こころの辞典2601-2700

2601
医師の中で信仰者は七割と高率。仏教59%、キリスト教9%、神道3%。一般人口の中ではキリスト教0.86%であるから、医師はその十倍である。年をとるに連れて信仰を持つ人が多くなる。

2602
ホスピス
痛みを緩和する
心身の苦しみを取り除く
精神的な支えを与える
心の平静に導く
以上の全人的ケアがなされる。

ソンダースのターミナルケアの原則
1 患者を一人の人間(total person)として扱う
2 苦しみを和らげる
3 不適当な治療を避ける
4 家族のケア……死別の悲しみへのサポート
5 チームワーク

2603
末期患者の痛み
身体的痛み
精神的痛み
社会的痛み
霊的痛み(または宗教的痛み)

2604
健康は
解剖学的、生理学的、心理学的、社会学的、霊的に定義される。

肉体的、精神的、霊的の各面から考える。

2605
緩和ケア病棟で、
人生の意義や価値を論じる。この世にその人が生きたことの意義を語る。そのことによってその人の人格の尊厳が具現する。
●つまり総まとめといった意味あいであろう。しかし痴呆患者はどうするのか?「例外」か?

2606
霊の痛み
霊的な救いは、霊的交わりによる。死に行くものの実存を支える。
霊的次元で癒され、霊の痛みが取り去られると、こころに静けさが生じ、こころが支えられているという感覚が生じる。
疾病は治癒されなくても、医師、看護職、聖職者はまったき人間としての存在に癒しの業を提供し、霊の痛みを和らげるべきである。

●霊(spirit)の次元では、痴呆も何も関係ないだろうか?つまり「奥にある霊魂は無傷のままで世界を観察している」と考えてよいだろうか。よいだろうたぶん。

●患者が興奮して騒ぐ。分裂病者と違って、部分的に了解可能な場合も多い。こんな病院で死んで行くのかと思えば抗議もしたくなる。説得も難しいし、薬もすぐには効かない。しかしそのようなとき、密接なかかわりを持つチャンスである。そのような経験は記憶に残らなくても、霊魂にきざまれる。この世の経験として、霊魂に刻印されるのである。
●しかしあまりにロマン主義的。現場では説得力なし。

2607
科学とは違って、2000年前のいのちの言葉は少しも古くならない。

2608
絶望的な孤独に耐えるには信仰がなければならない。
人のいのちは単に時間の問題ではない。短命であっても、いのちの深さ、豊かさが問題である。

最後の時間には長さではなく質が大切になる。

2609
ガン患者への宣告
ある場合には、言葉では宣告しないが態度で感じとってもらうようにする。会話の中で、言葉では言わないが、ノンバーバルなコミュニケーションの中で、こころの通いあいを図る。目と目が合ったとき、患者に何かを感じとってもらう。感性高く人と人の心が通じ合いとけあう場面である。

2610
死そのものよりも見捨てられることの方が心に衝撃を与え、死以上に苦しい。

2611
何かによって支えられなければ生きていけない。
その人は何によって支えられてきたのか。何によって支えられているのか。
「魂の培地」「魂の支え」が何であるかをつかむ。それが生育歴の眼目である。
老人性痴呆のケアでは、ホスピスよりもさらに困難な状況がある。
精神には暗い影がさしている。「窓」は曇っている。それでもなお人間として最後の大切な時間を生きていただく。どうすればよいか。

その人らしい最後の時間。
その人らしい死。
そうしたものをデザインする必要がある。

2612
ぎりぎりの正味の死の場面では、科学は背景に退く。
サイエンスではない、より人間的なもの。
医療よりも看護。

生の質を高めるには何がこの患者の心の救いになるかを考える。

2613
生と死を考えるにあたり、誰のように生きて死にたいか、モデルを見つけることができるか。

2614
キュアできない患者をもケアすることはできる。

2615
死に直面しても、生かされたことの意義を発見することが、本当の自己を復活させることだ。(メンデルソン牧師)
死の意味を考える。そのことが本質的に人生の価値を決定する。

●死の時点からの逆算によって生きる。死の瞬間にわたしは何を考えるだろうか。何を後悔し、何に満足し、何に感謝するだろうか。

2616
信仰や信念はその人の人格であるとみなし、限りある生命にもまして重要なものであると認識すべきである。朽ちる生命を越えるものである。人生観、倫理観。
●痴呆の場合これが欠けているので辛い。「どうせ分からないのだから、最低の医者と最低の看護とで十分だ」と誰かが考えていないだろうか?しかしわたしにも何もできない。

2617
脳死は人の死か
細胞が順次死んで行く、そのプロセス全体が人間の死である。どこからが不可逆的な死であるか、それを定めよという要請である。臓器移植を前提としているからどうしても議論が歪む。
どの部分が機能停止しているか、どの部分は細胞死に至っているか、そのように語ることができるだけである。
「死」という言葉は科学の発達以前からの伝統的な概念であり、自然な死のプロセスの全体を意味している。これを現代の医療の現場で語ることは無理がある。部分的な細胞死が積み重なり、全体としての死に至る。

2618
クローン技術で体も人格も同じもう一人の人がつくり出されると書かれている。全くの間違いである。粗雑な議論である。
身体の発育も、精神の発育も、環境との相互作用がつくり出すものである。同一なのは遺伝子だけであり、つまりは一卵性双生児と同じである。
一卵性双生児の心も体も同一であるなどという事実はない。

一体何がいけないというのか?堕胎も許されている。人工受精もよい。乳母捨て山もある。遺伝子操作で怪物が生まれるというのか?そんなもので生まれる怪物ならばいずれは生まれるのだ。早いか遅いかの違いだけだろう。

2619
脱抑制と薬剤
・痴呆に際して何が失われるか?
抗精神病薬を使用するのはなぜか?
足が使えなくなれば松葉杖を使う。腎機能が低下すれば利尿剤で補う。便が出ないときには下剤で補う。痴呆では抑制が失われていろいろな行動異常が現れるので、抗精神病薬で抑制を補う。
痴呆では下位の欲動突出を抑制している部分が壊れる。これが脱抑制である。食欲、性欲、攻撃性などの本能や、物事を被害的に解釈する傾向などが、下位に存在している。その上位には現実に即した状況判断をおこなう部分があり、たいていの場合には下位を抑制的に支配している。
痴呆になって神経細胞が失われるとき、こうした上位部分が失われやすく(ただしこれは反応性である可能性も高いのであるが、それは高級な話である)、壊れた場合には脱抑制となり、下位の本能が突出する。
たとえば異常な食行動であり、異常な性欲であり、異常なほどの被害的な考え方である。
これは膝蓋腱反射にもたとえられる。膝蓋腱反射は、筋肉が急に伸ばされたときに、筋肉が切れてしまわないように収縮する反射であり、筋肉の断裂を防ぐ仕組みとなっている。しかしながら、正常状態では、周囲の状況に照らして考えて、それほど異常でも緊急でもないと思われるときにはそのような緊急反応をしなくてよいので「抑制」している。診察室で膝を叩かれるときがそうである。大げさに反応して医者に膝蹴りを加えてもまずいだろう。そこで上位から抑制信号が送られて、本来の腱反射は抑制される。しかし上位に何らかのトラブルが生じたときにはこの抑制がなくなり、反射は大げさに現れる。
食欲にしても性欲にしても、周囲の状況に反応していろいろと興奮しているのだけれど、上位からの抑制が働いているわけである。ところが脱抑制の状態になると、周囲からの刺激にいちいち大げさに反応してしまうようになる。怒りっぽい、性欲過剰、異常食欲、異常に被害的などの現象が起こる。これは膝が叩かれて異常に跳ね上がっているのと本質的に同じ状態である。
こうした場合には、抑制を補えばよい。それが抗精神病薬である。このように「失われたものを補う合理的な治療である」といえる。
抑制系が壊れている場合、患者は自覚的にも、「自分で自分を抑えられない」と苛立ったり、無力感にとらわれたりする。そんなときに抑制系を薬剤で補うことで、自分をコントールする感覚を取り戻すととても落ち着く。これは二重に落ち着いていることになる。抑制系が補強されて落ち着き、そのことによって自分の異常事態が改善されたと知って落ち着く。

抗精神病薬による抑制はさまざまに現れる。
まず作用について。
微量だと抑制系を抑制してしまい、結果として異常行動を補強してしまう。
それ以上の量を用いると、下位を抑制するようになり、治療的な目的を果たすことができる。
さらに大量を用いると、意識覚醒系を抑制し、眠らせてしまう。患者の状態によっては、いったん眠らせてしまった方が本人も落ち着くことも多い。目が覚めると、異常だったことは切れ切れの夢だったような感じになる。
さらに、抗精神病薬には副作用がいろいろとあり、それらがどの時点で現れるか、どの程度耐えがたいものであるか、個人差がある。
以上のような作用と副作用を考えあわせて、患者さんの状態にあわせた薬剤選択がおこなわれる。

2620
仮説
過食、拒食は強迫性の症状である。
強迫に二種があるように、摂食障害に二種を考えることができる。
下位の症状……常同行為に似る……過食
上位の症状……コントロール過剰……拒食

コントロール過剰の系列の場合、たとえば分裂病状態に対する「防衛」の一つとしての意味あいも生まれるだろう。
コントロールを過剰にすることによって分裂病症状に対処しようとする。しかしそれは有効とは言えない場合も多い。有効な場合でも、別の困った事態を呼び起こしていることもある。
分裂病で下位症状としての常同行動に似たものが発生することもある。

「反復行動」の場合にどのような系列のものであるか、鑑別するとよいだろう。

2621
拘束はすべきではないか、どうか

・まず病棟の目的をどこにおくか。生命維持か、事故防止か、リハビリ促進・QOL,ADL増進か。
・患者の症状がある。治療目的がある。そこから治療手段は決定される。
・薬剤、看護の技術、看護の人数、病棟の設備・構造などとの兼ね合いから、拘束の是非が結論される。

2622
在宅と入院 適応決定
・身体の衰弱と精神の衰弱は必ずしも並行しない。時期によって違いが現れる。そのようすを図で表現できる。
・身体はまだ丈夫で、精神は変調が著しい、そのような場合には徘徊や異常行動があり、本人や社会が困る。
精神科医がかかわるべき場合と、身体医がかかわる場合も、精神と身体の変調がどのフェイズにあるかによるのだろう。

2623
医療施設と福祉施設の合理的な役割分担
合理的ケアミックス
・医療資源の有効活用の面でも、患者家族のためにも合理的ケアミックスが必要である。しかし医者や医療施設間の役割分担を誰かが「中央集権的に」決定するのは難しそうである。
・中央集権的にではなく、地方分権的に、あるいは市場メカニズムの結果として、最適配分が実現するようなシステムを設定すること。それが「中央」の仕事である。

2624
廃用性萎縮はどのようにして器質化するか
廃用性萎縮が容易に器質的萎縮になる、これが老年期の特徴ではないか。

2625
ヒステリーと心身症
心理的原因で随意筋系統に障害がでる場合、ヒステリー。失立、失歩、失声など。
ストレスの結果の症状が自律神経支配領域に発生する場合、心身症胃潰瘍、大腸炎狭心症
中間的な位置に、摂食障害

理屈からはこのように整理するとすっきりするのだが、まずストレスの質が違う。

ヒステリーの場合には、疾病利得や現実逃避の手段となる側面がある。心身症の場合にそう言えるか?多くは慢性の逃れられない慢性のストレスにさらされており、心身症例えば胃潰瘍になったとして、仕事から逃れられるわけではない。利得は少ない。
その点は戦争神経症で戦闘から免除されるのとはやや事情が異なるのではないか。

次に器官選択性の問題。なぜその器官に症状が出るのか。
随意神経系と自律神経系の違い。コントロールの強い人たちは随意神経領域のことならばコントロールしてしまう。そこで自律神経系統に症状が出てゆくのではないか。
例えば、ストレスは自律神経領域にも随意神経領域にも影響すると考える。症状が短期に明確に出るのは随意神経領域である。そこで性格の未熟な人の場合にはヒステリーの形をとる。ある程度成熟しているが、現実適応のあまりよくない人の場合、随意神経領域の影響については自分の内部で処理してしまう。自律神経領域の問題については処理しきれないので蓄積してしまう。そういった事情があるのではないか。
随意筋に症状が出るほど未熟ではないが、自律神経系に蓄積するひずみを解消できるほど適応がよくもない。

適応が悪いというが、悪いという言葉は当たらないかも知れない。自分の目標が高すぎる。目標に照らせば妥当な努力であるが、目標設定が高すぎるので、結局過剰な努力を強いられる。なぜ自分に見合った目標と努力を設定できないか。このあたりに病理がある。

自律神経系統に症状が出るのはやはり持続的慢性のストレスという印象がある。
例外としてたとえばPTSDなどは「一撃」の結果生じる反応であろうか。

2626
抗不安作用を調べるときのラット
まず第一段階としてレバーを押せば餌が出るようにしつける。次に第二段階としてレバーを押せば電撃が与えられ不快な思いをするような状況に置く。ラットは葛藤状態に陥る。ここで抗不安薬を投与するとあまり躊躇することなくレバーを押すようになる。罰を気にしなくなる。
抗不安薬とはこのような薬である。
人間の場合、本当にそれでよいのだろうか?

2627
家族バナナ理論
買ってきたバナナを房のまましばらく置いても大丈夫だ。端の方からだんだん黒くなる。何かの事情で房から切り離してばらばらにすると一本全体がすぐに黒くなってしまう。表面に老人斑のようなものが浮かぶ。
家族は房についたバナナのようなものだ。不思議なことだが、ばらばらの状態でいるよりは、まとまっていた方が強い。長持ちする。
家族から離れて孤独になると人間も弱る。
一本だけ切り離されたバナナはすぐに黒くなり縮んで皺が目立つようになる。ちょうど家族から切り離された老人のようなものである。
老人でなくても、若者でも似たようなものだろう。房を通してつながりあっているということが、お互いの寿命を延ばしているのだろう。

バナナの場合どのようなメカニズムがあるのだろうか。水分や栄養分、あるいは老廃物を分解する酵素などは個々のバナナが保有しているものの総和以上にはならないはずである。
あえて想像すれば、ピンチを凌げばまたしばらく大丈夫で、各バナナに起こる危機を全員で補強していれば、全体としての寿命が延びる、そのようなことは考えられる。
各バナナは周期的に、たとえば一週間に一度、ピンチになるとする。そのときに他のバナナたちが補って助けるとまた一週間は大丈夫になる。そのようにして各バナナが一週間に一度のピンチを切り抜けていけば、お互いの寿命を延ばすことになる。
また、バナナは同じ房についているとはいえ、若いものと老いたものがある。ここで良好な補完関係が生じることもあるだろう。過剰と不足が補いあう。

家族の場合にもいろいろなことが考えられる。人間の場合の方がバナナよりも明確に共同体的存在になったときの利益を考えることができる。したがって、バナナにおいてもそうである、ましてや人間においておや、ということだ。

看護の観点から言えば、家族から離れた人に対していかにして新しいバナナの房として結びつくことができるかということだろう。家族に代わる、新しいバナナの房を作ることができるか。

病棟で生活している場合に、本質的に一人で暮らしているのと同じなのか、あるいは本質的に家族と同居の状態に近いのか。疑似家族の状態をつくってあげられるか。それが病棟運営のポイントになる。

家族と同居していることがなぜ痴呆の防止になるのか。
自分一人の考えというものは間違いもあるし行き過ぎもある。考え方や感じ方の点で訂正してくれるのが家族ではないか。他人は訂正の機会にはなかなかならないのではないか。
家族という単位でいた方が人間は強い。なぜかはよく分からないが。
無条件にあてにできる資源ということがあるかも知れない。現実にどのような訂正があるかというよりも、心理的に支えになる家族がいて、心の中に家族の信頼が住みついていることが有効なのではないか。
現実の助けよりも、助けがあるだろうという信頼感。

しかしバナナは現実に何かを供給しているのだろう。人間の場合にもそうした何かがあるのではないだろうか?フェロモンのような何か。五感からの情報も大切。しかしまたそれ以外の部分でも何かがあるかもしれないと思う。

2628
閉経期女性の問題
自律神経症状があれこれ出る。ホルモンの問題がもちろんある。しかし一方で、役割変化がある。妊娠可能女性としては役割を終える。社会の中で、家族の中で、夫婦の間で、役割が転換される。
男性の場合にはこのような移行は顕在化しない。むしろ退職に伴って、立場の変更がなされ、そこで大きな危機を迎える。
閉経期はアイデンティティクライシスの時期である。新しいアイデンティティを確立できるかどうか、問題を突きつけられている。多面的な女性性のうち、諦めなければならない側面があるということだ。そのことをいかにして受け入れられるか。そのような問題の身体化としての側面が更年期症状にはある。

2629
誰かが何かを言う。そのことで傷つく人がいる。
しかし誰かが何かを言わなかったことで、やはり傷つく人がいる。
どちらかが必ず傷つくとして、傷ついてもいいのはどちらだろうか?

2630
医者に何が期待されているか
・端的に言えば、人の心が分かることである。
・患者は専門知識もなく、不安を抱えて疑心暗鬼のままで医者に相談に訪れる。自分の感じていることを100%説明することは難しい。そこをなんとか補助線を引いて分かってあげること。
・必要に応じて専門医を紹介する。これは患者の立場に立って親身にお世話をするということだ。
・紹介したら、状態を報告してもらい、そこ内容をさらにかみ砕いて患者に説明する。専門医の難しい説明を、その人の知識の背景に応じて説明するということだ。そこまでのケアを含めて家庭医というものが存在する。
・「親身に自分の健康のことを考えてくれる人」が欲しいはずだ。それがホームドクター。例えば、親しい友人や親戚にそうした信用できる人がいて、専門知識を与えてくれるなら、どんなに心強いだろう。そのような人がホームドクターとして求められている。
・そうしたことが本当にできるのは精神科医ではないか。少なくとも精神科医の素養が大切である。患者の不安の構造を診るのである。そして補助線を引きながら、患者が自己理解を深めるよう導く。
・こうした需要は多いのだが、なかなか受診に結びつかない。

・内科ではなくて、「(健康+心理)カウンセリング」の形のものが大切ではないか。現状の人間ドックや脳ドックは検査が主体で、相談が主体ではない。
・心理相談などをすれば気持ちが楽になるはずの人は少なくない。しかしそれが受診動機とならない。そのような相談場所がどこにあるのか?活動内容は確かなのか?

2631
汚い頑固な職人気質の大工とサラリーマン工務店
また、地元の不潔な不動産屋と大手のサラリーマン不動産屋
どちらがいいか。一部は、「やはり地元のことは地元、昔からの習慣で。大手は結局中間マージンを乗せているだけで、高くついてしまう」といった考えの人もあるだろう。しかし時代の流れはそうではない。
安心感にもお金を払うのである。出来上がりが同じとして、話しやすい人と納得いくまで話し、内容や料金についての不安なく実行してもらう。
そのような仕事にならば多少のお金をかけてもいいのである。
たとえば運送業者。たまにしか使わないから、一般の人はよく分からない。分からないから不安である。その不安を和らげるような仕事ぶりが大手の業者にはある。それが大切である。経過の快適さも料金のうちである。
またたとえば、デパートと安売り屋。高いことは承知の上で、信用と快適さを買うのである。

ましてや自分の病気のことならば、最終的な治癒と同等に、経過の快適さが大切である。

つべこべ言わないで俺のいうことを聞いていればいいという、職人気質はだめ。
医者が患者を叱ってかえしたなどというのも悪い態度である。叱られて喜ぶ人だと見立てたならばそれもよい。しかしそうでないない場合、つまり「最終的に早く確実に治ればいいだろう。そのためには嫌われてもいい」と考えているところがあるとしたら、大きな間違いである。正確で迅速な診断と治療であっても、患者が心地よくないなら、上ではない。患者が納得して満足していること、そのことに敏感でありたい。

最終的な治癒に至るまでの経過がどの程度困難であるか、それも大変重要だ。そのことを頭に入れて診療する。

結局、患者の気持ちをよく分かってあげるということだ。簡単でかつ難しいことである。

少なくとも、患者の不安を分かること。どんな病気なのか、どうすれば治るのか、費用と期間はどの程度なのか。

2632
自分という井戸の底に、自分という洞窟の奥に、何が住んでいるのか。
知らない方がいいものか。知った方がいいものか。

2633
家族バナナ理論の続き1
では分裂病者とは何か?
バナナの房につながっていない人。家族と一緒にいても、友人と一緒にいても、バナナの房でつながっていない。本質的に孤独である。他人の脳とうまくつながっていない。自分の欠如を他人の脳で補完することができない。
そのような何かの欠如。
状況意味失認はその点で分かりやすい。いろいろな状況が、個人から個人へのメッセージとなっている。机の上のミカンは母の愛情という意味を帯びている。しかし分裂病者はその意味を受け取ることができない。むしろ誤解してしまう。
バナナの房から離れているということは、そのような事態ではないか。
また、プレコックス・ゲフュール。「人間的反応」に類した何かが欠けている。まさにそのようなものによって人と人とはつながり合い、バナナの房を構成するのだろう。

内的感覚遮断はこうした状況をうまく説明するだろう。見えていても、意味は見えていない。その時、集団でいても、集団でいることの本質的な何かが欠落している。

集団療法とは、このような何かを利用することが眼目である。それは実現できているか?

2634
家族バナナ理論の続き2
集団療法とは、
バラバラだった個人を、房につながっているバナナの状態にして、養分を補給する作業である。

こうした比喩的な言葉を実物を指す言葉に置換すること。実際に起きていることは何か?

人と人との間にある房とは?
人を強くする房とは?
つながるということの意味は?

食べ物を分かち合うものとしてのイメージ。
性的存在として分かち合うイメージ。
わたしが我々になるとき、何が変わるのか。

コンピューターをたくさんつないだときの、計算速度の速さを考える。
脳の部分を使ったときのシミュレーシューョンと、脳の全部を使ったときのシミュレーションの正確さの違い。それが集中力ということだ。
脳と脳とがつながって、能力を発揮したとき、個人の力を補い合い、それ以上の能力を発揮できる。訂正しあい、確認し合って作業は進む。脳のネットワーク状態が必要である。

2635
「人生には三つの年頃がある。第一はサンタの実在を信じる年頃。第二はサンタの実在を信じなくなる年頃。そして第三は自分自身がサンタにならねばならない年頃である。」
・老人はどうか?サンタのおとぎ話に入れてもらえない年頃。
・これを文明の成熟過程としてとらえることもできるのではないか。サンタの実在を信じていた古代宗教文明。サンタの実在を信じなくなった現代の物質・実利・無倫理の文明。そしてその先にある、さらに成熟した文明。それは「自分自身がサンタになる文明」である。
サンタを神による恵み、さらには神に由来する倫理と読み替えたい。
神による恵みと倫理を信じていた時代。これは人間の力がまだ弱かった時代である。
神による恵みと倫理を信じなくなった時代。現代は人間の知恵は増大し、神に頼まなくてもいい時代になった。しかしそこには大きな裂け目がある。「なぜ生きるのか」の問いにだれも答えてくれないのだ。古代の場合には神がその答えを与えてくれた。神がいなくなって、答えは消えた。問いを忘れたままで生きている人も多いが、しかし問いは消えないで残っている。ときおり思い出すのだが、ときおりである分、なじみもなく、どのように扱っていいものか途方に暮れるのだ。
次の時代は「自分たちがサンタになる」だろう。自分たちが恵みと倫理の根源になるのだ。そして自分たちが生きる意味の根源になる。
それは神がもはやいないことを発見した動揺を隠すための反動ではない。過去の時代にはそのような反動として、自分が意味と倫理の根源になるのだと主張した思想家もある。しかしそうではない。もっと自然な発展として、充分に成熟した人間は自分自らが価値を創造する。意味を創出する。価値ある倫理を自ら建てることができる。

2636
成田善弘心身症と心身医学」岩波書店1986。

2637
福島章「心のはたらき」所収、東大出版会
・解釈は、患者の意識の世界を拡大する知的作業である。
●なるほど。イドのあるところにエゴあらしめよ。そのようにエゴの領域を拡大し、理解し、理性の支配の下に置く。しかしその先には、タルコフスキー「ストーカー」で描かれた悲劇もある。「自分の本当の心など知らない方がよかった!」
・かつて自分が体験しながら忘れ去ったもの、現在起こってはいるが意識的には理解していないものが何であるのか、というストーリーを組み立てることを助ける。
・その時、患者の自我は事実に耐えうるほど強いかどうかが問題である。患者は事実が耐え難いからこそ抑圧しているのである。従って、事実に直面するには大きな力と支持が必要である。そのために治療者は援助する。
・分析家の最初の仕事は、超自我エスとの葛藤に疲れて弱体化した自我を強化し、感情的にも支持すること。受容、共感、支持、理解、配慮などの積み重ねにより、患者の信頼と安心を引き出す。
・陽性感情転移が生じただけで、全く洞察に達していないにもかかわらず、症状が改善することがある。これを転移性治癒という。(診療室以外での症状が、診療室での症状に限定される。このとき転移神経症が成立したことになる。この場合には外界での症状はいったん消えるので、転移性治癒という。という説明はどうか?→調査。)
・解釈は時の熟するのを待つ。患者の意識が洞察の一歩手前まで熟したときが解釈のチャンス。
・患者の話のある局面に関心を示さないこと(選択的無関心)もまた、解釈のひとつである。
・何が分からないかを治療者が分かることが大切である。
・患者の話に疑問符や感嘆符を付すだけでも、解釈である。「よい解釈は、おおむね平叙文ではなく、疑問文だ」ともいわれる。
・抵抗を解釈する。その解釈に対する抵抗をさらに解釈する。この操作の反復が徹底操作である。
・幼児期原型(プロトタイプ)が反復される。
・患者の転移感情の特徴は、概ねそれが両価的であることにある。
・転移感情は、過去の感情の反復、診察室以外の生活での感情の反復である。それは幻想的・心内的である。しかし一方、それが診察室で起こっている点で、現実的である。(現実的ではなく投影の結果なのだけれど。)
・患者に決して現実的な満足を与えてはいけない。性的関係、恋愛関係、敵意に反応して喧嘩を買ったりするのもいけない。
(このあたり、デイケアはやはり特殊である。心理面接の延長をしていては、竜宮場になる。デイケアは現実への橋渡しの場所であるから、どうしても治療者も現実的な個人となる。その場合、心理面接でいう隠れ蓑も、鏡のような態度も、難しい場合がある。)

2638
荒井献「心のはたらき」所収、東大出版会
キリスト教が成立した当時、ユダヤの支配者達は、生活の価値基準を律法においていた。律法を守って倫理的に正しい生活をした人がその功績によって終末の時に神の国に迎えられる。律法を守らない人は神の国から閉め出される。しかしヨハネは、過去における律法の業を誇り、それを基準にして、律法を守らない人、あるいはむしろ、貧しさや病のゆえに律法を守ろうとしても守り得ない人々を差別する人間の心のありようを「罪」と見た。
(●ここが大切な指摘である。)
人間は過去(民族、社会階層、学歴、性別、宗教的敬虔)に価値の基準をおくのではなく、一切白紙の将来に価値の基準をおくべきである。
この価値基準にしたがえば、過去を誇る者は神の審判の対象となり、過去を誇り得ない者が、神の救済の対象になる。

●たとえば頭が悪いのは本人の責任ではない。性格が悪いのも、本人の責任ではない。考えてみれば、本人の責任などどこにもないように思う。むしろ、責任といったような言葉で「抑制」または超自我を植え込むだけなのだろう。
人間は無限にやり直しの途上に立つ存在である。

過去は現在を免罪しない。
現在は将来を免罪しない。
しかし過去は現在により、現在は将来により、免罪される可能性を持つ。あるいは救済者によって一挙に免罪される。
オセロのようなものである。最後に浄化されれば、それまでの罪はすべて最終的な浄化のための布石であったともいえる。オセロでは相手の石がたくさんなければ、自分の石はたくさんにならない。罪が大きければ、浄化も大きい。→それよりも、罪の少ない人生がいい。また、反省すべきは、内部の罪である。大きい罪といっても、刑法でいう罪ではない。

指示刻々に浄化し続けなければ、魂は濁るのである。

罪は蜜である。人間に不可避の何かである。

2639
対話的関係
脳と脳とが並列につながるイメージ。
脳と脳とが直列につながるのは、命令であり、帰依である。支配であり指導である。
並列につながるとき、脳は独自の強さを発揮する。
電池を直列につなげば、電圧があがる。それはすばらしい。並列につなげば、電圧は同じだけれど、別の意味で強くなる。
並列につないでいれば、ある一つの電池の電圧が低下してきても、全体の電圧は維持される。このように「補いあう関係」ができる。
直列も助け合って全体の電圧を高くしているが、それは個々の電池の弱点を補うのない。むしろ個々の弱点が露呈する。
並列結合は無駄といえば無駄である。しかし個々の電池がいつでも常に完全とは限らないことを前提として考えれば、すばらしいシステムである。

対話的関係。電池の並列。家族バナナ理論。
他人の脳からの提言に耳を傾けるとき、自分の脳の限界を少し超えることができる。
他の脳はどんな風に考えているか、感じているか、それと比較して自分の脳をチェックする。
脳を並列につなげば、精密なシミュレーションができるようになる。

脳内でも、並列と直列を考えることができる。

2640
「心のはたらき」東大出版会
シャーマンの存在が肯定されている社会では、精神症状や行動異常について、神霊の一方的な意志による憑依に原因を帰すことによって、当人の内的・私的なものではなく、原因を外在化し、社会的に理解可能な公的次元での取り扱いに委ねられる。しかも、憑依を、神霊から選定され賦与された交流能力として肯定的に評価することによって、自己統御の能力を高めてゆくことを円滑にしている。また、宗教職能者としてのシャーマンがおこなう占いや治療の儀礼は、その顧客となる共同体の成員にとっても、そのやり場のない不安の原因を宗教的な次元で同定して、これへの対処と解決を可能とする点で、精神医療的な性格を有する。
このように、自身が精神的な困難を克服して社会復帰を遂げたシャーマンは、同時にその社会に特有な精神衛生全般に亙って重要な地位を占める。

●精神病理的現象に対する態度の変化は、宗教や神に対する態度が「科学的態度」に変化したことと対応しているだろう。→サンタを信じる社会から、サンタを信じない社会への変化。
以前価値あるものとされていたものが、こんどは無価値で、むしろ排除されるべきものとされた。排除の装置が精神病院である。
排除することなく生きる社会も可能であった。現在は排除する社会を選択している。
さて、自分がサンタとなる社会では、精神障害者(障害者という言葉がそれ自体排除の標識として機能しているが)をどう扱うか。社会はサンタとして振る舞い、さらに精神病者をもサンタの役割を担うものとして迎える。
排除ではなく参加。

●またたとえば、現代では宗教ではなくて、マスコミ・芸能界がそのような機能を果たしている面がある。引きこもり系統の陰性症状の場合には難しいが、陽性症状が中心の場合ならば、そして性格障害が中心の場合にはなおさら、芸能界のような場所で生きる場所が確保される可能性はないではない。あるいは大学や研究機関。
●人々は病気の症状に対して、プレとトランスの錯誤をおかすことがしばしばである。ケン・ウィルバーはトランスをプレと誤解する場合を取り上げて問題にした。この場合にはプレをトランスと誤解する。つまり、脳の下層から出現したものを、何かありがたいもののように考える。文章にも、絵画にも、造形にも、そのような側面はある。一定の技術はあるが、根本的には下層からの産物を加工しているだけである。

2641
強迫症者は優柔不断である
これが面白い

2642
心理学と精神医学で病理についての理解の違いがある。立場の違いといってすましていていいのか?
あるいは、別のレベルからの働きかけと考えていいものか。

2643
「〈対話〉のない社会」中島義道PHP新書
私語の習慣
他人の発言中にも私語をやめない風景はいまでは珍しくなくなった。

高校生がタバコを吸いながら道を歩いている。誰も注意しない。
援助交際という名の売春が低年齢化している。

日本人の変化。
超自我の発育不全
社会全体の無責任
責任は集団にあり、個人にはない。個人はいいのだが、集団が悪いということにしている。

2644
「〈対話〉のない社会」中島義道PHP新書
●「優しさを妨げるもの」をかつて大江が論じた。「対話を妨げるもの」を中島が論じている。私のいう「対話」と一部重なり、一部重ならない。
・対話とは、他者との対立から生まれるのであるから、対立を消去ないし回避するのではなく、大切にすること、ここにすべての鍵がある。
私見では「対立はある。しかしそれを何とかしようとは思わない。正誤で決着しようとも思わない。ただ政治力で決着しようとする。あるいは自分だけが正しいと信じ続け、自分以外の人の考えは価値のないものとみなして安心している。」たとえば海道病院での風景はそのようなことであった。「あいつは病気だ。俺はその被害者だ。どうしてくれる」というわけである。そのように断罪して自分を守っているのだ。
・自分と他者との微妙な差異を正確に測定したうえで、その差異を統合しようとする場(ここに対話が開かれる)が完全に取り払われている。世界は自分と対立の生じえない世界であり、この意味で自我の拡大形態なのである。
・対話は対立のない社会では育たない。対立を大切にする社会、互いの差異を正確に測定しようとする社会でなければ死んでしまう。倫理学者R.M.ヘアは「一般化generalization」と「普遍化universalization」とを分けている。前者は自分の価値観や規範意識をそのまま拡大する作用であり、後者は異質の価値観や規範を統合しようとする作用である。後者こそ対話を活かし育てる概念である。
●個々の人間の内側にあるものを「統合する」とは言葉が怪しいとも思える。イメージとしては「脳と脳とが並列結合されている状態」を思い浮かべるとよいのではないか。支配ではない、指揮命令系統ではない、自分に欠けているものを持っているのではないかと謙虚に問いただすことである。自分に欠けているところがあったら補えばよい、それだけのことだ。プライドが邪魔をするというなら、プライドに拘泥していればよい。その地点がその脳の限界点である。
まずどんな脳にも間違いは内在している。次にどんな脳も、すべてを経験しているわけではない。
脳は脳内の状態を現実と照合する。その結果訂正する。それだけではない。現実の他に、他人の脳の内部状態と自分の脳の内部状態とを照合する。どちらが正しいのかは現実照合の場合よりは判定が難しい。しかし、人間の脳の最高級部分には、そのような判断を下す部分がある。プライドが邪魔をしてその高級機能部分が働かないなら、残念ながら機能不全である。それはある種の性格を構成するだろう。

2645
考える場合でも、本を書く場合でも、基礎となる事実として何を選んだか、どんな人の本を引用しているか。それは大切な点である。その点で、良心的であるならば、出典、引用文献を提示すべきである。煩わしくても、そのリスト自体に価値がある。

2646
対話は自分を危うくする
真の対話は自分を危うくする場合もある。自分の信念や感じ方の訂正を迫られることもある。そのようなものが対話である。だとすれば、なまなかのことでは危険で対話などできないはずである。
対話すれば自分の問題がめくり返される。それは苦痛である。相手が真剣になり、裸になり、全存在をかけてぎりぎりの言葉で語るのはよい。自分がそのように語るとなれば尻込みする。自分が薄っぺらで、実は何も中身がないことを知っているからではないか?
相手を傷つけたくないから言わないのではなく、自分が傷つく事態に巻き込まれるのを恐れているだけである。

本当の自身がないから、身を隠して生きている。いじめの恐さを知っている。正義も道理も通らないのだ。ただ目立つことが悪いことなのだ。しかも正義を振りかざしているとなれば胸くそ悪いと思われかねない。
みんな平等で弱くてみじめでしかも他人に優しいはずなのである。この規範に従わないなら社会から排除されても仕方がない。

2647
宮崎隆太郎「傷つきやすい子供たち」(三一書房
灰谷健次郎批判。

2648
嫌われたくない。それだけが行動の規範のようである。
クリニックをしていてそう思う。患者は正誤ではなく、好き嫌いで物事を言いふらす。最後には理解して感謝と反省をしてくれるだろうなどというロマンは通用しない。現実の人間とは、それだけの存在である。お話を現実と混同していてはいけない。
結局残るのは、他人はどうなってもいい、自分が嫌われないように上手に立ち回るべしということだ。

しかしそれだけではない。「他人はどうなってもいい」の反対として「他人のために」との動機からの行動があるだろう。しかし「他人のため」は純粋に他人のためであろうか?お前のためだといいながら、鬱憤晴らしであったり、攻撃であったり、支配の感覚であったりするのではないか?
そのあたりを敏感に感じとるから、反発される。
また、その反発も問題である。純粋な「お前のため」の言葉であっても、受け取る人間がひねくれていれば、単に自分のために語っているに過ぎないことになる。
二重に不純になっている。
こんな状態ではどうしようもないではないか。

2649
「〈対話〉のない社会」中島義道PHP新書
・「他人の痛みの分かる人になろう」との標語が「自己の痛みの拡大形態として他人の痛みを分かる」という図式になりやすい。自己の痛みの延長としてしか他人の痛みを理解できない。この場合、私がつらいときには他人もつらいであろうとまでは言える。しかし私がつらくないときでも他人はつらいかもしれないという発想にはなりにくい。他人は自分とは感受性がまったく異なっているかもしれない。だから、「他人の痛み」を分かるのは実は大変なことである。
●共感の問題である。自分の感覚の延長として「自然に」理解するだけでは共感とはいえないだろう。
●「他人は自分と感受性がまったく異なっているかもしれない」と前提してものを考えることには大変な無理がある。共同体、集団というものは感受性がある程度共通であることを前提として成立している。「まったく異なる」とはいったいどのような事態であるのか。どの程度のまったくなのか。

2650
甘え理論の話になるとなんだか違和感がある。なぜだろう。意味の輪郭があいまいである。日本語の「甘え」の輪郭があいまいなのだ。

甘えは主に他人を批判するときに用いられる言葉である。当然ではない特別の好意に期待する態度(自分の窮状を知っていれば、好意は当然であるという自分本位の姿勢がある)。こちらの心情を汲んでくれるはずだという意味での一体感(分かるはずだという自分本位の姿勢がある)。

言葉の使い方としては、「それはあの人のエゴだ」「それはあの人の甘えだ」というように、エゴと似ている。エゴイズム、自分本位。
自分本位の人が自分で何でもやって迷惑をかけているなら甘えではない。自分本位の人が人に何かをやってもらおうと厚かましく考えているとき「甘えている」のである。
自分のわがままのために他人を動かす。これが甘えである。
他人の行動や配慮を当然受けるべき場面ではないにもか変わらず、何らかのサインを発して、自分のわがままを通してしまう。それが甘えである。
ひどい利己主義である。自分のために他人に動いてもらおうとする利己主義である。

2651
「〈対話〉のない社会」中島義道PHP新書
●相手にレッテルを貼って、自分は優位に立ち、安全圏に逃れる。典型例が精神科の診断である。「あいつは境界例だ。性格障害だ」と診断してしまえば、自分の優位は決定される。自分は被害者である。悪いのは一方的に向こうである。そのように断定してしまうことが許される。そこに「対話がない」と思う。
●対話の精神とは、科学的精神といってもいいのではないか。何が事実なのか、何が正しいのか、自分をも含めた状況を明確にしたいと思う気持ちである。自分だけが考察の対象外に保護されるのは正しい態度ではないはずだ。
●真実を封殺するための会話ならば有害である。真実を発見するための会話が対話である。
●人間同士の会話はいろいろな機能を持つ。
例えば、社会順位の確認のための会話。これはあいさつの変形であるし、動物でいえばマウンティングに相当する。議論の中身や事柄として真実であるか否かを問題にするのではない。どちらが優位なのかを確認するための言葉のやり取りがある。
一方で、共同して真実を探るための会話がある。科学的真実に到達するための共同作業である。脳と脳を並列に結合する。
特に、お互いの脳の中にしかないことを照合する作業を通じて、脳内の状態をチェックしているのである。
●相手に診断名をつけて安心する作業は一種の防衛とも考えられる。自分を危険に場所にさらさずにすむように工夫していると言える。
●正しいことでも忠告されれば腹を立てる。たとえば学生に社会人が忠告して殴られた場合。事柄の内容について吟味があったわけではないだろう。腹を立てたのは、その忠告が学生にはマウンティングのように感じられたからである。そうしたマウンティングをはね返す方法として、学生は言葉を持っていなかった。暴力ではね返すしか手段を持たなかった。
●これは結局、真実や倫理に対しての同意(または信仰)がない場所では、真実や倫理についての言葉も、マウンティングの道具になってしまうということだろう。人間関係の序列だけが重大事である社会では、起こりうることである。
●むき出しの、素っ裸の真実というものはない。いつも「誰がどんな状況で語ったか」がついて回る。真実も倫理も社会の順列の中で測られる。そのような社会では、正しいことを語るにも、「作法」がある。社会のルールに乗せて、真実を語る必要がある。
1997年12月9日(火)

2652
「〈対話〉のない社会」中島義道PHP新書
竹内靖雄の指摘。西洋近代型の個人主義は強い個人主義であり、日本のものは弱い個人主義である。

強い個人主義
・利益の追求に集中する
・他人との関係において攻撃的で、競争志向的である
・市場を利用する。すなわち、市場ゲームの個人プレーヤーとして生きようとする
弱い個人主義
・不利益の回避を重視する
・他人との関係において防衛的で、競争回避的
・集団を利用する。すなわち、個人はまず集団に属し、その集団が市場のプレーヤーとなる。

2653
「聖書と甘え」土居健郎PHP新書
不安を伴わない自由。
楽な方を選ぶ自由。
それも自由には違いないが、自由意志という場合の自由とはやや趣を異にしているのではないか。敢えて選ぶ、にもかかわらず選ぶ、そこに自由の真の価値があると感じられる。
ただ楽なほう、何も考えなくてもよいほうを選んで、それを自由だというのはなんだか違う。それは不自由というものだろう。楽と苦労の決定論でしかないだろう。

2654
無力感と力の感覚の回復‥‥これがストレスとストレス解消に関係しているということ。
イライラするとかストレスを感じるとかという場合、ストレス解消に皿を割ったり、歩道の自転車を蹴飛ばしたりする。
皿や自転車の例は、自分の力の確認であろう。イライラやストレスはつまり、無力感のことではないだろうか。
イライラとは無力感である。無力感を解消するために皿を割って力を確認する。「自分には力がある」と自分を肯定する気分になって落ち着く。

2655
「聖書と甘え」土居健郎PHP新書
●甘えとは、自己批判の停止、反省の中断、スーパーエゴの機能停止ではないか。
●フリーチャイルド丸出しともニュアンスが違う。甘えはもっと巧妙で、効果を計算している。
●太宰をまねていえば、下卑ている。

2656
「聖書と甘え」土居健郎PHP新書
育ち方によって妬みが強く発達する人と、あまり発達しない人がいます。突っ張って生きる人、世の中の不正が許せない人、「自由と平等」「差別撤廃」を叫ぶ人、これは妬みが強くなります。反対に、甘えられるところがある人はあまり妬まない。
甘えられる人を持つこと、甘えられる心を持つことで、妬みが緩和されて、人は救われます。ですから、甘えたりしてはいけないなどと思わずに、自分や他人を救うためにも、甘えられる関係をつくっておくようにした方がいいでしょう。
妬まれた場合、妬まれている人からなるべく離れているのがよい。なるべく目立たないようにする。慎む。派手にやると人の妬みを買うからいけない。
パウロの言葉で、「喜ぶ者とともに喜べ、泣く者とともに泣け」というのがある。これが本当にできれば人を妬むこともなく、人の妬みを買うこともない。
人間が社会をつくるのは妬みがあるからだといえる面がある。仲間で固まるのはなぜかというと、誰かが先行しては困るからです。妬むから一緒にいようという面がある。ですから、人間の集団ができるとき、妬みは非常に大事であるということになる。妬みが全くないとバラバラになってしまうおそれがあるかも知れない。
●なるほど、集団というものはそのようなマイナスの動機で成立する面もあるかも知れない。例えば、他人への関心を超越しているタイプの分裂病者は、集団になる理由が乏しいのかも知れない。(そんな純粋な、聖人のような分裂病者はロマン主義の産物に過ぎないけれど。)
●世の不正を許せない人を妬む人であると断ずるのはいかがなものであろうか。今のままでいいではないか、文句を言う奴は頭がおかしい、性格がおかしい、生育に問題がある、だからひねくれた‥‥などとする低次元の話につながる部分があるのではないか。
妬みがあってもなくても、正しいことは正しいし、不正は不正である。そのことを性格の次元の話に変換する習慣は、対話を拒む態度である。ここに対話を封じ込めて自分が優位に立とうとする態度の典型が見えている。土居はそんな人ではないかも知れないが、不用意な発言であることは確かである。

2657
不正と父性
密接に関係している。

2658
「聖書と甘え」土居健郎PHP新書
貧しくても人を妬まない。豊かに暮らしても人の妬みを受けないように生きる。これが人生の達人である。
●なるほど。
●やはり妬みはマイナスの感情だろうか。逆に、自分に向けられる他人からの妬みを思うとき、快感が走るのだろうか。

2659
恨みを買う。妬みを買う。この場合の「買う」とは何か。

2660
クリニックの機能について
・医学的診断・治療機関としての機能(心身症神経症自律神経失調症うつ状態、小児自閉症など)
薬物療法、精神療法
・心理カウンセリング、認知療法、行動療法、電車恐怖対策法、対人恐怖対策法、心理劇、ロールプレイ、SST内観療法、リラクゼーション、バイオフィードバック、アロマテラピー音楽療法
自律訓練法、マカトン法、集団精神療法、精神科デイケア・ナイトケア
心理検査とその結果の説明、アドバイス
・リラクゼーションの方法、本、アロマテラピーの用具、各種小物、買える店の情報
・各種施設や専門医、専門家への紹介の機能
・今後どのような治療がいいのか、コンサルタント
・メンタル・ヘルス・アドバイザー
・医学の専門的な知識を分かりやすく伝える
・とりあえず相談に行く窓口
・自分のような悩みの場合に、どこに相談に行けばいいのか分からない。自分にぴったりの相談窓口をアドバイスして欲しい。
・痴呆の始まりではないかと心配だ。しかしうっかり病院に行くと病人扱いされてしまいそうだ。
・病気ではないが、病気についての知識を確かめておきたい
・困っているが、自分である程度は調べてみたい。どんな本を読めばいいのか、アドバイスが欲しい

・地域のメンタルヘルスデータバンク(情報と人が集まる)→地域医療の拠点
・各種専門施設に至る最初の窓口、きっかけ

セカンドオピニオン提供機関(今の治療でよいのか。今の診断で間違いないか。本に書いてあることと違っているので心配だが主治医には聞きにくい。もっと詳しい説明が聞きたい。)
・悩みは漠然としていて、病気だとは思わないが専門家の意見が聞きたい
・漠然とした相談事、とりあえず誰かに話を聞いて欲しい場合

・幼児や児童の言葉の遅れの専門外来→専門外来を標榜することのメリット(うつ、めまい、自律神経失調症更年期障害、老年期痴呆、登校拒否、対人恐怖など)
・専門を特定せず何となくまず相談という雰囲気にすることのメリット

・リラクゼーション教室
・今の状態から抜け出すことができるよう援助する。そのための最初の手がかり。最後の解決ではないかも知れないが。

2661
1997年12月13日(土)
精神力動などといわず、精神力学と呼べばいいではないか。ニュートン力学が模範であった。
現代では力学というよりは「回路」である。ニューロン回路が、巨大なコンピューターを形成している、そのようなイメージが支配的である。とりあえずそれでいいではないか。

2662
右手に愛を、左手に信頼を

母のように愛し、幼子のように信頼しなさい
(あるいは幼子のように愛し、幼子のように信頼しなさい)

唯一の処方箋は、愛と信頼である。

2663
皮膚病における履歴現象
細胞のレベルで記憶が刻印されている。脆弱性が刻印される。そして次の体調不良の際にはその場所に問題が起こる。その意味で人は歴史的存在である。現在は過去に規定されている。
そのようなものとして精神現象もある。

天気の悪い日には昔の傷が痛みだす。
免疫力が落ちれば、潜んでいたヘルペスが顔を出す。

2664
総婦長の心構え演説について
自分はこんなに苦労してきた。だから、あなた方には余計な苦労はかけたくないといえば、共感が生まれる。不幸は再生産されずにすむ。
自分はこんなに苦労してきた、だからあなた方もこのくらいの苦労は当たり前だ。工夫が足りない。我慢が足りない。そう言うのでは共感は生まれない。奴隷のリーダーが奴隷に対してするお説教であり、不幸の再生産である。ナチの支配下で、ユダヤ人リーダーがユダヤ人に対してした演説のようなものだ。ドイツの栄光のために我々も尽力しよう!

2665
過食と不食の階層構造
不食はコントロール過剰、過食はコントロール不足、このように分けて考えてみる。
強迫傾向のある人の場合、目標に向かってのスケジュールを決定する際に、過剰なコントロールを目標とする場合が見られ、その反動として、少しでも予定が狂うと、コントロールゼロに陥る。目標が高すぎて(現実把握の悪さ)、しかし達成できそうにないとなれば、all or nothing の原則で動いてしまう。そのような基盤があるのではないか。
うつの場合でも、似た事情がある。躁はコントロール過剰に対応し、うつはコントロールゼロに対応する。つまり、躁の欠如態としてうつが考えられる。
不食は上位のコントロール行動であり、過食は下位の欲望行動である。階層的構造を考える。上位のコントロールが破綻して、下位の欲望が野放しになる。→これは躁うつの事態とはやや異なるけれど。躁とうつとは上位下位ではなく、同一平面上に散在している。

2666
脳の中に複数の人格セットを仮定する。それぞれの出現の時と場所を考えるのがセルフの上位部分である。セルフ・アイデンティティと呼んでもいい部分である。
それぞれのセットは、体験をいつもモニターしている。他の部分との連絡は取れている。連絡が遮断されると病的な状態になる。それが解離状態
各セットに、感覚線維と運動線維が配置されている。それぞれが体験している。?
このような分散システムは、脳の異常には強いが、能率は悪い。中央で一括して一度だけ処理するのが最も効率的である。しかし何か異常が起こって、どれかのセットが機能しなくなったとしても、他の部分での代償が十分にできそうである。並列構造である。

(脳内の並列構造に加えて、脳と脳との並列構造が考えられる。それが対話的関係である。)

→脳内アイデンティティサブセット理論と時間遅延理論の結合ができるか?さらに層構造を考えて、退行と関係づけることができるか?

解離性障害を、統合障害と考えてよいと思う。いまこの場面でどのセットを用いるか、そのコントロールタワーが機能停止している。→思いがけないときに都合の悪い自分が出てしまう。→これは強迫性障害にも似ている。語ってはいけない場面で語ってしまいそうになるなど。また、分裂病の場合にもありそうである。
あるいはコントロールタワーが誤動作して、不適合なセットが用いられるとき、それが神経症である。

2667
アイデンティティを自己同一性と翻訳することの無理。「自分」という訳がよいのではないか。あるいは「正体」。するとセルフ・アイデンティティが翻訳できなくなる。

訳語がないということ自体、大きな発見である。人間の存在のあり方として、アイデンティティが必要なかったのではないか。そのような共同体が、日本語というシステムの上に作られていたということだ。
言葉の構造について、探求すること。ことば・制度・社会・意識・脳。これらの関係。

脳は発育の段階で言葉や制度を内部に構造化する。
たま逆に、言葉や制度は脳の構造を外在化する。
脳と、言葉・制度は互いに絡み合って、歴史の中で発展する。

2668
湘南心療内科・こころとからだのクリニック
湘南心療内科クリニック
湘南こころとからだのクリニック

2669
幼児期の虐待が後の精神症状の原因となるか?
たとえば、幼少期に多動・衝動的であったならば、親は虐待するに至るかもしれない。また、ニグレクトも生じやすいだろう。十分に可愛い普通の子供であったなら虐待という事態にはならないのではないか?
また性的虐待についても、やはり子供の側に多動、衝動的などの、憎く思われる要素が存在していて、その上で性的な事柄が起こったのではないだろうか?

このように思われるから、被虐待者は口を閉ざしてしまい、解決のチャンスを失い、解決を持ち越してしまう。

2670
国語の時間に文章を図で理解して、フローチャートのようなものにまとめたものだ。それで理解が増すのなら、最初からフローチャートで図解して示せばよいのだ。文章はいらない。
文章は朗読のために使われるだけである。こだわる必要はない。

2671
トラウマについて
性的侵襲の際に、相手の女性も快感を感じていたから、自分のしたことは悪いことではなく、このようなセックスもあるのだと言い張るとしたら、それが二重のトラウマを形成するだろう。こうした無知が不幸を再生産し続けている。
しかしながら、これは性的な面で問題になるだけではないだろう。サディスティックな行動一般が問題になる。
たとえば、サディスティックに指導する人と、その指導をマゾヒスティックに受ける人との関係。本来それはサド・マゾ関係を基盤とした歪んだ関係である。しかしサドの側は、「いやなら逃げればいいだけだ、相手もそういう関係を望んだ」と言い張る。マゾの側は、そのような人間関係もあるのだと納得してしまう。特に、特殊技術を伝えるような場合。たとえば家元制度。たとえば専門職の職場。男女がいれば性的様相を帯びる。同性ならばサド・マゾ的色彩を帯びる。そのような場合がある。
指導であると信じ合っているが、外から見ればそれは異常な関係である。

男が言う「いやだいやだと言ってたけど、いまでは俺でなきゃだめなのさ」
総婦長が言う「つらい日々があったけど、そのあとで一人前になって、感謝してくれるのよ」
似ているのではないだろうか?

2672
「薬をのまずに頑張ろうと思っている」→説得の仕方
「あせらずに、ゆっくりと」
「薬のせいでぼーっとしてしまう、ものが覚えられない」→説得の仕方
「この世の中が、精神科医など要らない世の中ならば一番いい」でも、われわれはこの世界を生きるしかない。
「病気ではない、誰でも状況によっては陥る可能性がある。むしろ、現代社会の何かが間違っている。」→疾病観の相違。精神病について、最大限、反応性と解釈する。そのことは患者をどの程度救うだろうか?責任を外部に所属させるほうが楽だ。自己に帰属させるとつらい。
ただ、自己の範囲をどう考えるか。脳腫瘍は自己の外か中か。そうした問題もある。

2673
老人の場合のケアプログラム・症状分析表
老人の場合のトラウマ

たとえば、老人の場合、未来は閉ざされているだろう(来世を信じるならば、未来は開かれているのだが)。この一点だけから考えても、老人はうつに傾きやすい。
未来について、世界について、自己について、悲観的に考える。これが認知療法の立場からいわれることであるが、老人の場合にはどれも閉ざされているのではないか。
未来はあまりバラ色ではない。世界は老人に対してやさしくない。自分はもうすぐ死ぬだろう。未来の予定は死ぬことだけである。
楽観的に考える材料に乏しすぎる。

ではそうした材料を与えることができるだろうか?たとえば来世を信じられるような宗教を?輪廻を信じられる宗教?
苦い現実をかみしめて死ぬことがよいか。嘘でも楽になった方がよいか。
徹底的虚無の立場に立てば、真実にこだわるよりは安楽さを選択することにも意味がある。一時を幸せにしてくれる宗教は有用であると思うのだ。
それほどに、老人の時間は苦悩に満ちている。

2674
サンタ・クロースに対する態度の変遷……素朴に信じる、信じなくなる、虚構と知りつつ人のために演じる。
文明として……古代宗教文明。現代唯物論文明。そして未来の文明。
個人として……同様の発達の仕方を見せる。
職業倫理として……「愛は患者を救う」との信念。これは駆け出しの、しかし折れやすい、しばしば薄っぺらな、信念である。信念というよりは、素朴な誤解に近いだろう。そして、そのような素朴な信頼の世界はないのだと絶望したあとの「それでもなお私は愛する。にもかかわらず私は愛する」、そこにこそ職業倫理がある。強い倫理がある。

2675
対話的関係の反対は、揚げ足取りとレッテル張り。

相手に対する尊敬も信頼もない。ただ自分が優位に立つためのゲームを展開している。支配のゲームである。
真実に対する畏敬がないのだ。結局は神の不在ということなのかも知れない。

支配や順位性は猿にも見られる、人類の深いところでの本能である。
猿でも見られるように、支配の本能は性の本能と深く連動している。だから、性的興奮と支配の興奮は混同されやすい。
たとえば、マウンティング。性の体位が支配の儀式に流用されている。
サド・マゾは、こうした、性と支配の交差部分で結実する現象である。

性は、一方では愛の結実でもある。
対話的関係は、支配やサド・マゾよりは愛に関係がある。

大人になるということは、性的存在かつ支配被支配の順位的存在になるということだろう。男と女の、それぞれのピラミッドに別れる。そのなかでの自分の位置を知る、それが大人になるということだ。

2676
トラウマ。
自然災害については、「熊に出会ったモデル」で充分なのではないか。
他人からのひどい仕打ち。これは性質が違うだろう。「熊に会う」のとは別のモデルが必要である。
人間は他人に出会ったとき、特別な反応をする。人間に出会うときと、人間以外のものに出会うときとは別である。リンゴに出会うことと、他人に出会うこととは別である。
特に子供の頃はそうだ。取り入れを盛んに試みる。それが学習であり成長過程ということである。
その時に、とても取り入れることのできそうもない他人の振る舞いが現れたらどうするか?
通常は相手の振る舞いに対して価値付けをして、理想としたり、否定したり、部分的に肯定したりなど、自分にある引き出しに整理してしまう。
うまい引き出しがない場合、新しく用意する。引き出しがきちんと用意できれば、それはセルフ・アイデンティティのコントロールのもとに機能する、自我の一部分となる。
しかしそのような引き出しにもうまく収まらない場合、これが解離性の病理を引き起こす。
たとえば、性的外傷の場合。頭では否定的な価値付けをしても、一方で、そこに快感があったことは承知している。だから、深刻な外傷になる。解釈しきれない傷になる。完全に否定的な価値付けができればそれでよいのに。
またたとえば、自分の大好きな人に折檻されたり、見捨てられたりした場合。「あいつはひどい奴だ」と解釈するだけではすまない。自分はやはりその人が好きで、頼りたいと思うから、悪いのは自分ではないか、その人は本当はいい人なのではないかと、思いは揺れる。そのような場合には、心の中のどの引き出しにもいれることができなくて、「独立した部分」になってしまう。
こころの一部に、コントロールを拒む形で、独立した存在がある。それがトラウマである。それは何かの引き金によってセルフを乗っ取り、暴れる。
そのような自律性を持った部分が一つあれば、二重人格。二つ以上あれば、多重人格である。
これはその時の体験として、他人の振る舞いが、自分として取り入れることの到底できない体験であった場合である。「自分の一部にする」ことができない経験である。「自分の行動パターンの一つとして保存する」ことのできない体験である。しかし、忘れるには強烈すぎる。人間というものを学習している子供としては取り入れなければならない。しかしそれができない。できないままに「独立した部分」として成立してしまう。
その人はその「独立した部分」が暴れ出すと、自分でもどうすることもできない。その時、別の他人を傷つけている。そして他人の心の中に「独立した部分」が成立する。このようにして被害は拡大して世代から世代へ伝承されてゆく。

2677
北米のDIDでいわれる、児童虐待を生き延びるための交代人格といった側面。
Ross:「多重人格とは何か?多重人格とは少女が虐待が他の誰かに起きていることを想像することである。虐待を受けた少女の自分自身の体験の側面は他人のものとして解離してしまう。」
●いじめられているのは自分ではなく、別の子供だと解釈して、適応しようとする。これはこれで分かりやすい。

2678
多重人格は多重アイデンティティと呼んでいい部分もある。その場合には、いくつかの状況に対応して発達させたいくつかの適応様式を人格またはアイデンティティと呼んでいいことにもなる。
状況とは、さらに端的ないえば、誰に対する場合かということだ。厳格な父に対するときの自分。そして父を取り入れた自分。母親に対するときの自分。母親を取り入れた自分。
そのようにして、周囲の人たちに対するときの自分や周囲の人を取り入れた自分を、引き出しにしまっておいている。時と場合を考慮して、どの自分を外に出すか決定する。
正常状態においては、各アイデンティティの間で連絡が取れている。記憶の断絶はない。時間を通じて、まとまりを保っている。

目前の人に適応するために、また一つの人格を形成する。そのような形でしか適応できない。それが病理。なぜか?

ダブル・バインドはやや似ている状況である。

2679
性的外傷の意味
確かに、性的外傷には、単なる虐待にはない意味があるだろう。快感の強制的発現が問題となるだろう。しかし、やはりさらに問題なのは、そうしたことをする人間の振る舞いを、どのように理解するか。それに対してどのような態度をとるべきか。その点で対応不可能な状況になってしまう。そのことが外傷的に作用するのではないか。
どのように対応していいか分からない。どのように取り入れていいかも分からない。
そんなときに、子供は解離を用いて、判断停止するのではないか。

2680
多重人格障害の治療(磯田雄二郎)
・安心できる環境。傷つけられないことの保証。
・関与する人数の制限。人数が多いほど分離は進行する。(治療が進行すると、さらに新しい人格が出現して、人格の分離が進むことがある。)
・外傷体験の想起と徹底操作。思い出すことの重要性。
・幼児的世界の回復。遊びの重視。
・人格同士の連絡の必要性。

2681
わたしのこれまでの常識からいえば、患者の話を聞いて、あまりに原因を外部に帰属させるやり方は賛成できない。たとえば幼児期虐待が現在の症状を形成しているといったような「物語」を読むこと。そうした「物語」が語られた際には、現在からの加工、初期からの異常の現れ、などと可能性を考慮して、解釈を保留することもあった。また、同じような体験は他の人にもあるのに、この人は症状として発現している。それはなぜなのか。こうした方向で考えることもあった。概ね、原因を内部に帰属させることが多かったと思う。
しかし現在北米を中心に多く語られる外傷理論を参考にして考えなおしてみれば、原因内部帰属の態度はいかにも患者にかわいそうなものではないかと思われた。これは文章の上で抽象的だから、あるいは使用例を読んでも脱色されているから、そのような「過剰な同情」が起こる面もある。
そのような留保を置くとしても、やはりなにがしか、彼らに同情の余地があると思われてならない。
過剰に「外傷の物語として解釈する」のはいかにも素人的で、好きではない。しかしそうした初歩的な低次元のレベルではなくて、もっと高次元のレベルで、反省的に「外傷物語としての解釈」を採用してみる必要も感じる。

病気というものを知らない、例えば心理の駆け出しの人たちの態度に「外傷物語としての解釈」はたっぷりと含まれている。それはそれで害も多いので「撲滅」する必要がある。しかしその先の課題として、どのように「患者の背後に横たわる物語を解読できるか」という問題は残る。

患者の物語を読み解く場合に、内面の病理としてばかり見るのではなく、被害者としても見て欲しいということでもある。
これは患者の魂が求めていることであろう。

2682
多重人格の文化的背景(江口重幸)
・ジャネは二重人格を物語と復誦の病とした。
精神分析パラダイムの影響力の低下→ジャネの再評価→外傷性記憶理論の再評価→北アメリカでの多重人格の流行
・ジャネはヒステリーの本質を「意識野の狭窄」とした。
・外傷性記憶‥‥ある出来事の記憶を持ち続け、その事件に関して我々が記憶と呼ぶような復誦を行うことができない現象。(物語的記憶と外傷性記憶の区別)
・外傷→解離→交代人格や症状の形成
・ジャネ:観察者の催眠暗示が患者に影響を与える。これは避けられない。
・自然が連続体として創り上げる全体から、限局された部分を切り出すのは科学者である。
・精神的=身体的外傷によって解離した自己の部分に自己暗示による物語化が入り込み、実際の出来事として経験される。
・複数の階層構造を持つ社会的人格
夢遊病‥‥体験の復誦の障害。見たことを物語ることができない。「言語=行動」理論。

・幼児虐待はbattered childからsexual abuseへと変更された。

●ジャネの紹介といえば、荻野恒一がある。

2683
状態像診断を押し進めるDSMと、わたしの言う、「前景症状と背景病理」はかなり考え方が違う。
たとえば、分裂病解離性障害にしても、状態像診断からすれば、幻聴など、シュナイダーの一級症状の扱いが問題にもなる。しかし、前景症状としてはいろいろなものが出る、背景病理の診断はまた別の情報に基づくとする考えからは、分裂病解離性障害はやはり重ならないものではないかと思う。病前性格や適応の仕方が違う。
と、一応抵抗してみたくなる。
治療の仕方が非常に違うわけではない。前景症状に対して投薬するという気持ちになれば同じ。背景病理に対して投薬するとなれば、治療を通じての診断ということになるだろう。

2684
解離性障害について(老人におけるトラウマの可能性について)

○宮崎事件の鑑定
・多重人格か分裂病か……これは現在の精神医学界のホットスポットである。北アメリカの流行が日本にも及んでいる。
・別の見方をすると、病気の原因を、個人の内部に求めるか、外部に求めるかの違いでもある。アメリカではフェミニズムの影響もあり、外部に求める傾向が育てられた。特に、幼児期の性的虐待が問題にされる。これはACについての動向とも重なる。問題を外部に原因帰属させる。
・痴呆患者に対するとき、同じ傾向がないか?職員は自分を守るために、問題の原因を患者の内部にのみ帰属させる傾向がないか?(ベテランは内因と解釈し、新人は心因と解釈する傾向がある。それはいいことかどうか?両面がある。)

○トラウマと多重人格についての最近の説
ベトナム帰りの兵士(つらい思いをしたのに、歓迎されず、むしろ批判された。ここがトラウマ。)
・神戸の地震の後の子供たちの立ち直りの経過……PTSD
・幼児の性的虐待が多重人格を準備するとの説。その説に対する反論。フロイトは、歴史的事実が問題ではなく、心的事実が問題であるとした。事実としては近親相姦はなくても、それを無意識のうちに願望した自分は存在したと気づき、エディプス葛藤に行き着いた。このようにして精神分析学説を創始した。エディプス葛藤を充分に処理しなかったから、神経症が起こるとした。(ドラマ「青い鳥」はエレクトラ・コンプレックスの話でもある。母の死を無意識のうちに願い、それが成就してしまったとき、母の支配は永遠に続くのである。)

○人格の構造
・子供の頃、いろいろな人と接する。その時に、相手の人とどのように接すればよいかを学び、同時に、相手の人の何かを取り入れる。そのような性格や行動パターンをこころの引き出しにしまっておく。そのようにして大人になる。
状況に応じて、どの性格や行動パターンを取り出すかを判断してコントロールしている部分もある。
各パターンは、微妙に異なって独立しているが、正常の場合には互いに連絡があり、記憶も共有している。家で子供と遊んでいる自分と会社で同僚と仕事をしている自分はかなり違うが、それでもお互いの記憶を共有しているし、どこか一貫性がある。
多重人格状態になると、こうした各パターン(これが人格である)が独立していて、記憶も共有されない場合も出てくる。およそ無関係な人格が出現するように見えるので周囲を驚かせる。
・こうした「独立した内部の人格」がなぜ生じるか。自分にとってあまりにつらいことがあると、解離をおこして自分を守ろうとする。「父親に性的虐待をうけている子供」は自分ではないと考えて、苦しみから逃れようとする。虐待の苦しみに耐える時間には別の人格になっていれば耐えやすい。こうして解離は固定化する。思春期になり一時解離は解消されたように見えても、青年期になり性的行動が始まると、昔の傷が痛みだし、解離が発生する。症状としては多重人格になる。

○トラウマが後に影響を及ぼし、症状を形成するほどのトラウマとなるためにはどのような条件が必要か?統合されないような別の人格が残ってしまうのはどのような場合か?
たとえば、とてもつらい目にあっても、そのことを乗り越えられる人と、いつまでも引きずる人がいる。違いはどこにあるか?
単純にいえば、その人が内部で処理できる程度のつらさならば問題にならないだろう。そして、自分では処理しきれない場合でも、周りの人が助けてくれたり、見守ってくれたりすれば、何とか乗り切れるだろう。
たとえばベトナム帰還兵。人殺しをした体験自体はトラウマとして充分なものであるが、もう一つ重要なのは、その体験をとのように解釈し納得できるかという問題である。
仲間の全員が疑いもなく正義の戦争だと信じて戦い、実際に敵は悪魔のように邪悪で、本国に帰ってからは英雄と讃えられていたならばどうだろう?殺人の場面は脳裏をよぎるだろうが、それでも大きなトラウマにはならないのではないか?
地震が起こったとき、死の恐怖は確かにある。しばらくの間は「また地面が揺れたらどうしよう」と考えて、過度に敏感になる。棚の上に物が置けない。小さな物音がしても眠りから覚める。
しかしそれだけではない。災害のあと、人間のさまざまな面を見せつけられる。父や母など自分の頼りにして信じていた人たちの、頼りにならず信じられず、喧嘩もして裏切りもする、そのような姿を見てしまうと、そのことが心の傷になる。また、自分は生き残ってあの人が死んだ、それはなぜなのかと考え続ける場合もある。そうしたことから、忘れていたはずの過去のトラウマが活性化される場合もある。(ドラマ「青い鳥」では、自分の身代わりに兄が死んだとき、その兄の死を嘆いていた母が「あなたが死ねばよかったのに」と考えていたのではないかと疑い、そのことがトラウマとなる。何が起こったかではなく、どう解釈したかが重要である。)
幼児期の性的虐待の場合、見知らぬ男が強姦をして去ってゆくのなら、それは大変なことに違いはないが、まだ納得できる可能性もある。そうした男は完全に悪人であると納得する方法があると思う。しかし普段は大好きな父が、自分にしてはならないはずのことをする。これをどう解釈して納得すればよいか。その時の父はいつもの父とは違うような気もする。母は知っていながら、「あなたが誘惑するからいけないのだ」と父の味方をする。母も大好きなのに、こんなことを言われたのではつらい。また、性的行為であるから、いくら嫌悪の感情があるとはいっても、微妙に性的興奮も混入するかもしれない。
このような状況になると、父も、母も、自分も、信じていたものなのに、信じられなくなる。しかし寄る辺ない子供は、やはり父母を頼るしかないし、普段はやさしいところもある。自分の体についても、否定するわけにもいかない。しかし、そのような行為が繰り返されることについては納得できない。
こうした場面で、解離が起こる。「父とそんなことになっているのは、よその女の子だ、自分とは関係がない」そう考えて乗り切ろうとする。
つまり、何か災難があっても、どうにかこうにか考えて自分なりに納得できればそれでよいのだろう。しかしどうしても納得できない場合、腑に落ちない場合、消化しきれない場合、解離が起こる。心の一部に、独立した部分が生じてしまう。それは全体に統合されずに残り、何かの刺激に接したときに、心の全体を乗っ取ってしまう。昔は狐つきのような憑依状態が多かった。現代ではむしろ多重人格の像をとる。マイルドな形では、記憶の断絶、離人、脱現実感、遁走などがみられる。内部の声が聞こえて命令されたり非難されたりもする。

●「納得できない、受け入れ難い」という点ではダブルバインドの話につながるだろう。

○痴呆病棟で、老人達の気持ちは、子供が親に対する気持ちに似ているだろう。生活機能が衰えているから職員に依存せざるをえない。おむつを替えてもらうなど、まさに子供の立場である。そのような状況で、職員の気まぐれが起こったらどうなるだろうか?一度の決定的なトラウマでなくても、持続して反復して起こる、無視や小さな虐待、無理解、そうしたことがどのような影響を与えるだろうか?
さらには、実際にはそのようなことがないとしても、痴呆患者はそうした虐待をうけたと「心的現実」を構成している場合がある。認知機能が落ちている。耳や目が悪くなっているし、記憶も弱くなっているので、どうしても被害的に物事を受け取りがちである。それを「痴呆だから仕方がない」としておいたのでは、そこから虐待に対する反応が生じてしまうだろう。それは抑うつであったり、ひねくれであったり、無為無欲であったりするだろう。

○トラウマがあっても、そのことについてどのように解釈できるか、それが大事。こう考えると、認知療法の構図と同じである。刺激→認知→感情。事件→認知→トラウマ。
そうした認知に影響を与え、助けになる周囲の人とはまず第一に家族である。それなのに、問題が家族にかかわるものであったなら一人で悩まなければならない。家族がそのような問題を隠そうとする場合さえある。「このことを人に言ったら承知しないぞ」と父に脅かされ、「あなたが悪いからよ」と母に断定されると、あとは解離くらいしか方法がない。
だから、トラウマの問題は家族機能の問題とも密接に関係する。ACの病理はこうしたところと関連している。

○老人にトラウマがないとは限らない。これまでの人生で潜伏していたトラウマにいま苦しんでいるかもしれない。
分裂病の幻聴が、一部は解離性障害による「他人格の声」の可能性があると言われている。同様に、痴呆の症状として、幻聴も妄想もあるだろうが、別の可能性もあるだろう。
それがたとえばトラウマの再燃である。またたとえば拘禁反応。痴呆だと知ったことによる心因反応。
宮崎事件で、いろいろと精神病的なことを語ったのは拘禁反応のせいであるとしたのが第一鑑定であった。
痴呆という器質的な病気に苦しむ人たちが、反応性の症状も重ねて持っている可能性はある。その部分については精神療法的な対応により軽減することが可能であるから、症状の成り立ちを見きわめる必要がある。たとえば、刺激の少なすぎる環境におかれて、ときどき刺激が与えられる、その場合にどのような反応が生じるか?拘禁反応や破瓜型分裂病者と類似の病理が発生する可能性がある。

○伝統的には、虐待があったという場合、その子供にも何か要因があったのではないかとまず疑う。性格問題や注意欠陥、多動など、養育者を虐待に導く何かの要因が子供の内部になかったか。これも大変大切な視点である。忘れてはいけない。

○過剰な同情は、患者の作話に巻き込まれているだけである。巻き込み・巻き込まれの病理を患者と共演してはいけない。

2685
本多ウラさんの悪循環
・破瓜型分裂病者の悪循環(薬と引きこもりと刺激。RとD。)
分裂気質→ドーパミンレセプター増加→刺激が増大してドーパミンが多すぎる状態になると→幻覚妄想状態(特に被害妄想)→ひどい目にあった、もう決してそんな