。この両方の視点が必要である。

2754
外傷性精神障害岡野憲一郎
・MPDの病理の問題点。多重な人格は問題ではない。それらの間に連絡がないことが問題。そして、どの人格がいつ登場するか、コントロールすることができないことが問題。
・外国語が堪能な人の場合、使う言語が変わると人格まで変わることがある。
●これは多分、記憶セットが異なるからではないか?
・悲しいときに覚えたことは、悲しいときに思い出しやすい。状況依存の記憶。記憶と感情はセットになって収納されている。

2755
人はいかにして心の傷を癒すのか。
・まず忘れること。記憶のメカニズムはそのまま癒しのメカニズムである。残存記憶のフラッシュバックが外傷性障害の病理を構成する。
ここで問題は、
1 消去したいのに残存してしまうこと、
2 フラッシュバックが起こってしまうこと、
3 そしておそらくフラッシュバックによってこの不都合な外傷記憶の回路は強化・維持されるだろうこと。
これらを解決できればよい。

・意味を変換すること。身にふりかかった災いも、その意味を変換することで、耐えられるものになる可能性はある。
このために人は「物語る」。あるいは物語を更新し続ける。治療者と共同で、生活歴を再構成してみることが有効である。フランクル的視点。

2756
クリニック計画

2757
外傷性精神障害岡野憲一郎
フロイト。リビドーの水流モデル。ないしは水力学モデル、貯留モデル。
人間にとっての不快体験はリビドーが発散されることなく蓄積されていく過程であり、快感体験はそれが解放、発散される過程である。神経症の原因はリビドーが放出されることなくうっ積する状態である。幼児は性的に興奮させられても、その発散方法を知らない。これが後の神経症を準備する。
フロイトの話は順を追って理解すれば分かりやすい。
・性的外傷を受けた子供は性的興奮を覚える。その意味で、外傷体験に対して全く受身的態度にとどまらない可能性がある。ここに性的外傷体験の持つ難しさがある。外傷体験の持つ「欲動興奮的」側面はその体験自体の外傷性を一層深刻なものにする可能性がある。
●論は分かる。しかし、そうなのだろうか?受動的にせよ、教えられてしまい、そこで深刻な事態が出現する。頭では嫌悪があり、興奮してはいけないと思いつつ、しかし感覚は否応なしに興奮する、というわけだ。
話としては面白いが、たとえば、そのような体験以来不感症となり……といったコースも考えられるのではないか。性的興奮にマイナスの意味付けしかできなくなる。
性欲の処理に悩む人も多いだろうが、そのような欲望のあまり強烈ではない人も多いだろう。
その場合、面白がって欲動興奮的などというのは理論家の興奮しすぎである。
・抑圧の機制を含む自我の働きそのものを圧倒して無効にしてしまうほどの外傷体験について、フロイトは考察の対象としなかった。
●そうであれば、陰性の慢性の外傷はどうなるか。
普通に考えれば、急性の陽性の外傷については、緊急反応として(死んだふり)位置づけできる。これが解離をもたらすことも分かりやすい。慢性の陰性の外傷については、発達に損傷を残すということで、それはつまり、従来からいわれている発達論の中に位置づけることができるのではないか。
このあたりはまだ納得できない面がある。
・人間が外傷的な体験を空想や夢の中で繰り返し、時にはあたかも積極的にそれを再体験しようとする傾向について、フロイトは論じている。
人間は快楽原則に従う。快楽の享受を一時的に延ばす(現実原則)こともあるが、結局は快楽を最大にしようとしている。しかし「快楽原則の彼岸」では、人間が快楽原則が成立する以前のより原初的な状態において、反復強迫として定式化されるべき習性を持つことを示した。「刺激障壁を破るような過剰な刺激が外界から加わると、それにより快楽原則は一時的に機能が停止する」、そして「快楽原則よりもより原始的でかつ根源的であ